Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“新しいテレビ”の提案

2011-01-27 00:25:48 | 日記



さっき、BS-hiでイタリアの村で絵画修復をしている老人とその村の人びとの生活の番組を見た。

テレビの音を消してヘッドフォンでグールドの“ゴールドベルグ変奏曲”(2度目の録音)を聴きながら見たのだ。
とても快適だった。

それで思ったのだが、テレビは“音なし”の画面だけ見てればいい番組をつくってくれないだろうか。
つまり、“そのような”画像(のみ)の番組をつくってほしい。

昨夜、ぼくもみなさんと同じように、サッカー(対韓国戦)を見た。

それで、いつもスポーツ中継を見ていて思うのだが、あの“解説者”というのは何のためにいるのか。
どうして、アナウンサーと解説者のくだらない(わかりきった)おしゃべりを、“試合中”に、さらにスタジオでのどうでもいいおしゃべりまで聞かされるのか。

ぼくはかなり前に、“サッカー”を熱心に見ていた時期があったが、とりわけサッカーに詳しいわけじゃない。
しかし、試合中の“あの解説”程度のことは、画面を見ていれば誰にでも“わかる”ではないか。

むしろ、せっかく集中しているときに、間が抜けた“解説”をされるのは、興ざめである。
(しかも“気休め”ばかりである)

スポーツ中継を例に出したが、ニュース番組も同じだし、ドキュメント番組も同じである。

なにか“解説”しなければならない場合は、“文字”で表記すればよいではないか。
なにせ日本人の識字率は、世界有数であるらしい。


だいたいテレビに限らず、この世には、“おしゃべり”が過剰である。
電車内やホームのアナウンスも過剰である。

要するに、“うるさい”のである(笑;この“うるさい”をでっかい太字にしたいくらいだ)

ぼくは昔から、漫才とかお笑いをどうしても見る気になれない。
その“芸”がどうのこうの言う前に、“うるさい”のである(とくにあの関西弁が)

もちろんなにを言っているかききとれない“たけし的”おしゃべりも、“うるさい”。
“タモリ的”おしゃべりも、うんざりだ!

ところが、いまの<テレビ>が好きな人は、無意味な騒音が好きらしい。
ああ、街を歩けば、チンジャララ、へんな“アニメ声”が空から降ってくる。

“音楽”だって、のべつまくなしに聴いていれば(聴かされれば)、<うるさい>だけである。

だいいち、“耳が悪く”なる。(たぶん頭も悪くなる;笑)

たまに静寂のなかから、音楽が聴こえ、人の声が沁みてくるから、音が聴こえるのである。





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