昨日は、ぼくが大新聞コラムを批判したブログについて、コメントがきて、コメント欄での応酬があった。
そのあと、もうひとりの方からのコメントがあって、その返信にぼくは、“もうこういうことはやめてもいい”と書いた。
それで今、皮肉な気持で、天声人語と読売編集手帳を見た。
天声人語は、“まさに” 鶴岡八幡宮の銀杏の話題だった。
この話題を読売編集手帳が書いた記事をぼくは先日批判したのだ。
ぼくは、“歴史を認識する”とは、どういうことなのか?と書いた。
これらコラムの“歴史認識”は、歴史を認識していないのではないか?と書いた。
今日の天声人語に対しても同じ疑問を提起する。
わけのわからない“比喩”と“連想ゲーム”で、ほんとうに、出来事そのものの具体性を認識できるのであろうか?
“過去に起こったこと”に、現在において“向き合う(現前させる)”という言葉の働きは、これらコラムの”言説“のようなものでしかないのだろうか。
もしぼくたちが、あらゆる過去の事件について、ある具体性の本質を見ず、すべてを“ムード・ミュージック”のように聞き流すなら、<歴史>とは、どこにあるのだろうか。
まさにこの<歴史認識>というのは、<現在>への認識なのだ。
この現在にこそ、あらゆる時間と空間は殺到している。
今日の読売編集手帳には、日野啓三氏の名があった。
前にブログで書いたが、ぼくは日野氏の“最後の日々”の著書を連続して読んだ。
たしかにそこには、病室から見えた“東京タワー”のことが書いてあった。
問題は、そこで日野氏が見たものが、東京タワーだけではなかったことである。
読売編集手帳を引用する;
芥川賞作家で読売新聞の先輩記者でもあった日野啓三さんは、大病の手術後に鎮痛剤の作用で幻覚の中にいた時、現実の世界につなぎとめてくれたのは病室の窓から見える東京タワーの存在感だった、と書いている◆リリー・フランキーさんの私小説「東京タワー」も、こう書き出す。〈それはまるで、独楽の芯のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さっている。東京の中心に。日本の中心に。ボクらの憧れの中心に。〉◆東京タワーに淡く、あるいは深く、それぞれ思い入れを持つ人は多いだろう。その人たちは今、ちょっぴり複雑な気持ちかも知れない。建設中の東京スカイツリーが、今月中にも333メートルを超えるという◆ツリーはさらに伸び続け、完成すると634メートルになる。2倍近くも高さで抜かれる東京タワーを擬人化して心境を推し量れば、みるみるうちに大きくなった息子や娘を仰ぎ見る昭和世代の親、といったところか◆いずれ今日の若者たちはタワーよりはツリーを見上げ、様々に人生の思いを投影していくのだろう。タワー世代にとっては寂しいけれど、それはそれで楽しみなことでもある。(引用)
日野啓三氏の東京タワーは、“リード”として使用され、すぐ、“リリー・フランキーさん”の「東京タワー」とドッキングされる。
まるで、日野啓三とリリー・フランキーが、同じことを考えていたかのように。
こういうのを、ぼくは、“トリック”と感じる。
日野啓三氏にとって“東京タワー”は、《ボクらの憧れの中心》だったわけではない。
日野啓三氏の小説には、そんなことは書いてない。
《東京タワーを擬人化して心境を推し量れば、みるみるうちに大きくなった息子や娘を仰ぎ見る昭和世代の親、といったところか》
なぜ大新聞コラムの書き手は、“擬人化”が好きなのだろうか。
ぼくはこういう態度を“オカルト”と呼ぶ。
なにかを記述するとき、“擬人化”や“比喩”で語ることが、<文学的>ではないのだ。
<言葉>とは、もっとストレートに使用されるべきである。
ストレートで素朴な<意味>を担った言葉の群のなかで、“最小の比喩(レトリック)”が輝くのだ。
いつもいつも、“ストレートに語らない(語れない)”ひとは、レトリックでなにかを直視することを避け続けている。
自分の認識を追いつめず、いつもいつも曖昧なレトリックで、認識することを回避し続ける。
そこには、三流演歌的な混濁した情感しかありえないではないか。
ぼくたちにいま必用なのは、ストレートに見ることなのだ。
ストレートに読むことなのだ。
ストレートに話し、書き、関係することなのだ。
文章を読んでいて、直感的に何か感じるものがありましたので。
相変わらず拙い表現ですみませんが…
感じたのは、新聞記者が、ある次元で書き手としての自分自身の存在を抹消しようとしているのではないか?そうして書き手不在になった文章こそが、ここで批判される、本来あるべきものを欠いた、“不気味な何か”に姿を変えているのではないか?ということです。
不気味な、というのは時々新聞に感じるのですが、手応えのない不安、というか、何と言うか…
そうです、そういう風にも言えます。
あなたのこのコメントで<不気味な何か>と呼んだものをぼくも感じています。
しかしぼく自身も、ブログでこれだけ言葉をついやしても、<それ>が、わかってるわけでは、ありません(表現できているわけではありません)
ぼくの思考能力や言語能力も、未熟です。
まだまだ、足りません。
たとえば、”システム”なのか?”観念”なのか?という風に問うわけですが、そもそもその両者(システムとか観念)の意味と範囲を定めることができません。
キャッチフレーズ的に、”言葉の危機”といったように言うわけですが、言葉の危機は、<すべて>の危機であり、また、危機を認識することを、どう危機の乗り越えの方向へつなげるのかも、わかりません。
ぼくのような年代には、端的に未来が限られていることだけは確かです。
ぼくの望みは、なんとか若い人たちと共に読書し、考える場を持つことなのですが、そういう場さえ、まったく実現の手がかりもありません。
warmgunさんは、“かぷかぷ”さんのコメントに対してのコメントにあるような、“システム”や“言葉の危機”について、ブログで論ずればいいと思います。
はっきり言って、その日その日の編集手帳や天声人語への批判は、お世辞にも面白いとは言えません。
2、3日前には新聞の記事のみならず新聞記者にまで否定的な文章を書いていらっしゃいましたが、新聞記者の友人を持つ身としましては、非常に不快でした。彼はきまじめで酒も飲みませんし、少なくとも私生活において教養をひけらかすようなことはしません。新聞というメディアに載せる文章を書く難しさや、毎日ニュースを聞き、調べ、商品にし、人ごとのように忘れては新しいニュースの記事に取り掛かる、その辛さを語ったこともあります。彼に言わせると、“精神が荒んでいく”のだそうです。
また、“考えること”が人間であることの条件とおっしゃいますが、あなたの文章を読むと、“考えること”は、ごく一部の、高い水準の教育を受けた人間にしか可能ではないように思われます。
つまり、“正しい”言葉の意味と使い方、“正しい”歴史認識、といったものを身につけた人間です。
しかし、warmgunさんもご存知だとは思いますが、世界には言葉らしい言葉も持たず、“歴史”などという概念も知らない人生を送る民族がいます。あなたは、そうした人々をどのように考えるのでしょうか。
また、そこまで極端な例をあげなくとも、日本にも、金銭的な問題で高等教育をあきらめざるを得なかった人、生活苦に本も、新聞も読むことができず一生のほとんどを働くことで終える人も少なからずいるはずです。発展途上の国々へいけば、現実はさらに厳しいはずです。(そうした人々にとって、極東の島国の新聞の、手の平で隠れるような面積に印刷された文章のなかの、言葉の誤謬、引用の(あなたからみた)不当さをいちいち汚い文章で論うことにどんな意味があるのでしょうか)
そうした人々も、あなたの“条件”によって裁かれなくてはならないのですか?
私には、あなたのものの見方が、随分限定されたものであるように思います。
歴史認識ひとつとっても、それが正しい、とか、間違っている、などとは、そう簡単には言えないはずです。どんな人間であっても、時代や、制度、人種、国籍といった縛りから自由な歴史認識などできるはずがない、と私は思います。
編集手帳や、天声人語といった記事が毎日新聞に載り、その内容に疑問を持つこともない人がいる。そうした記事が毎日売れる。
そういった現実に疑問や不安を感じるのなら、疑問や不安を掘り下げるべきで、具体的な文章にたいする論いは何の解決にもならないと思います。
warmgunさんの目的が、ただ単に編集手帳や天声人語といった惰性的につづくコラムを糾弾することにあるなら、毎日の論いも有意義だとは思いますが。
ぼくがズレているかどうかは、ぼくにはわかりません。
あなたがズレていると思うなら、ズレているんでしょう。
ぼくには、いつもいつもズレていないことを書いているなどという自信はありません。
たしかに天声人語などのことを書くのは、自分でも飽きてきたので、今後は減ると思います。
ただぼくには、すべての読者に面白いブログを書くという意図も能力もありません。
このブログが面白くないひとは、読まなければいいのですから。
たしかにこれは、天声人語などのコラムにもいえることなので、ぼくもこのブログで取り上げないだけではなく、毎朝読んでしまうという悪習をやめたほうがいいですね。
どうもこのところ、ぼくのブログに対するコメントとして、ぼくの大新聞コラム批判に対する批判が続いていますね。
これは、ぼくが大新聞コラムに対するズレた批判を、“書きすぎている”ことに原因があるので、それは反省します。
しかし、ぼくのブログは、大新聞コラム批判とか世相批判(非難?)ばかりを書いているわけではないんですね。
ぼくの意図としては、大新聞コラムの言説とぼくが引用している言説のコントラストを出したかったわけ。
ああそれなのに、ぼくの大新聞コラム批判“だけ”が目立って、“それだけ”しか読まないような人々が“だけ”が読者なら、ぼくの意図は完全な失敗です。
たしかに、これは由々しき事態なので、そのような事態を引き起こした、自分の愚かさを深く反省いたします。
これからは、下手なコントラストや、愚かな“自分の感想”は最小にして、<引用>に徹しようと思います。
なんども言いますが、ぼくの引用は、自分の意見の代用品ではございません。
ぼく自身が、発見した(触発・啓発された)もの(つまりぼくがほとんどそれまで考えられなかったこと)を引用しています。
それがあなたの規準からズレていても、ぼくの知ったことではありません。
新聞記者を馬鹿にすることで、warmgunさんがどんなコントラストをだそうとなさったのか、どうやら愚鈍な私には理解できそうもありません。
また、天声人語、あるいは編集手帳の中の引用文、さらには天声人語や編集手帳の引用と、warmgunさんの引用する文章とを並べても、何か効果的な表現になるとは思えません。
余りにも文章、或は引用の種類、質に隔たりがあるように、感じられます。それともそれを、コントラストとおっしゃりたいのでしょうか?そんな自明の違いを?
編集手帳や天声人語と、warmgunさんの文章とを並べて読むことで、引用の適切さや、引用されることによる文章の効果における何等かの差異を見出だす、ということなら、まず、字数制限はあってしかるべきでしょう(天声人語、編集手帳と同じ字数)。また、編集手帳、天声人語があるニュースについてかたり、引用する文章である以上、同じニュースについての話題であることも当然必要です。
もし、あるニュースについて語る上で何等かの文章を引用する、という表現自体を否定するなら、あなたの、天声人語や編集手帳に対する引用は、何の説得力も持ち得ません。文章の本質に関わる表現自体を否定された文章の引用に対して、新たな引用をどれだけ並べても、両者は既に同じ土俵にはいないのですから。
よって、ああ、この文章は私の“基準”からズレているなぁ、などと“基準”のズレというものを感ずることもありません。
寧ろ、そういった“基準”があるならば、それは完全には排除不可能なものだと思います(“基準”とはニュアンスが異なるものと感じますが)。それを意識した状態で何等かの文章を読むなら、出来得る限りその“基準”を文章の“基準”に近づける、あるいは意識的に排除する(排除していることを意識している、という点においても完全には排除不可能なわけですが)ことが、その文章をより正確に、作者の意図したものに近い状態で読むことに繋がるはずです。
思いがけず、私が“ズレ”で言わんとしたことの本質が、warmgunさんの“基準”ということばによって明らかになりました。
つまり、warmgunさんは、編集手帳や天声人語を読む際、“基準”をずらしたり、意識することを忘れたようですね。
warmgunさんの文章を読んだ時に感じた違和感や、文章の内容と感ずるものの齟齬が、これで解消されました。
ありがとうございました。