Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

エイプリル

2010-04-01 12:56:01 | 日記


★ ――あなたは人間より樹木が見たいのでしょう? とドイツ系のアメリカ人女性がいって、パーティの人びとで埋まっている客間をつれ出し、広い渡り廊下からポーチを突っきって、広大な闇の前にみちびいた。<大江健三郎;“頭のいい「雨の木」”>


2010年4月、春である。

ぼくの住んでいるマンションのベランダ横に、今年も咲いた桜の列が見える。
ぼくの64回目の春である。

“だからどうした”であろうか?(笑)
子供たちは新学期を迎え、あたらしく“社会人”となる人々もいよう、転勤で引越しする人々もいる。
しかし、64回も春を迎えた者にとっては、春もまた繰り返される季節に過ぎない。

もしぼくが5年前の桜の写真を、ここに掲げたとしても、それを“今年の桜”と見分けるひとはいない。

“だからどうした”であろうか?(爆)

今日2010年4月1日にぼくがまずした作業は、新しい“読書計画”をたてることであった(笑)


★ ちょうどたまたま新しく居を定めたところが、男が猟銃で一家七人殺傷し自殺した事件のあった熊野市二木島から二つ手前の村新鹿(あたしか)だった事もあり、今年はひととおりでなく桜が眼についた。<中上健次;“桜川゛―『熊野集』>

★ 背筋をまっすぐにのばして目を閉じると、風のにおいがした。まるで果実ようなふくらみを持った風だった。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子のつぶだちがあった。果肉が空中で砕けると、種子はやわらかな散弾となって、僕の腕にのめりこんだ。そしてそのあとに微かな痛みが残った。<村上春樹:“めくらやなぎと眠る女”>


ここにいきなり、こういう“引用”をしても、ぼくが今なにを感じているかは、読者には、わからない。

だから、書くことは、言葉を“つらねる”ことである。


根気よいこのブログの<読者>は、ぼくが何度も同じ文章を引用していることを、“知っている”。

たとえ<ブログ>である以上、それが他者に“読まれる”文章である以上、ぼくは、それを“説明すること”にエネルギーを(労力を)惜しむわけではない(惜しんできたわけではない)

けれども、このぼくのブログが、<わからない>ひとや、<ずれている>と感じる方々が、多数いることも、わかっている。

しかし、“そういう読者”に、自分を“わからせる”ことや、ぼくがこの時代や状況や世間と“ずれていない”ブログを書くことは、どうして可能なのか?

どうして可能なのか?

“どうして”ぼくは、この<時代と場所>に生存している<多数>に、“わかってもらう”必要があるのか?
もしぼくが今書くことが、多数の人々の興味や共感を呼び、“アクセス数が増える”なら、ハッピーだろうか?

もちろん、ぼくは、自分が“ひねくれ者”であることや、“反時代的”であることを、誇示したいわけではない。
ぼくが<時代>からズレることを望んだのではなく、時代がぼくからズレていったのだ(笑)

さて、<ぼく=warmgun>ではなく、大江健三郎と村上春樹と中上健次は、“時代とズレている”のだろうか、いないのだろうか?

これが“このブログ”の問題提起である。

正確に覚えていないが、ぼくは大江健三郎を読むことを、「雨の木を聴く女たち」以後やめていた。
近年、その後のいくつかの短篇を読んだ。

今日の新しい春の読書計画として“雨の木”以降の大江の短篇集(あるいは短篇連作)を読むことにした;
☆ 1982『雨の木を聴く女たち』
☆ 1983『新しい人よ眼ざめよ』
☆ 1984『いかに木を殺すか』
☆ 1985『河馬に噛まれる』
☆ 1990『静かな生活』
☆ 1992『僕が本当に若かった頃』


この大江健三郎を“含む”今日から開始される読書の(4冊を同時に読む)最初のリストは以下のとおり;

A:内田隆三『国土論』(筑摩書店2002)
B:柄谷行人『トランスクリティーク-カントとマルクス-』(岩波書店2004)
C:堀田善衛『ゴヤⅠ-Ⅳ』(朝日文庫1994)
D:大江健三郎『雨の木を聴く女たち』(新潮文庫1986)




<追記;堀田善衛『ゴヤ』における、ゴヤの出身地サラゴーサの人々についてのエピソード>

★ しかし、たとえ自治の自由を失ったとはいうもののアラゴン人たちの自由への渇望、信仰の自由を守りたいという彼らの伝統は、つねに生き生きと息づいていたのであって、15世紀には、異端審問所の歴史に例を見ぬような事件をサラゴーサでひき起こしたこともあった。すなわち迫害にたえかねたユダヤ教からの改宗者たちが、この異端審問所の、大審問官ペドロ・デ・アルブエスなるものを引きずり出し、ラ・セオと呼ばれる、今日もなおサラゴーサに君臨する大聖堂の祭壇の前で殺害をしてしまった。

★ 別の機会にくわしく触れることがある筈であるが、この異端審問なるもの、中世の終わりと近世のはじまりの時期とを、火刑の火と血で塗りかためた異端審問なるものほどに、神の名において、あらゆる不義、不正、偽善、欺瞞、私利私欲、迷信、衒学、違法をば、また人間に考えられる限りのありとあらゆる種類の拷問そのものを、崇高な正義であり、美徳であるとして、何十万とも、その数さえも特定出来ぬほどの無実の人間を殺しつづけたものは、まず人間の歴史に、他にはあるまいと思われる。

★ そうしてここで短くつけ加えておきたいことは、この偽善と貪欲の混合物である異端審問と、スペインにはその例はほとんどなかったが、異端審問に付随した魔女裁判は、その出発から最終的な消滅まで、歴史の栄光を一身に担っている西欧のルネサンス運動及び宗教改革運動と軌を一にしていることである。エラスムスもマルティン・ルターも、この暗黒裁判の共犯者であったことを忘れてはならないであろう。彼らの西欧の歴史を、あまりに年代記的に、あるいは時代分割方式に執して理解をしてはならないのである。

★ サラゴーサ出身の聖職者として、もう一人、やはり特記しておかなければならないのは、15世紀の、アヴィニヨンの教皇ベネディクトゥス13世である。ここはそのための場でもないので詳しくは述べないが、この教皇は、サラゴーサの名家ルナ家一門の出であった。1414年から17年までかかったコンスタンツの公会議で、この教皇は仔細あって辞職を命ぜられたことがあった。ところが、このサラゴーサの「釘を与えられればトンカチでではなくて、自分のドタマで釘を打ち込む」と言われる頑固かつ強情無類の教皇は、辞職どころか、故郷アラゴンの、地中海岸のルナ家の別荘に帰って、実に彼一人だけを除いて、全世界を破門し、死ぬまで妥協をすることをしなかった。

★ところでこの全世界を敵として譲らなかった、サラゴーサのルナ家出身のベネディクトゥス13世が、1422年に死ぬまで立て籠もったペニスコーラなる小さな漁村は、サラゴーサの南東約180キロのところにあり、この村は地中海のなかに突き出た岩の上に、こびりつくようにして石造りの家々が層々と建っている村であった。そうして堡塁、あるいは海堡のように断崖の上に城を築いて頑張っていたのが、この教皇、あるいは反教皇の最後の城、最後の拠り所であった。
細かい砂地でやっと本土とつながっていて、ほとんど四面海のこの孤島状の小半島、あるいは岩は、まことに、千万人といえどもわれ行かんどころではなくて、われ一人正しくして、全世界を破門した男の中の男にふさわしい孤立ぶりであった。




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