★ 京に都があった頃、近江の国の辰巳橋に鬼が棲みついてそこを通りかかる人馬区別なく噛みちぎり取って食うという噂が近隣のみならず遠く東国まで伝わり、その辰巳橋を通らねば京へも浪速へも行けないと行き交う者らが困り果てていた。どこの土地でも無鉄砲な荒くれ者がいるが甲賀に住む者、この鬼の話を耳にして、ひとつ自分の名を天下に知らしめてやろうと朋輩の誰彼なしにやめておけ、愚かなことをするなと止めるのをきかず国で一番力が強い俺に鬼などは敵ではないと言い張って一人近江の辰巳橋に行き昼日中から人通りのとだえた橋のたもとまで来て、甲賀からやって来た荒くれ者だとどなろうとしてふと見ると橋の中ほどに欄干に手をあてて身を屈め胸が急に刺し込んで来たと苦しげに息をし呻いている赤い目もあやな着物を着た女がいるのに気づいた。
★ (……)荒くれ者はおまえに逢うてよかった、と言い、心なしか鬼への未練が切れたように、この刀も要らん、何もかも要らんと言って荒くれ者は女と会った時から運命のようなものだ、甲賀から出て来たのは鬼を退治に来たのではなく女と出逢い夫婦になるようなものだったと言うと、女は、もし私が鬼だったとしてもですか?と訊き、荒くれ者は女を抱き寄せ髪を撫ぜ女の脚を圧え込むようにして鬼だったとしてもとつぶやき、女がうれしいと胸に頬をすりよせるのを後ろから髪を撫ぜ、ふと手に髪がひっかかるのを異様に感じ胸に身をよせた女を起こして声を呑み呆然と見つめ、荒くれ者が女を声を出して払い枕元に置いてあった刀を取った途端錦紗の布に置いてあった観音に抜き払った刀のさやが当たってその勢いで小さな観音の首がコロコロと転がって襖に打ち当たる音が立ち、その音に女は眼ざめたように一瞬にして爪のとび出た鉄のような腕で荒くれ者の腹を引き裂き、跳び上がって刀を持った腕を二本ずつ上と下に生え出た鋭い歯で噛みちぎり、腕をとられ腹を裂かれ声も出せずに動くことも出来ぬ荒くれ者が息をし眼を見張ったまま呻いているのを舌でなめ両手で脚をちぎり喰い腹を唇ですするようにしてかじり、眼を見張ったままの生首をつかんで襖をあけると観音の首が先に転って下に落ちまるでその木の玉の観音の首を転がすように外へ放った。
★ 女は着物を着てから転がった観音の首をひらい錦紗の布に胴体とくっつけて包んでふところに入れ、転がった生首を使って姫君が遊ばぬように中納言にも言うし下働きの女らも気を使うようにと言い、近江の辰巳橋の方へ歩き出し、荒くれ者が観音の首を転がさなかったら自分が死んでいたと思って慈悲利益がついて廻るとつぶやいた。日が天から降りそそぐ花とも涙ともまがうほど眩く光っていた。
<中上建次“鬼の話”-『熊野集』>
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