Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ジャーナリストのいない国

2009-08-31 09:17:51 | 日記

みなさまご存知の通り、新聞にはその新聞を代表するコラムがある。
読売=編集手帳、朝日=天声人語、毎日=余録、日経=春秋、産経=産経抄、東京=筆洗などである。

今朝のこれらコラムを全部読んだが、話題はもちろんみな“センキョ”であり、なにひとつ感心する言葉を読むことはできなかった。

いちばん正直なのは、産経新聞コラムである;

▼ 構造改革に吹き始めた逆風に、肥大化した自民党と後継首相はあまりにもろかった。期待を裏切った政党に、容赦ない鉄槌(てっつい)を下す方法を、有権者に教えたのも元首相だ。国民に競争の重要性を説きながら、自分の議席はちゃっかり息子に譲り、世間をあきれさせもした。自らの言葉通り、「自民党をぶっつぶした」のだ。(産経抄)

しかし“自民党をぶっつぶした”ひとが、自分の息子を“自民党から”立候補させ、ぶっつぶれた自民党の議員として“継続”させるというのは、いかなる“条理”であろうか。

まったく正当性も、理性のかけらもない。
この小泉の息子を当選させた“有権者”は、恥じて死ななくて良いのだろうか。

民主党が、こんなに大勝できたのは、民主党が自民党とたいしてちがわないことを、賢明で自民大好きで、少しの変化も望まない心底保守的な日本の”多数“が知っているからだ。
もし民主党が自民党とちがうなら、“バンザイ”をやめろ。

なにしろ“歴史的に”革命を経験しない国なのである。
革命ではなく、改革とか構造改革とか言って、なにひとつ根底的に変える気はない。
ひたすら保身するだけの“大多数の国民”が、自分の小さな利権だけを追及するのみである。

前回の小泉“改革”選挙と今回の民主バカ勝ち選挙が意味するのは、この日本国民と呼ばれる人々の、底知れぬ“全体主義”的体質である。

イヴェントがあれば、ワッとむらがり、お祭さわぎして、後は知らない。
まったくなにひとつ“考える”という労力をはらわず、その日の気分で右往左往。
昆虫のような人びとである。

昨夜テレビのセンキョ番組を何時間も見続けて、無重力状態に陥るような虚脱感を覚えた。
まったくだれひとり、まともな言葉を発することができない。
ぼくはここ何年も、“地上波テレビ”を見ることを拒否しているのだが、久しぶりに見たテレビ村の住人の顔ぶれが全然変わっていない。
なぜぼくは、選挙番組で“ビートたけし”の顔を見、あの意味不明の喋りを聞かされなければならないのか。

なぜタレントが“政治”に張り付いているのか。
いったいどこに、政治について専門家として語る人、政治家と有権者の行動を共に批判する“ジャーナリスト”がいないのか。

鳩山代表が最初の記者会見を行ったとき、2,3の質問が終わったら、記者会見場が沈黙してしまった。
そこに居合わせ記者たちから質問が続かないのだ。
司会者?にうながされて、やっと次ぎの質問が出た。
いったいこの場にいた各メディアの“政治記者”というのは、自分の職業を何だと思っているのか。
良くも悪くも、このような歴史的変動の場にいて、新しい政権政党代表に対して、質問が殺到するのが“正常”だと考える。

それがジャーナリストのえげつないまでの“本能”あるいは“プロ意識”ではなかったか。
政治の場は、学校の教室ではないのである。

しかしこの自分の職業意識さえ希薄な“ジャーナリスト”とタレントの“大口”を、いつまでもいつまでも飽きずに見続け、聞き続けているのも、この“視聴者=日本国民”である。

こんなおろかな国が、どうして滅びないですむのか、ぼくにはまったくわからない。

非常に具体的なことを言うなら新聞はほっておくだけで死ぬから、あとはテレビを変えることである。
現在テレビに出ているひとと、スタッフを全員“解雇”すべきである。

そういう具体的なことが変わらなければ、“この国”は、変わらないことによって、ずるずると破局へ向かう(破局とは滅び去ることではなくて、腐ったまま存続することでもある)

《◆亀井勝一郎の「青春論」にいわく、〈人はしばしば、結婚してから失恋するものである〉。新しい伴侶の座を射止めた鳩山民主党ものぼせてはいられない。希望が失望に変わるとき、「赤い糸」ははかないものである。》(今日読売編集手帳)

この読売新聞の“ジャーナリスト”は、政治というものを“家族の比喩”でしか認識できない。
これはまったくの“虚偽”である。

この世界の関係、この世界のあらゆる社会の関係というのは、家族関係とはまったく異なる次元にある(家族関係に“あてはめて”、あるいは家族関係の“延長線上に”考えることはできない)
それは、“社会”や“政治”について考える、基礎の基礎である。

このことは、この読売“ジャーナリスト”が、恋愛や家族関係についても、まったくなにひとつ考えてこなかったことを暴露する。

“赤い糸”などというものは、存在しない。
存在すべきでもない。

ただ、私とあなたの、私とこの社会の、私とこの世界の、刻々変化する“関係”があるだけである。



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6 コメント

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同感 (ゆうゆう)
2009-09-03 01:37:58
こんにちわ!
共感!選挙報道みてませんでした。翌日の新聞を見て、何でこんな人に投票するの?アホバカ!と思いました。小泉、安部、福田などなど・・・。国民がアホやからアホな政治家が出て、アホなことばかりやっている。
 たけし、とかお笑いタレントがしたり顔でもの言ってるのを聞くと吐き気がする。
 翌日の記者会見で「質問は?」と聞かれて誰も質問しようとしなかったのには呆れてしまいました。私のようなばか娘?でも聞きたいことは?と問われれば即座に3つや4つや5つくらいは出てきます。

何でこんな程度の低い人間(ジャーナリスト)ばかりになってしまったのか?あっ!あまり人のことを言うと藪蛇になるかも・・・しれませんが。ちなみに私の高校2年になる姪は高知県をタカチ県と・・・何ともお粗末な話で・・・。ごめんなさい。
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Unknown (warmgun)
2009-09-03 06:50:57
やあ、ひさしぶりです。

とにかく“共感”してもらえると、うれしいよ(笑)
最近、ますます疑い深くって(うふふ)

ぼくも、困ったよ(大江健三郎的にいうと、“イーヨー困ったよ、一体なんだろうねえ?“って感じ)
やっぱブログ関係とか、掲示板関係って、まずいよね。(笑)

ゆうゆうさんは、畑仕事とかしてるんでしょう?
そういうのが、いいよ。

政治家-官僚-勝ち組企業-メディアが、“グル”なのは、とっくに分かっていたことだよね、大部分の“大学人”も。

まあ“昔”は、気骨あるジャーナリストとか、“知識人”とか、文化に理解ある企業人とかが、いたと思われたんだが、それはまだ時代が“ゆるい”感じだったので、こっちの批判力も“おっとり”してたんだね。
現在から“歴史的”にみれば、“もともと”駄目ジャン。

まあぼくも、現在、“世間が狭い”けどね。
だれがいちばんバカか?なんて考えていても、まったくしょうがない(笑)
もはや“病気”は、そういう次元を突破したと思う。

“総体的な痴呆化”が進行していると思う。
痴呆化が“総体的”なとき、当然、自分もその影響を受けるワケ。

だから、こっちも、よれよれの“神経戦”を強いられているんだが、ぼくとしては、“基礎から考える”というテーゼ=方法しか思いつかない。
それをどう具体化するかだね。

どうもいろんなレベルの“権力”にたいして、“アンチ言説”を展開するということそのものがダメみたいだ。
だから本来的な“批判”とは、どういうことなのかを考える。
このところ読書不能状態なんだが、快復したら(するだろうか?)立岩真也というひとを読みながら考える。

このひとは、“私的所有”や“分配”ということを問題にしている。
宗教的な“おおぶろしき”ではなく、もっと日常的、具体的な次元で、ぼくたちは、自分が持っているものに執着せず、他者に分配すべきではないか(立岩氏がそういう素朴なことをいっているかどうかは、知らない;笑)

少なくとも、ぼくは自分の読んだ本を“分配”する用意はある(笑)
むかし買った“ブランド服”も分配したいが、サイズがあう適当なひとを知らない。
もちろん“分配”は、モノだけにあらず。

まあこういうことも自己満足ではいかんわけだが。
ぼくもサラリーマン時代が霧の彼方にかすんで、“現実性”を喪っているのかもしれない。
しかし、最近ある“そば屋”で管理職サラリーマンと“部下”数人が飲んで食べているのに隣り合わせて、彼らの会話や雰囲気に吐き気がした。

ぼくは彼らに、“同情”なんかしない。
まさにぼくが“体験した”生き様だから、同情も共感も、ない。
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重症でなく危篤状態かも (ゆうゆう)
2009-09-03 08:05:37
よれよれの神経戦を展開するのもひとつの方法かもしれませんが、今のwarmgun氏は、かなりよれよれになっているような気がします。(もし違っていたらごめんなさい。)

1度、生きていく基本(つまり大地を耕したりするような、身体を使った生き方を(額に汗し)してみれば、違ったものが見えてくるかも・・・でも向き不向きがあるから・・・何とも言えませんが。

私は3年前、死に直面した時から自分の中で価値観がコペルニクス的に大転換しました。それまでは1日の大半をパソコンや読書などに使っていました。退院した時からパソコンの中の世界がバーチャルなあまりにバーチャルな世界であることに愕然としたのです。その時思ったのは、「大地に根差した生き方をしよう」と。

人間関係もパソコンの中で作られたものでなく、現実に今そこに、自分の隣にいる人達と作ることが大切ではないか。と思いました。アフリカの子供たちに支援をと聞いてもピンときません。自分の周りから少しずつ人間関係が広がっていくそれが、ひいては大きな輪になっていくのではないかと思いました。

だからと言ってパソコンの持つ世界をまったく否定しているわけではありません。ちなみに畑つくりといってもネズミの額ほどの面積しかありません。これは畑作りというよりもミニミニ家庭菜園です。でも今年の夏は葱とシソの葉は買わずにすみました。

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Unknown (warmgun)
2009-09-03 10:22:44
あまり軽く受けとってはまずいですが、そういうことだと思います(笑)

ただし、おっしゃるとおり“向き不向きがある”のです。
(ぼくは“神経戦”をしたいわけでは、まったくありません)
つまりぼくの素質と、現在のぼくの条件があるわけです。

たとえば、(ぼくはよく知りませんが)、ぼくが暮らしている東京郊外でも“家庭菜園”の土地を安く借りて作業をするのは可能なようです。
そういうひとがいてもかまいません(笑)
しかし、ぼくの感じでは、そういうのは、自分の土地を耕すというのとは、違うと思ってしまいます。

たしかに、単純に肉体を動かすのが苦手でもあります。
しかし本当に肉体を動かすのが楽しいと実感できるなら、どうしてぼくがそうしないことがあるでしょうか?

ぼくは自分がパソコンと本のある机の前に座っていること自体に意味があるとは、全然思っていません。
むしろそれを、“自分の条件”として、引き受けなければならないものだと感じます。

またぼくは現在、ケア関係のNPOでバイトしているので、ある程度は、身の回りから考える、とか、地域から共生をつくっていくというような“考え”と“実践”について、目撃しています。

まさに、“そこにおいて”限界を感じているのです。
つまり“質”の問題です。
あるいは、“理念(理想)が実現しない”のではなくて、その理念自体の基礎を問う、ということです。
たしかに“良い人”は、たくさんいます。
しかし“良い人”が、“悪い人”にやすやすと転換します(ひとごとではありません)
そういう“複雑性”が、人間だということだと思います。

だから自己弁護ではなく、ぼくはいかなる正義でも真理でも“ない”わけです。
しかし、だからといってあきらめるわけでは、ありません。

現在の“総痴呆化”の根源にあるのは、“模範解答がある”という、子供のころから叩き込まれた(家族で、学校で、会社で、社会で)“誤謬”にあると思います。
もし“模範解答がある”なら、人間には考えることも、感じることも必要なくなるのではないでしょうか。

ぼくは、この世のエリートにも庶民にも依拠しません。
ぼくに“意地”があるのなら、死ぬまでこのスタンスで、考え続けることだと思います。
もちろん、ぼくはそうとう“いいかげん”なので、神経衰弱で破滅することはないと思います(笑)
いま残念なのは、お金がなくて、松山とかにまた行けないこと、まだまだ海外に行きたいのに行けないことです。
ぼくは東京を出たり、日本を出ると、“体が動く”のです(笑)
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サルの正義 (ゆうゆう)
2009-09-04 00:59:14
14年か15年前に読んだ本『サルの正義』の中に書かれていた言葉を思い出しました。著者は呉智英という人です。

サルの正義
列子黄帝篇に朝三暮四の故事あり。猿を飼ふ男、その餌を減らさんことをはかり、猿どもに告げて曰く。汝らにどんぐりを与ふるに、朝は三にして暮は四にせば如何
。猿ども毛を逆立てて怒る。男、また告げて曰く、朝は四にして暮に三にせば如何。猿ども涙を流して喜べり。賢を称する者の愚なる者を籠絡することかくの如し、と。世を見るに、似非賢者跳梁し、愚者また時を得たるが如く跋扈す。理非を弁ぜず、朝三に怒り暮四を憎み、朝四に喜び暮三を願ふ。世の正義概ねこれなり。故に言ふ、猿の正義と。

サルどもがサルの正義をふりかざしている。・・・サルの正義は俗耳に入りやすい。人は毎日正義について考えているわけではない。それでも人は義に乾いている、正義を求めている。しかし正義は見えない。求めているのに得られなければ代用品にでも跳び付く。サルどもがサルの正義をふりかざせば、人はついこれに飛びつく。そしてその人もサルになっていく。

warmgun氏がくわを持って畑を耕している姿は、到底想像できませんです。

48歳で亡くなった哲学者の池田晶子氏(かなりの美人)は、哲学と言わずに考えると言っていました。考えて考えて考える人だったようです。

「金は天下の回りもの」というのは嘘ですね。ちっともこちらには回ってきません。それにしても変わった体質をお持ちなのですね。日常から離れる(旅に出る)と体が動くとか・・・。



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Unknown (warmgun)
2009-09-04 21:34:02
ゆうゆう様

★ “サルの正義”について
ぼくはあまり嫌いな生物というのはないんですが、“サル”(特に日本猿)はダメですね。
最近動物園に行ったことはありませんが、むかし行った時、猿のエリアがとても人気なのに驚きました。
ゴリラは大好きです。

★ warmgunが“くわを持って畑を耕している姿”について
ぼくにも想像できません(笑)
ただしぼくのサラリーマン生活の最後の数年は“在庫管理”(倉庫番)で、かなり重い機材の入出庫とかしていたので、かなりの肉体労働でした。
ぼくの全キャリアも、“知的労働”とか“文化産業”とかとは、無縁でした。

★ “哲学者の池田晶子氏(かなりの美人)”について
そうですね、写真で見ただけですが、“かなりの美人”(しかもぼくのタイプの)だと思いました。
なのに1冊買った著書を、ぜんぜん読んでないね。
なんか“ソクラテスのひと”みたいで、あまり読みたくならない。
しかしぼくよりはるかに若い人で、もう亡くなったんだから、かっこいいね(笑)
ぼくも“哲学”ということばにこだわる必要はないと思う。

★ 「金は天下の回りもの」&“変わった体質”について
そうだね(笑)
“だから”おカネとかを“持っている”ひとは<分配>すべきなのよ。
“変わった体質”(爆)、そうなのさ。
“夫婦”そろってね。
まったく、“ぼくら”のようなものが、よく、ここまで生き延びたと、自分でも感心します!
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