Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

オニチャ

2011-07-07 10:07:54 | 日記

★ オランダ・アフリカ・ラインの三百トンの老朽船スラバヤ号は、ジロンド河の濁った河口を離れると、アフリカ西南部への航路をとった。フィンタンは母を、初めてみるような気持で見つめていた。母がこんなに若々しく、持ったことはないが姉のようで、年齢もそう自分とは離れていないような気がした。そんな気持は今まで一度もなかっただろう。びっくりするような美しさとはいえないにしても、溌剌としていて、力強い。午後の終わりで、日光は、彼女の色の濃い髪を金色に輝かし、その横顔の線や、鼻といっしょにするどい角度をなしながら、ちょっとふくらんだ、秀でたひたいや、唇の輪郭、顎を浮きあがらせていた。肌には、果物の表層のように、透明なうぶ毛が生えていた。彼は母を見つめていた、その顔が好きだった。

★ 《アフリカなんかに行きたくない》そんなことを彼は、マウにも、オールリアお祖母さんにも、誰にも言ったことはなかった。むしろ彼は、それをとても望み、興奮し、マルセーユのオールリアお祖母さんの小さなアパルトマンでは眠れぬほどだった。ボルドーに向かう列車の中でも興奮し、夢中になっていた。今はもう、誰の声も聞きたくなかったし、顔も見たくなかった。順調に事を運ばせるためには、彼は眼を閉じ、耳をふさがなければならなかった。新しい人間、強い人間になりたかった。しゃべりもせず、泣きもせず、すぐどきどきするような心臓も、痛くなるような腹も持たない人間になりたかった。

★ あの人は英語を話すだろう、ふつうの男同様、眉間に二本の垂直な皺が刻まれているだろう、マウはもう今までの彼のママではなくなるだろう。旅の果て、向こうで待っている人は、絶対にぼくのパパではない。アフリカでいっしょに暮らそうと手紙をたくさん書いてきたが、まったく見知らぬ人なんだ。妻も子供もない男、ぜんぜん知らない人、会ったこともない人だ、とすると、なぜ彼は待っているんだろう?彼は名前を持っている、いい名前を持っている、ほんとうだ、ジョフロワ・アレンという名前だ。向こうに、旅のもう一つの端に着いたら、ぼくらはすぐに埠頭に降りるだろう、でもあの男は何も見ず、誰も見かけず、空しく自分の家に帰らなければならないだろう。

★ 夜、甲板では、風が吹き始めていた。大海の風がドアの下を吹き過ぎ、顔に激しくあたった。フィンタンは風に逆らって、船首の方に歩いていった。眼に浮かぶ涙は、波しぶきのように塩からかった。大地のきれぎれな思い出をむしりとる風のため、今、涙は思いのままに流れた。マルセーユのオールリアお祖母さんのアパルトマンでの生活、それ以前のサン・マルタン村での生活、山脈の向こう側、ストゥラ渓谷へ、サンタ・アンナをめざしての脱出行。風は吹きまくり、捥ぎ取り、涙を流させる。フィンタンは電球の光や、海や空の黒い空虚に驚かされながら、鉄板の壁にそって甲板を歩いていった。寒くはなかった。

<ル・クレジオ『オニチャ』(新潮社1993)>






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