Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ブンガクが分かる人とは誰か

2009-03-17 00:20:37 | 日記
今日(2/19)の“わが国を代表するメディア”の“へそ”を読もう;

まず読売新聞;

<2月19日付 編集手帳>
 原作の小説は夢中で読みふけったのに、映画には食指が動かない、そういう作品がある。猟奇殺人を描いたT・ハリス「羊たちの沈黙」や、恐竜が人を襲うM・クライトン「ジュラシック・パーク」は映画では見ていない。流血の場面を苦手にしている◆「いい年をして」「男のくせに」とばかにされても映画ならば見ずに済ます手もあるが、裁判員になるとそうもいかない。動悸(どうき)にあえぐ経験もするだろう◆東京都江東区のマンション自室で2部屋隣に住む女性を殺害した男に、きのう、東京地裁で無期懲役の判決が言い渡されたが、証拠調べでは遺体断片の写真が大型モニターに映し出されたという。そういう法廷にも裁判員は立ち会うことになる◆「市民の社会常識」をプロの裁判官が自前で身につけてくれさえすれば、心臓に悪い経験を市民が味わう必要もないわけで、アマの手を煩わせないと職務が全うできないプロとは何なのさ…と、制度の始まる前から愚痴のひとつも言ってみたくなる◆裁判員に選ばれたらきっと残酷な場面にも耐性ができて、見る映画の間口が広がるだろう。別に、うれしくもない。
(以上全文引用)

<感想>
まず、“「いい年をして」「男のくせに」”とばかにしたい。
ぼくはこうことを言う“男”が信じられない。
なぜ“流血の場面”を本で読むのは耐えられるのに、映画で見るのは耐えられないのだろうか?
しかもそれを裁判での“心臓に悪い経験”に結びつける。
しかし、裁判員制度の問題点はそんなところにはない。
もしそんなことで、裁判員制度から逃げるなら、ぼくたちは“現実”から逃げることになる。
“ガザ”では(あるいは世界の無数の場所で)、“残酷な場面”が日々現前している。
あるいは“残酷な場面”は、流血の惨事のみではない。
少なくともマスメディアで文章を書く人間が、“現実の残酷さ”から眼を背けて、いったいなにが“書ける”のか。

しかも、それだけではない。
この文章を書いている人は、“読書体験”と“映像体験”について、少しも考えていない。
それはどう違うのか、違わないのか。
この“映像”の時代に、この問題についてまったく鈍感であることは、あらゆる問題について鈍感であることである。
この筆者は“現代”に生きていない。
マスメディアで何かを書く人が、“現代の問題”に対する感性をまったく喪失して文章を書き続けることこそ、“眼を背けたくなる”場面なのである。

“残酷な場面を見ること”、残酷な場面を(文章であろうが、映像であろうが、想像であろうが)“直視すること”こそ必要である。
それは“残酷な場面にも耐性ができて、見る映画の間口が広がるだろう”などということとは、まったく違う。
それは<世界>を認識することによって、この世界の残虐を阻止するための第一歩にすぎない。
まさに、ほんとうに“残酷な場面”を<見る>ならば、けっして、それに対する“耐性”などというものが形成されるはずがない。
多くの映画の残酷な場面など、ただの赤インキをぶちまけた映像にすぎない。
“残酷な場面”を見ること、それに対する想像力を持ちうることこそ、“人間”としての最低のモラル(尊厳)である。
それを回避するのは、“ジャーナリスト”失格であるだけでなく、もちろん、 “男=man”であるはずがない。



次は天声人語;

ドイツの作家で医師でもあったカロッサは、第1次大戦に従軍して『ルーマニア日記』を書いた。軍医として人と戦争を冷静に見つめた日記を読んで、ある一節に傍線を引いたことがある▼それは一人の兵が、「無意味な榴弾(りゅうだん)の爆発のためにたちまち破裂してしまうようなものが、どんな精神的統一体だというのだ?」と、人間のはかなさを嘆く言葉である(高橋健二訳)。尊厳にみちた精神と肉体が、わずかな火薬で粉々に消える――。深い嘆きは、戦争という虚無への呪いでもあっただろう▼その一節を、イスラエルの文学賞、エルサレム賞を受賞した村上春樹さんの記念講演で思い出した。村上さんは人間を「壊れやすい卵」にたとえた。パレスチナ自治区ガザへの攻撃などで失われた命に、「割れた卵」を重ね合わせたようである▼透き通るような殻に、人を人たらしめるものが詰まっている。それが比喩(ひゆ)のイメージだろう。卵を砕く体制のことは「壁」になぞらえた。「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調したそうだ。そう、割れた卵は二度と元に戻らない▼イスラエルによるガザ攻撃では1300人が死亡した。受賞辞退を求める声も出たが、「沈黙より、メッセージを伝えることを選んだ」という。表現者としての重い決断だったに違いない▼殻より薄い皮膚に包まれた命を思えば、人が武器を向け合うむごさに想像の至らぬはずはない。村上さんの言葉が、憎悪の連鎖を断ち切れない大地に深く染みていってほしいと願う。
(以上全文引用)

<感想>
ぼくは村上春樹氏の発言が報じられてから、それを天声人語がどう扱うかを楽しみにしていた。

予想通りの文章が出た(笑)

天声人語はぼくの予想通り、村上氏の発言を、“読み間違えた”。
先日の村上氏の発言を再引用する;

★体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。
 また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。
(アサヒコム自体から引用)

★わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。
★高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。
★さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。
★ 壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。
(中國新聞掲載の発言要旨)


村上氏の“卵の比喩”は、たんに“壊れやすい”などということを言ってはいない。
卵が壊れやすいことは、わざわざ言うまでもないことである。
あるいはそれは、“人間のはかなさ”とか、“戦争という虚無”を詠嘆した言葉でもない。

まったくない。
それを読まなかったら、村上氏のこの発言を読んだことにはならない。

もし“この村上氏の発言の要旨を述べよ”という受験問題が出されたなら、天使人語の“読み”は落第である。

アサヒコムと中國新聞発言要旨では、ニュアンスのちがいがある(どっちが正確かはぼくにはわからないが)

アサヒコム記事では、村上氏が《どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ》と言ったとある。
ならば、“どんなに卵が間違っていても”という言葉に注目すべきだ。

また中國新聞記事には、《壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか》という発言がある。
《わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である》

《壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ》

非常に明確なメッセージが発せられている。

にもかかわらず、天声人語は、このように明確なメッセージさえ、“読み損なう”のだ。

村上氏のメッセージは、天声人語の言う“憎悪の連鎖”というような言葉の抽象性を拒否するために発せられている。

日々、読売=編集手帳や朝日=天声人語が発する言葉こそ、言葉を抽象化し(言葉から具体性を奪い)、すべてを曖昧な“庶民のたわごと(諦観)”に解消し、あらゆる現実を回避し(眼をそむけ)、結局、<壁=制度>の側に立ち、壁を補強し続けているのだ。

現在のマスメディアとは、<壁>の構成物に成り下がったのだ。
このいつもいつも“正しい”者たちは。


(2/19記)



<追記>

長いブログになって恐縮だが、上記を書いたあと二つのことを補足する必要を感じる。

① 上記でぼくは村上春樹の受賞スピーチを“支持し”、天声人語はそれを曲解した(理解していない)と書いた。
だが、ぼくは村上氏について、“このスピーチ”を支持したのであって、村上氏の“作品”がこのスピーチのような世界観を表出しているか否かについては、疑問をもっている。
ぼくは現在小森陽一氏の『村上春樹論』(平凡社新書2006)における、『海辺のカフカ』批判を読みかけである。
ぼくも『海辺のカフカ』には、はげしい違和感を感じた。
このことについては、村上氏の初夏に出ることが予告されている新長編を読んでから考えて見たい。


②“内田樹の研究室”ブログがこの村上春樹スピーチを取り上げている;

《そして、たいへん印象的な「壁と卵」の比喩に続く。
Between a high solid wall and a small egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg. Yes, no matter how right the wall may be, how wrong the egg, I will be standing with the egg.
「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」
このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。
たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。
こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。
彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。
しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。
経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。
そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。
それが「本態的に弱い」ということである。
村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。
それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である。
そして、村上春樹は間違いなく人間の「本態的な弱さ」を、あらゆる作品で、執拗なまでに書き続けてきた作家である。
『風の歌を聴け』にその最初の印象的なフレーズはすでに書き込まれている。
物語の中で、「僕」は「鼠」にこう告げる。
「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」
あらゆる人間は弱いのだ、と「僕」は“一般論”として言う。
「鼠」はその言葉に深く傷つく。
それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである。
「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」  
「ああ。」  
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。  
「嘘だと言ってくれないか?」  
鼠は真剣にそう言った。
(『風の歌を聴け』) 》
(以上引用)



内田樹氏は、“自分は文学がわかる”と言いたいらしい(笑)
たしかに内田氏は、天声人語より“文学がわかる”。
だが、そんなことは、なんの自慢にもならない。

ここで内田氏は、当然、村上春樹発言の、
《壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。》
に注目している(ぼくと同じだ)

しかし、その後がいただけない。

《それは「鼠」は、「一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さについて「僕」よりは多少多くを知っていたからである》
『風の歌を聴け』おける、主人公と“鼠”の会話である。

そうだろうか?
村上春樹は、『風の歌を聴け』を書いていた当時、“一般的な弱さ」とは異質な、酸のように人間を腐らせてゆく、残酷で無慈悲な弱さ”について、どれほど“知っていた”だろうか?
あるいは、春樹は、そのキャリアの過程で、そして『海辺のカフカ』にいたる“現在”において、“一般的でない弱さ”をどう認識し、それにどう立ち向っているのか。

ぼくが、他の現代作家たち(三島由紀夫や大江健三郎や中上健次や辺見庸など)を参照しながら“考えたい”のは、このことである。
つまり内田氏の言う;

《それは政治学の用語や哲学の用語では語ることができない。
「物語」だけが、それをかろうじて語ることができる。
弱さは文学だけが扱うことのできる特権的な主題である》

ということを、“文学”の内部だけでなく、“政治学や哲学の用語”との衝突のなかで、また、“ぼくの日常のこの現実”との衝突のなかで考え続けることを意味する。


(2/19記)


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