Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;選択する

2010-02-07 10:00:50 | 日記


生きることは、選択することであると言ったら、ある種の<哲学>を述べたことになるのだろうか。

そういうことを言った“哲学者”もいたよーであるから。
しかしぼくが考えたいのは、もっと日常的、具体的なことである。

<選択>といっても、<モノ>を選択することも、<観念>とか<生き方>を選択するということもあるから。
選挙では政党とか人を選択しなければならないのである。
国民投票が実施されれば、<憲法>を変えるのか、変えないのかという選択に迫られる。

考えようによっては、<選択できる>ということは、贅沢なことである。
“選挙”で政党や人を選択できない<社会>というものがあり、“配給制”で<商品>を選択できない社会があり、“禁止図書”で本を選択できない社会もあり、“政略結婚”で配偶者を選択できない社会もある。

だから、“日本国”とか“アメリカ国”の<自由>を讃美する方々は、<その選択の自由>を“いいつのる”のである。

要するに、たくさん<商品>があって、そこから<自由に選べる>のは、スンバラシイことである。

ぼくは<テレビ>というものを嫌悪し、そのCMというものが見たくないのだが、テレビが好きな人は、実はその“番組”ではなく、CMが好きなのである。
あのCMというものを、“毎日”見ていないと、“生きた心地がしない”のである(つまり生活のリズムですな)
ゆえに、“番組”自体がCMと区別できなくなったのである。

それどころか、“CM人間”とでも名づけるべき<人間>しかテレビでは見れなくなったのである。
つまり<脳>が、“CM化(メルトダウン)”してしまった人々である。
ぼくはこのような人々を、<メルトダウン人>と呼ぶことにした(いま思いついた)

この“メルトダウン人”は、テレビのなかにいるだけでなく、本を書いたりもしちゃうのである。
ここにおいて、<知の基本的諸配置>が、メルトダウンするわけである。
村上春樹という名の“知識人”も、すんごく売れた本の“続巻”を出すそうであり、それの初刷りが50万部とかであることが、<ニュース>になるわけである。
もうすでにこの“ニュース”が、<広告>である(ここでぼくが、ソー書くことが、加担である)

ぼくは“村上春樹を読むなら、スティーヴン・キングを読もう!”運動を展開したい(“キング”作品には、どーしようもないものも多いにしてもだ)

すなわち、“春樹を読むか、キングを読むか”という<選択>もあるのである。
アーザル・ナフィーシーというイラン女性は、『ロリータ』を<選択した>のである。

まあ<ドストエフスキー>を選択するひとや、<カフカ>を選択するひとや、<司馬遼太郎>を選択するひともいる。
ぼくは司馬遼太郎でなく、山本周五郎や大仏次郎を選択したい。

あるいは、<真理とデモクラシー>より、<ベンヤミンの希望>を選択したい。<注1>

ぼくはこういうことを、あまり“大仰に”考えたくない(大仰に考えてしまう傾向が、“ぼくにも”あるからである)

たかが<趣味>のちがいじゃないか?

しかしこの<趣味のちがい>ほど恐ろしいものもない(笑)

あるいは、“ある種の人々”は、この“趣味のちがい”というよーな<認識>を、そもそも、<軽薄>とか<マジじゃない>とか言ってしりぞけるであろう。

まったく、<あたま>とか<こころ>とか<たましい>とかが、かたい(固い、堅い、硬い)ひとというのは、こまったモンである。<注2>

そういうひとに限って、自分は“ナイーヴ”だとか、“公平公正”だとか、“自分はナイーヴではないがナイーヴなひとを評価できる”とか思っているのである。
あるいは、“そう見せかける”のが好きなのである。

(しかしそれなら、“彼ら”はなぜこのwarmgunを評価しないのだろうか?(笑)“ぼく”ほど単純素朴な人間はいない)

たぶん“彼ら”は、自分が信じているもの(ほんとうに信じてるの?)が、すこしでも“おびやかされる”のが、<怖い>のである。

かれらが“こわがらないですむ世界”を<保守>するために、かれらはちっぽけな<固定観念>に閉じこもり、ひたすらそれを死守するのみである。

その<固定観念>にアリバイをあたえる言説を、かき集め。

ぼくにとって、そういう態度は、<真理とデモクラシー>に反する、たんなる<保守主義(保身主義)>である。

“たかが趣味じゃないか”というぼくの発言は、だっから、“趣味があわなくてもよい”という、寛容と忍耐を意味しているのではないのである。

ぼくは、ぼくと趣味の合うひとを望まないわけではない。

あまりにも<悪趣味>なひとを見ると不快であったり、怒りを感じるという<不寛容>を克服できるわけでもない。

なるべくなら、“よい”(ぼくに良い趣味と感じられる)<選択>をしていただきたい。


そうだ、今日はひさしぶりの休み、<洗濯>しなくっちゃ。






<注1>

ぼくたちは、いつまでも、中学校で学級新聞をやっているのではないからである。



<注2>

自分のアタマはかたいのではないか?という疑問を感じるひとは、まさに、『ロリータ』を読むべきである。

『ロリータ』は、アタマのかたいひとには、理解不能の小説である。

その”背景”を理解したいひとには、なんどかぼくが引用した『ナボコフ自伝 記憶よ語れ』(晶文社)を薦めます。





<ナボコフ>

★赤ん坊の揺り籠は深淵の上で揺れているのだ。


★しかし、1917年の運命の夏のある夕暮れのことは、胸がはり裂けるような鮮明さで、いまも憶えている。どういうわけか夏の間別れたきりだったが、その日偶然郊外電車のなかでタマーラに会った。私たちはひと駅区間、数分、きしんで揺れる連結部に並んで立った。私は当惑し、後悔の念にさいなまれていた。彼女は固い棒チョコをひっきりなしに少しずつかじりながら、勤めている役所の話をつづけた。電車の片側は青っぽい沼地で、その上空では、泥炭の燃える黒い煙が壮大な琥珀色の落日の前にたなびいた雲とまざり合っていた。(略)後年ある時期私は、ジャスミンの匂う、気がちがったようにこおろぎの鳴いている、夕暮れの小さな駅に降りる前デッキの上で私をふり返った最後の瞬間のタマーラの姿には、この風景がふさわしかったと思ったこともあった。だがこのときの純粋な苦痛は、その後いろいろなことはあっても、いまでもはっきり感覚に残っている。


★するといま嬉しいことが起きる。ペン軸と覗き穴のなかの小宇宙とを想い出す過程が私の記憶力を最後の努力にかりたてる。私はもういちどコレットの犬の名前を想い出そうとする―と、果たせるかな、そのはるか遠い海岸のむこうから、夕陽に映える海水が足跡をひとつひとつ満たしてゆく過去のきらめく夕暮れの海岸をよぎって、ほら、ほら、こだましながら、震えながら、聞こえてくる。フロス、フロス、フロス!

<ナボコフ:『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』(晶文社1979)>




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