<飽和と不足の共存について>(立岩 真也 2012/08/20送付 生命倫理学会大会・大会長講演要旨 於:立命館大学)
以下、プログラムに記した御挨拶より。
★ このごろ、「生命倫理学」はそこにあって、あとは教育されたり普及されたりのものであるかのように見えてしまうことがあります。もちろん、議論すべきことがみな決着しているのであればそれにこしたことはなく、以後、啓蒙したり相談に乗ったりすればよいのでしょう。ただ、残念ながら、そんなことばかりでもなく、「倫理」について、それを論じるに際しての「事実」について、詰められていない、あるいは単純に知らないことがまだたくさんあるではないか。そしてそんなこんなの間に、生きるためのことを止めることやしないことは、なんだか当たり前のことになりつつあるようにも見えます。そんなことを、2011年度をもって終了し、これから大学内の研究センターとしての活動として引き継がれていくグローバルCOEプログラム<「生存学」創成拠点――障老病異と共に暮らす世界の創造>の活動を行っていく中で感じてきました。調べ、考え、報告し、議論する。それを続けていかねばなりません。学会とその大会はそのためにあるでしょう。そこで非力ながら会場校をお引き受けすることにしました。闊達な議論がなされることを期待します。
★ そんなことを感じ、考えています。では私自身は何を考えて、それでどうなったのか。それを限られた時間でお話しすることは難しく、書いたもの、これから書いていくものを読んでいただく他ないのだろうと思います。講演では、むしろ、なぜこのようなことになってきたのか、と私が思うのかについて、いくらかのことをお話してみたいと思います。
★ 倫理学が行なうのは、やはり基本、是非を論ずることでしょう。それがどれだけいまできているのだろうという思いが一方にあるのですが、その前にもう一つ、世界でなにが起こっているのか、過去に起こったのか、きちんと記録し記述するというごく基本的なことがあまりになされていないのではないか。もちろん様々が輸入され翻訳されてきて、それは随分の量になっているのですが、しかしやはり足りない。他方、わかりやすく読みやすくそして同時に(題名だけであったりするのですが)挑戦的であると称する本はおびただしい数出版され、読まれてもいるようです。そうした中で私は少数派であるように思えてしまうことがないでもなく(本当はそんなことはないとも思っているのですが)、しかしここで嘆きを語っても仕方がないのですから、冷静にこのかんのことを振り返り、こんなにすることがある(それは研究者にとってはおおいに歓迎な事態のはずです)と言おうと思います。
(以上引用)
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