Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

小さな物語と大きな物語;CHAOS

2009-11-12 03:13:18 | 日記
昨日はブログを書かなかった。
最近はブログを書かない日がたまにある。
ぼくはDoblogからはじめて今年gooに移行して5年間、2回の休止があったが、ほぼ毎日ブログを書いてきた。
日に何本も書くことも多かった。
初期のころは、それが“自然”だった。
1日のうちに何度も、比較的短いブログを書いた。
そのころ“瞬間のフィーリング”とか“即興(インプロビゼーション)”というようなことを言ったと思う。

最近も書けなくても、画像を出したりして、ブログのない日を避けるようにしてきたが、そういうことに“意味”があるかどうかは、わからない。

ブログを“書けない日”があることの単純な要因は、アルバイトに行く日が増えて、ひところよりヒマじゃなくなったからで、要するに、自分のパソコンの前に居る時間が減ったのである。

けれどもこういう私生活の変化を含んで、やはりぼくの“フィーリング”がまた今年、急激な変化に晒されていると感じる。

いちばん単純には(もうたびたび表明しているだろうが)、ぼくは日々世の中で起こっていること(事件!)への関心を失った。

そういうことは、“まずい”と思うのだが、どうしようもない。
それで下記ブログに“想像力はけっして<現物>におよばない”と書いた。

つまり“現実は(日々起こることは)つまらない”と感じることは、“想像力=認識力”の劣化だということをである。
つまりこれは一種の自己批判である。

しかし一方、“日々起こることを過剰に面白がる人々”へのぼくの違和感(嫌悪感)もリアルである。
犯罪事件報道や、人の死や、人の“冠婚葬祭”や、ゲームの結果などに、どうしてそんなに“関心を持てる”のかが、不可解である。

つまり、ぼくも長い間(そうとう長い間;笑)そういうことに“関心を持って”きたのだが、60歳を過ぎるころから、その<関心>が決定的に変わってきた。

まあ簡単に言えば、あきたのである。

ぼくはひところテレビで、そうとう色々なスポーツ中継を見ていた。
最近まったく見ない。
先週?ケーブルテレビでいつも見ている映画や海外ドラマがあまりにもつまらないので、ふだん行かないチャンネルへ次々に切りかえていたら、“ツール・ド・フランス”が写っていた。

この“ツール・ド・フランス”も昔見ていた時期があったが、ぼくはそれがいつ開催されるかも記憶していなかったので、それが生中継だと思って見ていて、録画であることに気づいた。
ぼくが見たのは(たぶん)今年の“ツール・ド・フランス”の最終日の前日と最終日であった。
これが面白かった(笑)
ひさしぶりで“スポーツ中継が面白い”と思い、ぼくはこの中継録画を真夜中眠いのに何時間も見つづけた。
今年の“ツール・ド・フランス”では日本人選手二人の活躍が特徴的だったらしいが、ぼくはそういうことに関心なく(笑)、やはり最終日中継の“パリの街”(特に俯瞰撮影の映像)に感銘を受けたのだ。

つまり“パリの街の俯瞰撮影映像”と“東京”との違いにである。
ぼくは単純に“パリは美しい!”と感動したのではない。
なぜこうも東京とパリはちがっているのか!と思ったのである。

つまり住む町がこれほどちがっているなら、住んでいるひとの心がちがうのは、当然であると“あらためて”認識した。
これはもちろん、“テレビ映像”の次元にあるのではなく、ぼくのささやかなヨーロッパ旅行体験(とくに北イタリア)による。

またさらに(行ったことがないが)スティーヴン・キングの“メイン州”とか、アーヴィングの“ニューハンプシャー州”とか、ガルシア=マルケスのカリブ海が見える村でもあるのだ。

そこは、<ちがっている>。

そこは、ぼくにとっての<外部>である。

それは<地理>の問題であろうか?
たとえば、ぼくは“パリ―19世紀の首都”を導入とするベンヤミンの『パサージュ論』5巻(岩波現代文庫)を読むことも可能である。

それは“地理=歴史”である。

つまりぼくは、日々起こる<事件>よりも、この<歴史=地理>にはげしく引きつけられる。

もっと言えば、ぼくは<この>ぼくが生きた60数年の“体験”を記述する<方法>を探している。

それは、“ぼくひとりの”体験ではありえないから、である。

ぼくは“ぼくという内面”だけで生きてきたのではない。
この社会、この世界と共に生きてきたのであり、それは<この場所とこの時間>だけではなかった。<注>

ぼくの脳内に蓄積された“フィーリング”は、やはり“世界的=chaos”であった。




<注>

“自分の内面だけに誠実な人々”には、自分の外部への想像力が決定的に欠けている。

あなたが、“この社会で”<はずれもの>であるか否かなど、なんの問題でもないのだ。

現在の<日本人>というのは、“ほぼ全員”が、じぶんを“はずれもの”と思っているような社会である。

その構成員全員が“自分をはずれもの”と思っている社会というのは、<論理矛盾>である(笑)


”私は<論理的に>など生きていない”のであろうか?

それなら<あなたの感情>は、大丈夫か!




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