ある一日に、ほくが読める量は少ない。
仕事に出る日なら読めない、家にいても家事や雑用があるから読めない、という意味ではない。
このごろ思うのだが、その日に読める“絶対量”のようなものの限界があるのだ。
それは、“体力”のようなものかもしれないし、“好奇心”の新鮮さのようなものかもしれない。
たしかに“面白い本”なら、寝食を忘れて(というほどでなくとも)読みふけるというようなことも、たまにはあった。
しかし、“面白い本”というのは何か?
というか、面白い本は、それを読んでいて“面白い!”と思うまで、面白くない。
なかなか、そういう本には巡りあわない。
たしかに、“若い頃”だけだったような気もする。
『樅の木は残った』とか、『IT』とか、『砂の惑星(デューン)』とか(もっと前なら『少年ケニヤ』とか)
タイトルも忘れたミステリやSFとか。
近年、比較的“夢中”だったのは、中上健次『熊野集』である。
一日に読める“絶対量”の話であった。
ぼくには、残り時間がそれほどないので、“読むべき本”を読んでしまおう、という“気分”がいつもある。
それで読む本の優先順位を定めるのだが、けっして、その順番に読めないのである。
ある本を読んでいて、参照されている本や人がいると、“そっち”が気になってくる。
そして“そっちのひと”の本や、“そっちに関する本”を(運悪く)所有していると、そっちに行ってしまう。
かくして“1冊の本”をなかなか読み終われない。
このような読書が、良いものであるはずがない。
だいいち、“その本”に書いてあったのか、“あの本”に書いてあったのか、忘れてしまうではないか。
閑話休題、という古い言い回しがある。
やっぱ、ベンヤミンを読もうか?
ベンヤミンから引用する;
★ 文学作品を、その時代のもつ連関のうちに叙述することこそが大切だ、というのではない。大切なのは、それが成立した時代のなかに、それを認識する時代――それはわれわれの時代である――を描き出すことなのだ。これによって文学は歴史の感覚器官となる。(「文学史と文学研究」1931)
<『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』(ちくま学芸文庫1996)の扉にある>
★ ツヨシは老婆らの心のうちを何となく分かった。親の代から住んでいた路地が立ちのきになり、立ちのき料がふところに入ったのを潮に、昔から名を聞いていたところを廻る、神社や皇居には奉仕をし、寺では練習しつづけていた御詠歌をやる、という目論見だったが、老婆の誰も、路地に帰りつく事を考えている者はなかった。ツヨシが、カーブを切った時に危ないという理由で冷凍トレーラーの中には、それぞれの蒲団と衣類それにどうしてもそばから離せないという小さな仏壇しか持ち込んではいけないと禁止したし、伴走のワゴン車の持ち主のマサオは、後の荷物入れに納まる程度の荷物だけと制限したので、長旅だというのに老婆らはそれぞれ風呂敷包み二個程度の物しか持っていなかった。後は七輪、炭、ナベ、茶わん、はしの類、ビニール袋に入った米。それに竹ほうきの布袋を加えれば、荷物入れは天上までいっぱいになった。
★ 橋の下を流れる川のわきから上って来た風に老婆らの髪が乱れ、スカートの裾がめくれかかる。川ぞいに遠くまで続く森の樹々の方から、神がいるという神社の静けさと、昼の光そのもののざわめきが、一団になって手をあわせる老婆らの周りに相反する流れの渦のようにかたまっている気がして、ツヨシは老婆らの気持を想い描く。
<中上健次『日輪の翼』(小学館文庫:中上健次選集(5)1999)>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます