Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

POP

2009-06-01 07:09:32 | 日記

先週のある日(5月28日である)、勧誘にやってきた朝日新聞を、妻がインターフォンでことわったので、その日の朝刊を郵便受けに入れていった。
そこで、久しぶりに“紙の”朝日新聞がぼくの机の脇に存在したのである。
昨夜になって、それをめくってみた。
特に変わりばえしていない、すでにWEB上で見た天声人語は、ぼくがその日に、“殴りたい”と書いた《政権交代という常道があるのだが、さて》であった。

目を引いたのは、いちばん内側にあった8ページわたるカラーの“広告特集”のみだった。
福山雅治という歌手と東芝、シチズン時計、TOKYO FMなどがタイアップした広告である。

別にめずらしいことじゃない。
ぼくがここで書きたいのは、企業広告と“骨がらみ”になった“音楽家”の批判ではなく、彼の“歌詞”の批判である。

あらかじめ言っておくが、ぼくは“福山雅治”というひとをまったく知らない。
1曲も意識的に聴いたことがない(つまり街を歩いていてこのひとの曲が耳に入ったことがあるかもしれないが、それが福山雅治の曲であると認識してないから)
また、その曲から離れて、“歌詞のみを批判する”というのはフェアじゃない。

しかしその曲を聴いたことがないので、ここではその“歌詞”のみを検討することになる。
この広告には福山雅治の歌詞が6個掲載され、そのサワリの部分がカラー写真内部に掲示されている。
さらにそのそれぞれの広告面に、“天声人語のような”レイアウトの文章が掲載されている。

それら全部をざっと読み、カラー写真をながめることで、ある印象が形成される。
この“印象”こそ、この広告を企画した人々の“メッセージ”である。

そもそも、この広告特集のトップにある言葉は、“セカイガ ツナガル”である。
以下にこのような文章がつづく;
《1960年代、ビートルズやローリング・ストーンズの出現は、
 音楽シーンに大きな衝撃を与えた。
 それらは鮮烈なメッセージを放ち、
 権力や社会と闘う術をもたない若者たちに、熱狂的なまでに支持された。
 音楽が世界を変えた瞬間だった。
 それから半世紀、音楽が発するメッセージとは―。
 その答えを知りたくて、福山雅治の歌詞をひも解いてみた・・・》(引用)

上記のようにあるのでぼくも、《その答えを知りたくて》この広告に掲載された福山雅治の歌詞を読んでみた。

なんなのこれ(爆)

まず(上にも書いたが)POPミュージックにおける“歌詞”が絶対だとは考えない。
それはその“音楽”の構成要素のひとつにすぎない。
まず歌詞とメロディーとリズムからなる“曲”が作成されるが、その曲は“生身”の個人、もしくは集団によって、パーフォームされる。
“曲”が完成品としてあるのではなく、“そのつど”実現されるのである。

しかし、まさに近年、ぼくは過去のロックと呼ばれるジャンルの曲の好きな曲の歌詞の翻訳を試みて、それらの“曲”における“歌詞”の“必然性”にびっくりしたのだ。

もっとわかりやすく言うと、英語の曲の場合、ぼくはその歌詞をきちんと理解した上で聴いてきたわけではない。
ところどころ聴き取れる“英語”で、なんとなくその曲の“意味”を想像していただけである。

訳してみて、“えっ、こんな意味だったの”と驚くこともあった。
しかし、ぼくはそのはじめて理解しえた歌詞と、それまでの不充分な聴き取りで想像していたその曲の意味との、“結びつきの必然性”にむしろ驚いたのである。

“この曲は、このような歌詞でなければならなかった”

たとえば、ディランの“コーヒー、もう一杯”である。
近日、イーグルスの“ホテル・カリフォルニア”にも感銘を受けた。
“ぼくの好きな曲”に、くだらない歌詞がついていたことなど、1曲もない。

日本語の歌詞の場合は、その“意味”がすぐ聴き取れてしまうのである。
ここに“福山雅治の歌詞”が日本語で掲載されていると、それを、ただちに読めてしまうのである。

ぼくははじめて、この歌詞を読んで、これが良いものだとは、感じられない。
あまりにも安易な歌詞だと思う。

ぼくが“安易”という形容詞を用いたのは、それが“単純=シンプル”であることとは“ちがう”からである。

ロックやポップスの歌詞が、“現代詩のように”複雑である必要はない。
ぼくが“ロックの詩”として評価するものも、“複雑な詩”であるとは限らない。
たとえばBEATLESの“Because”は、単純だが美しい。

たしかに“福山雅治の歌詞”も、いっけん、“同じよう”であるかに見える;

いつか生命(いのち)の旅
終わるその時も
祈るでしょう

あなたが憧れた
「あなた」であることを
(引用;「最愛」)

この詩は良い詩であろうか(笑)

たしかに詩は、理屈ではないのである。
まさに“理屈ではなく”上記のフレーズを読んだとき、ぼくは“居心地の悪さ”を感じる。

この“フレーズ”のみでは不充分なので、この「最愛」という詩の全文を読むと、この違和感は、ますます強化されてしまう。

このぼくの文章を読んでいる福山雅治のファンや“若者”には、“それはアンタが年寄りだからワカンナイのよ”と思われる方もあるだろう。

しかしぼくは、“そういうこと”を言っていない。
ぼくが、現在において聴いている“ロックの歌詞”も若かったのである。

“年齢”や“世代”の問題ではなく、ぼくは<詩>の話をしている。

《それらは鮮烈なメッセージを放ち、
 権力や社会と闘う術をもたない若者たちに、熱狂的なまでに支持された。
 音楽が世界を変えた瞬間だった》


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