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Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Nothing is real

2009-10-11 11:24:08 | 日記
最近またビートルズが売れているそうだが、ぼくがビートルズを“天才だなー”と思ったのは“Strawberry fields forever”を聴いた時だった(もう何十年前であろうか)
実は昨日ひさしぶりに聴いたのだ。

だって、この曲、どう考えても“曲”としてなりたちがたいでしょう?
なんかギリギリのところで成立している(いっぽ狂えば、まったくの失敗作、崩壊作)
それと、この曲の“ルーツ”がぜんぜんわかんない。
初期ビートルズはロックンロールが基盤で、そこに50年代POPSやイングリッシュ・トラッドやオールド・ダンス・ミュージックやオリエンタル-ラテン・ミュージックやバロック音楽のフレーバーをちりばめた“ごたまぜ”だったが、“現代音楽(無調?)”とかへの好みもあったんだろうか(“Tomorrow never knows”とかの変な曲もあった)
そういうもの全部が、もちろん、メンバー4人がそれまでの人生で耳にした音楽(の好み)の反映だったのだろう。

“Strawberry fields forever”は、そういうゴタマゼの崩壊のエッジで、新しい世界を出現させた。

この曲の“曲”は不可解だが(だが大好きだ)、“詞”は、かならずしも“不可解”ではない。
とくに昔からぼくの耳に残るのは、“nothing is real”というフレーズだった。

というわけで、話題は、ラカン-ジジェクにうつる(笑)

今日はエネルギー切れなので、“説明”しないで、“引用”する;

★ <現実界>と<象徴界>との関係については、最後にひとつだけ言っておきたい。それは、<象徴界>が<現実界>の不完全で不十分な記述ではないとすると、つまり、<現実界>を直接把握することができるとすると、主体としてのわたしたちは消え去ってしまうだろう、ということだ。

★ すべてのものが正確に本来あるべき姿であり、すべてが十全につかみとれるものなら、つまりあなたが見る世界とわたしが見る世界とのあいだに亀裂がないのなら、言いかえれば、あらゆるシニフィアンがあらゆるシニフィエに完全に合致しているなら、意味作用の連鎖は存在しない。そのとき存在するのは、<現実界>に完璧に対応した<象徴界>だけだろう。われわれを人間にするのは、もっと正確にいえばわれわれを主体にするのは、意味作用の連鎖と、それに対してわれわれがおこなう決断なのだが、それらは消えてしまい、ということはわれわれも一緒に消えてしまう。

★ エイズ危機はCIAの陰謀であり、人間はみな類人猿の一種であり、カイワレダイコンは野菜の世界の最高峰であり・・・・・・とすべての人の意見が一致するとしたら、われわれはもはや人間でも主体でもなく、<象徴秩序>の指令に盲目的に従うロボットか自動人形にすぎない。そうなっても、物質としての人間の肉体が溶け去るわけではないが、決断を下し選択をおこなう考える存在としては、われわれは雲散霧消してしまうだろう。

★ 一時間くらい車の運転を続けて、その一時間をまったく覚えていないことに突然気づくときの感覚は、おそらく主体の消失の経験に近いものだろう。ラカンの用語でいえば、あなたはこのとき自動人形となって、なにも考えずに自動的に、道路交通法というこの場合<象徴秩序>の一例であるものにしたがっていたのだ。あなたはたんに<象徴界>の一部になり、主体としては消えていた。

★ しかし、対向車線のトラックが事故でこちら側の車線に突っ込んできたら、これは<現実界>の浸入だろう。いったいどうしたらいいのか、ブレーキを踏むのか、ハンドルを切ってよけるのか、決めなければいけないし、こうした決断の瞬間、<現実界>の浸入にどう対処するかを選ぶときに、あなたはふたたび主体として立ち現れるのである。ジジェクはこの意味で、主体は<象徴界>と<現実界>のインターフェースに、境界線に存在すると論じている。単純にいえば、ふたつの世界のあいだになんの相互作用もないときには、主体はまったく存在しないのだ。

<トニー・マイヤーズ『スラヴォイ・ジジェク』(青土社2005)>






いかん、

風邪気味だ!




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