★ そもそも「記憶の可能性」には本質的な困難がひそんでいる。ふつうには、まず時間の流れによる事物の消滅や忘却、証人の死、新しい日常の堆積など、半ば自然の力に属す忘却へのベクトルがある。そしてまた過去を隠し、書き換える主体の恣意的な操作や暴力があるだろう。だが、記憶にとってもっとも深刻な困難は、記憶されるべき出来事そのものがはじめから記憶への挑戦として、「忘却の罠」として生起するときに生じる。歴史の決定的な局面においては、記憶の絶滅行為それ自身を記憶の対象にしなければならないという「不可能な構図」が暗い闇に向かって張り出されているのである。
★ 映画『ショアー』はそれを見る人びとにまさに「記憶の不可能性」そのものを記憶させようとしているようにみえる。この奇妙な記憶の形態は何か抽象的な感じを与える。だが、その「不可能性」は、淡々と流れていく映像の時間のなかで徐々にその暗い質量を増し、大きくせり上がり、それがわれわれの記憶の核心深くに宿っていることを思い知らせるようになる。これは、記憶を扱う方法としては、記憶の政治性をめぐる歴史家たちの分析とは異質な戦略であるといえよう。
★ ランズマンのこの戦略を考えるとき、それはおそらく三つの含意をもちうるだろう。一つは、アウシュビッツにかかわる記憶をナチス国家構築の論理から解放することである。もう一つは、その記憶がぎゃくにイスラエル国民国家の構築のために再利用される可能性を批判的に相対化することである。だが、これらの試みはいずれにしても、記憶を国民国家の構築とその維持に関連づけ、そのような構造の暴露や脱構築を目指した歴史家たちの仕事と同じ水準にある。
★ それゆえ第三の、そしてもっとも重要な含意は、記憶の領域をこのような政治的スキームを超えて問題にすることである。それは「記憶の可能性」を具体的な社会性の場で問うことである。すなわち、記憶の具体的な様態を通して、記憶を利用し、また再利用する政治的システムそのものの可能性を位置づけなおすことである。この問題設定は、歴史の分析、そしてその分析が活躍するために前提している政治学を自明のものにしない点で、記憶にかんする問いをべつの展望に解放するものである。それは分析の準拠点であり、分析のスタイルに近代性を付与する「国民国家」というイデオロギー性を帯びた枠組みから歴史の経験を解放することにつながっている。
★ 記憶を解放するとは、記憶を国民国家とは別の「政治学」に送り返すことではないし、またたんに記憶を「政治」から遊離させることでもないだろう。それは記憶をそれ自身の具体的な厚みにおいて問うことからはじめなければならない。記憶とは善かれ悪しかれ、われわれの内面に巻きつく親密だが曖昧な声である。記憶の政治的な文脈を相対化するだけでなく、その記憶を支える知覚の形態やまなざしの構造や思考の曲率を相対化することが大切ではないだろうか。すなわち、記憶がいかなる社会的な<場>と相関しており、そのなかで諸々の政治的投機や解読がいかにして可能性を宿しうるようになるのか、そのことを問わなければならないのである。
<内田隆三『国土論』(筑摩書房2002)>