Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

記憶にかんする問い

2013-05-25 13:59:29 | 日記

★ そもそも「記憶の可能性」には本質的な困難がひそんでいる。ふつうには、まず時間の流れによる事物の消滅や忘却、証人の死、新しい日常の堆積など、半ば自然の力に属す忘却へのベクトルがある。そしてまた過去を隠し、書き換える主体の恣意的な操作や暴力があるだろう。だが、記憶にとってもっとも深刻な困難は、記憶されるべき出来事そのものがはじめから記憶への挑戦として、「忘却の罠」として生起するときに生じる。歴史の決定的な局面においては、記憶の絶滅行為それ自身を記憶の対象にしなければならないという「不可能な構図」が暗い闇に向かって張り出されているのである。

★ 映画『ショアー』はそれを見る人びとにまさに「記憶の不可能性」そのものを記憶させようとしているようにみえる。この奇妙な記憶の形態は何か抽象的な感じを与える。だが、その「不可能性」は、淡々と流れていく映像の時間のなかで徐々にその暗い質量を増し、大きくせり上がり、それがわれわれの記憶の核心深くに宿っていることを思い知らせるようになる。これは、記憶を扱う方法としては、記憶の政治性をめぐる歴史家たちの分析とは異質な戦略であるといえよう。

★ ランズマンのこの戦略を考えるとき、それはおそらく三つの含意をもちうるだろう。一つは、アウシュビッツにかかわる記憶をナチス国家構築の論理から解放することである。もう一つは、その記憶がぎゃくにイスラエル国民国家の構築のために再利用される可能性を批判的に相対化することである。だが、これらの試みはいずれにしても、記憶を国民国家の構築とその維持に関連づけ、そのような構造の暴露や脱構築を目指した歴史家たちの仕事と同じ水準にある。

★ それゆえ第三の、そしてもっとも重要な含意は、記憶の領域をこのような政治的スキームを超えて問題にすることである。それは「記憶の可能性」を具体的な社会性の場で問うことである。すなわち、記憶の具体的な様態を通して、記憶を利用し、また再利用する政治的システムそのものの可能性を位置づけなおすことである。この問題設定は、歴史の分析、そしてその分析が活躍するために前提している政治学を自明のものにしない点で、記憶にかんする問いをべつの展望に解放するものである。それは分析の準拠点であり、分析のスタイルに近代性を付与する「国民国家」というイデオロギー性を帯びた枠組みから歴史の経験を解放することにつながっている。

★ 記憶を解放するとは、記憶を国民国家とは別の「政治学」に送り返すことではないし、またたんに記憶を「政治」から遊離させることでもないだろう。それは記憶をそれ自身の具体的な厚みにおいて問うことからはじめなければならない。記憶とは善かれ悪しかれ、われわれの内面に巻きつく親密だが曖昧な声である。記憶の政治的な文脈を相対化するだけでなく、その記憶を支える知覚の形態やまなざしの構造や思考の曲率を相対化することが大切ではないだろうか。すなわち、記憶がいかなる社会的な<場>と相関しており、そのなかで諸々の政治的投機や解読がいかにして可能性を宿しうるようになるのか、そのことを問わなければならないのである。

<内田隆三『国土論』(筑摩書房2002)>







2013-05-25 11:24:56 | 日記

★ 《 絵の鑑賞者が何を獲得するのかは、わたしにはまだ分からないが、画家の方は自分の職業の率直さを獲得する。彼は、偽装者が演じてみせる優越性や偽善を失い、色彩に夢中になって塗りたくる狂気のなかで自分を示すようになる。それが分かるようになるのは、最晩年の絵においてである。だがそのためにはレンブラントが自分のことを、肉体でできた一つの存在として認め、受け入れることが必要であった――肉体でできた、とは何を言うのだろう――つまりは肉、肉塊で、血で、涙で、汗で、糞で、知性と優しさで、さらにそれ以外の無限のものでできているのであって、そのどれも他のものを否定することなく、あるいはむしろどれもが他のものに挨拶を送っているのだ。 》(ジュネ;“小さな真四角に引き裂かれ便器に投げ込まれた一幅のレンブラントから残ったもの”)

★ 《 ではおまえの傷は、どこにあるのか。
  自尊心が攻撃されたり傷つけられたりしたときに、どんな人間でも避難して駆け込むあの秘密の傷はどこにあり、どこに隠れているのだろうか。あの傷――それはかくして心の内奥となるのだが――、それをこそ人は膨らまし、満たしてしまおうとする。どんな人間もこの傷に合体し、この傷そのものに、一種の秘められた痛々しい心になってしまう術を知っている。 》(ジュネ;“綱渡り芸人”)

★ 傷は存在の内奥に深く隠されている。しかし、同時に「それをこそ人は膨らまし、満たしてしまおうとする」。えぐり取られた部分は早急に充填され、膨らませなければならない。もしも存在の核心にあるのが、傷でありその傷を回復し満たしてしまおうという運動であるならば、存在の本質とは『レンブラントから残ったもの』で言われていた「堅固な空虚」であるに違いない。ここで重要なのは、ただ単に存在の核心は無であり穴であり空虚である、ということではない。そうではなくて、むしろこの「傷」が自分を覆い隠すものを分泌し、おのれを覆うものを隆起させ、堅固な殻で包み込むことにおいてしか存在しない以上、内部の露呈としての傷とその覆い隠しとしての傷は一つである。

★ まさにそれゆえにこそ、存在の内奥へと迫っていく探究が最後に傷に到達するときに、逆説的にも人はその傷の表層に、そして外部へと送り返されてしまうのである。芸術家は事物の真の姿を見えなくしている外側の覆いをどんどん剥ぎ取って核心に迫ろうとする。しかし、最後にその傷口を暴こうとする瞬間に、そこにあるのは無であり、そしてその空隙を埋め覆ってしまおうとする活動に立ち会い、そしてその活動が分泌してやまない表層の膜に、傷を覆うものに送り返される。深層は反転して表層になり、内部は外部に、真理であると思われたものは非-真理に裏返しになる。それゆえにこそ、偉大な芸術作品がわれわれに示すのは存在の最後の姿ではなく、逆に他の存在への果てしない送り返しに他ならない。

★ 《 美には傷以外の起源はない。この傷は特異で、各人各様であり、隠されていることも見えるものであることもあるが、そうしたものをどんな人間もおのれの内に宿しており、それを持ち続け、人間が世間を離れて一時的にせよ深い孤独に閉じこもろうとするときに、そこに身を引くのである。だから、こうした芸術と人が悲惨主義と呼ぶものとの間には遠く隔たりがある。ジャコメッティの芸術は、あらゆる存在やあらゆる事物のこの秘められた傷を発見しようと望んでいる。この傷がそれらの存在や事物を照らし、輝かさんがために。わたしにはそう思える。 》(ジュネ;“アルベルト・ジャコメッティのアトリエ”)

<梅木達郎『放浪文学論』(東北大学出版会1997)>