Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

女たち;“私らの家”

2013-05-17 13:42:44 | 日記

★ またべつの女たち、今の女よりも年上の女たちは、かまどがたった三個の黒ずんだ石なのがおかしくて笑っていた。ジャバル・フセイン(アンマン)で、女たちは笑いながら、このかまどを「私らの家」と呼んでいた。何という子供らしい声で、にこやかに「ダールナ」と言って、三つの石を、時には火の付いた燠を見せてくれたことだろう。この年老いた女たちはパレスチナの革命にも抵抗運動にも属していなかった。この女たちはもう希望することを止めた陽気さだった。その頭上を太陽は孤を描き続けていた。腕や指を伸ばすと、つねにいっそう細っそりした影が得られた。だがどこの土地の上にだろう。ヨルダン。これがフランス、イギリス、トルコ、アメリカが決めた行政・政治上のフィクションの行きついた先だった・・・・・・。「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、十六の時にはもう存在していなかったパレスチナを。

★ とはいえこの女たちにも、結局のところ一つの大地はあった。その下にでも上にでもなく、そこではちょっと動いても間違いになるような不安な空間のなかに女たちはいた。この上なく優雅な、八十過ぎのこの悲劇女優たちの、裸足の足の下の地面は堅固だっただろうか。次第にそうは言えなくなっていた。イスラエルの脅威の下をヘブロンから逃れてきた時にはここの地面はしっかりしているように思え、誰もが身軽になり、アラビア語のなかを官能的に動き回ったものだ。時が経つにつれてこの地面は感じるようになったらしい、元は農民だったパレスチナ人が動きというものを、歩き方、走り方、トランプのようにほとんど毎日配り直されるさまざまな思想のゲーム、武器の組み立て・分解・使用法を発見していくと同時に、パレスチナ人は次第に支えにくく、耐え難くなるということを。女たちは一人ずつ、かわるがわる発言する。彼女たちは笑っている。その一人の発言から一言報告しよう。
「英雄だと!冗談じゃない。私がこしらえて尻ひっぱたいてやったのが山に五、六人はおる。私さ、連中の尻拭いてやったのは。あの子らがどれほどのものかはよう分かっとる。それにあんなものならまだ作れるわ」

★ 相変わらず青い空を太陽はその曲線をたどり終えた。だがまだ暑い。この悲劇女優たちは記憶を探りつつ想像をめぐらす。表現力を増すために総合文の終わりに人差し指を突き立て、強調子音にアクセントを置く。ヨルダンの兵士が通りかかったら踊り上がることだろう、この文のリズムにベドウィンの舞踏のリズムを聞きとって。問答無用で、イスラエルの兵士なら、この女神たちを見るなり、頭蓋めがけて機銃掃射を浴びせるだろう。

<ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』(インスクリプト2010)>







2013-05-17 12:41:43 | 日記

★ 仲間は高校時代から、十津川村瀞で医者をしていた死んだ父親の遺産を手に入れ、一軒家に住み、本を大量に買い込み、レコードを買っていた。私はうらやましくてしょうがなかったのだった。今から思えば不思議な話であるが、私の居た土建業を営む義父の家では、本などなかったのである。貧乏で買えなかったのではなく、本を買うに足りる金、レコードを買うに足りる金を親に言えばくれもしたが、言い出せなかったし、また人が本を読む、人が音楽を聴くという習慣などその家にはなかった。本を読む、音楽を聴くとは衰弱した無用の者のやる事だ、という頭が、私の親にはあった。その時は、うらんだ。親らの無神経を、俗物性を、憎んだ。

★ その「水の行」の事件を聴いた時、思い出したのは、そのうらみ、憎しみである。血と血が重なり、腹と腹がこすれ合うここで、私が生活し続けていたら、私こそ、そのようにやっていただろうと思うのである。

★ 「水の行」とは、なにかの新興宗教に入っていた女が、男と。男の母、弟、妹を巻き込み、食う物も食わず、水を飲み、穢れを追い出す、と体をほうきやものさしでぶちあったという宗教にからんだ事件だった。妹が死んだ。

★ その事件を知ったのはもう三年にもなるが、私は、事件の当事者である女と、男を知っていた。女も男も、私と同年であり、女とは中学の時に同じクラスにいたこともある。男は文学仲間の家でよく会ったのだった。その新宮で起こった「水の行」は、さまざまな事を想起させる。言ってみれば、まちのどこを掘っても角のとれた丸い石しか出てこないという新宮でしか、起こらなかった出来事である。文学論風に言えば、性と宗教と暴力、それがことごとく包含されていると、思う。

★ 新宮は水の上にある土地である。そこで水よりも濃く、重く、ぬくもりのある血を持った人間が、四方を、山と川と海に囲まれ、生活している。夜、寝静まったこの土地に、海鳴りがする。その鳴りつづける水、あふれる水の方にではなく、“穢れ”は澱のように、草と木でつくった折りたたみできるような家の暗がりの中で、血のつまった体を持った人間の方に降りつもる。

★ 「水の行」の事件は、この土地の誰にでも起こることだ。そう思った。この「水の行」を、例えばこの紀伊半島を経巡る旅の途中で行き会うだろう差別、被差別という言葉に置き換えてみると、この「水の行」の事件は、新宮という土地のみならず、紀伊半島という半島の象徴にもなる気がする。いや、日本という国の象徴でもある。そのKという女性を知っていたからかもしれないが、穢れている、と人を打ちすえる者を差別者とするなら、差別者は美しい、と思う。この日本において、差別とは美意識の事でもあったはずだった。

<中上健次『紀州 木の国・根の国物語』(小学館文庫・中上健次選集3)1999>