Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

パレーシアとレトリック

2013-05-18 12:38:08 | 日記

★ まずは、古典古代の文化の内部で、パレーシアとパレーシアならざるものとの区別を付けておこう。フーコーがパレーシアと鋭く対立する実践と見なしているのは、「レトリック」である。パレーシアとは、端的に言えば、「真理を語ること」である。それに対して、レトリックの眼目は、「うまく語ること」にある。

★ パレーシアとレトリックの対照を際立たせるためには、それらの社会参加の在り方を比較するのがよい。

★ 第一に、パレーシアは、真理を語ることである。レトリックにおいては、語られたことが真理かどうかは二義的で、最も重要なことは語り方である。それに対して、パレーシアは、真/偽の分割を本源的なものとして前提にしている。パレーシアとは、ある事柄を率直に、そして明快に、いかなるごまかしや虚飾も抜きに語ることなのである。

★ 第二に、パレーシアという語り方は、個人的で内的な確信を言表することである。自分がまぎれもなく信じていることを語らなければならないのだ。それに対して、レトリックにおいて肝心なのは、自分が信じているかではなく、相手を信じさせること、つまりは説得することである。パレーシアとレトリックの対照は、語る者が信じているのか、語られる者が信じている(ことになる)のかの差異である。

★ 第三に、パレーシアは、しばしば危険にさらされる語りであり、その危険を引き受ける勇気を必要としている。パレーシアが危険なのは、真理は、しばしば他者の感情を傷つけるからである。それゆえ、真理を語ることは、他者の怒りや憎悪といった、他者からの否定的で攻撃的な反撃を引き起こす。それに対して、レトリックにおいては、他者に追従すること、他者の肯定的な反応を利用することが重要である。

<大澤真幸『生権力の思想』(ちくま新書2013)>