Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

アナーキーなことばの輝き

2013-05-24 01:06:55 | 日記

★ 雨が一滴も降らない長い乾季の農閑期の夜、あちこちの家の中庭の、満天の星の下で、夜ふけまで続く夜のまどい「ソアスガ」で語られるお話しの数々を聞いて、私はこの人たちの声としての言語の輝きにうたれた。(略)話したり歌ったりすることのプロでも何でもない、昼間は泥まみれになってかせいでいる、栄養不良も多いがきや娘やおばさんたちの、いったいどこからこんな素晴らしい声が、ことばが出てくるのか、私もむしろいぶかしさを抱いたくらいだ。

★ 文字を用いた学校の言語教育で画一化され規格化されることのなかった、アナーキーなことばの輝き――私はこのサバンナに生きる人たちの音声言語の美しさを、よくこういうことばで表現する。この人たちは学校で、文法書を使って「言語」を教わらなかった。文法とも辞書とも無縁に生きてきたので、この人たちにはいわゆる方言だけでなく、村語があり、家語が、自分語がある。ひとりひとりが自分で身につけたことばを、自分の発音で、それも吹きさらしのサバンナの屋外生活の多い毎日のなかで、よく通る大きな声で話すことを、幼いときからくりかえして育ってきたのだ。声が、ことばが輝いているのは当然だともいえる。

★ たしかに、村語や家語や自分語が、お上の定めた標準語で規格化されれば、ことばの通用する範囲はひろまるだろう。だがそれではことばが「通用する」とはどういうことなのか。そこで通用するのは、通用するように作られ、教えられた意味ではないのか。行政上の通達を「正しく」つまりお上が期待するように理解し、かなり広範囲の地域の人々が、規格化された意味を伝えあう――標準語を作り、それを教える初等教育を徹底することが、近代のいわゆる国民国家の形成と手をつないで進行したのは偶然ではない。

★ だがことばの「意味が伝わる」ということが実際には何層にもなっているという、考えてみればあたりまえの事実に私が「耳をひらかれた」のも、自分語で何のためらいもなくいきいきと自己表現をし、「意味の理解」ということが何層にもなった、言語内言語とでもいうべき太鼓ことばをもっているこのサバンナの人たちとのつきあいのなかでのことだ。学校で教わる標準語で方言や自分語が画一化されることで消えてしまう意味の伝達の側面が、人間の生きた声による伝えあいのなかには重要なものとしてある。

<川田順造“多言語主義とは何か”――『高校生のための現代思想エッセンス』(筑摩書房2007)>







主観的、一人称的、横断的な知

2013-05-24 00:11:36 | 日記

★ 福島第一原発事故が一つのきっかけとなり、関連専門家の事故発生直後の言動が、専門知識への不信感を倍増させたことはくり返すまでもない。この罪はたいへん重いのである。だがそれ以前に、学問研究への無制限な市場原理の導入と過度の専門化によって、研究者の視野が恐ろしくせまくなり、短期的成果にとらわれるという傾向が一般的につよまっていた。

★ その一方で、新たな知のかたちが芽ばえつつある。高等教育が普及し、ウェブ2.0が導入されて以来、ネットを通じて誰でも自分の主張を公表し、自由に意見を交換できるようになってきた。今後、縦割りの専門知とはちがったかたちで、非専門家をふくむ一般の人々による、横断的な知の形成の場が徐々にひらけていくことは間違いない。ソーシャルメディアの急速な発達とともに、エリートによる知の独占はますます困難になっていくだろう。
評判のネット集合知とはそういうものだ。とはいえ、目を凝らして集合知の内容をよく眺めてみよう。その実体はあまりはっきりしていない。

★ 現代人にとって、論理体系はいうまでもなく大切なものだ。法律にせよ、経済にせよ、科学技術にせよ、すべて論理体系をなしていて、論理なしには社会は崩壊してしまう。だから、客観世界のありさまを正確に三人称的に記述する大量の知識命題を集め、それらを機械的に、つまり個人的な主観による歪みを除いて演算的に処理すれば、理想的な知がえられると思いたくなる――少なくとも、そう信じこむ誘惑にかられるのも無理はない。
しかし、知とは本来、そういうものだろうか。

★ 知というのは、根源的には、生命体が生きるための実践活動と切り離せない。人間だけでなく、細胞をはじめあらゆる生命体は、一瞬、一瞬、リアルタイムで変動する環境条件のなかで生きぬこうともがいている。生命的な行動のルールは、遺伝的資質をふくめた自分の過去の身体経験にもとづいて、時々刻々、自分で動的に創りださなくてはならない。

★ だから生命体は、システム論的には自律システムなのである。コンピュータのように外部から静的な作動ルールをあたえられる他律システムとは成り立ちが違うのだ。生命体は自己循環的に行動ルールを決めるので、習慣性がうまれ、あたかも静的なルールにしたがうように見えるが、この本質的相違を忘れるととんでもないことになる。その先には混乱と衰亡しかないということだ。

★ つまり、知とは本来、主観的で一人称的なもののはずである。

★ 要するに、現実に地上に存在するのは、個々の人間の「主観性」だけなのだ。「客観世界」や、それを記述する「客観知」のほうが、むしろ人為的なツクリモノなのである。それらをまるでご神託のように尊重するのは、形式的論理主義を過信する現代人の妙な癖である。まずは、クオリアに彩られた生命的な主観世界から出発しなければならない。

★ では、客観知やそれらを結ぶ論理体系とはいったい何だろうか。――それは、集団行動生物であるわれわれ人間が、主観世界の食い違いのために闘争をくり返さないため、安全で便利な日常生活をおくるために、衆知をあわせて創りあげた一種の知恵のようなものだと考えられる。その内実は、さまざまな主観的な意味解釈のいわば上澄みにすぎないのだ。

★ 汎用人工知能が君臨すれば、人間の知は停滞してしまう。われわれの常識でも、ルールを機械的に墨守し、現実の細かい状況に即応しない態度は、融通のきかない官僚主義として排斥されていく。いわゆるITエージェントが、そういう社会的存在とならないように、よく注意しなくてはならない。

★ 切望されるのは、人間のコミュニケーションにおける身体的・暗黙知的な部分を照射し、人間集団を感性的な深層から活性化し、集団的な知としてまとめあげるためのマシンなのだ。

<西垣 通『集合知とは何か』(中公新書2013)>