★ これら(注:多神教の神々)は、どこへ行ってしまったのであろうか。キリスト教という一神教がこれらの命運を絶ち、さらに、イスラームがその仕上げをした。古代オリエント世界は、それによって姿を消したのである。問題は、それを多神教から一神教への「進歩」「発展」ととらえるのか、ということである。人類が、精霊崇拝などの「原始的」な宗教から、次第に次元の高い宗教へと移り、最終的に一神教に到達した、という発展のイメージは、19世紀のヨーロッパで、進歩史観とともに広がった。今日でも、私たちはそのイメージを引きずっている。
★ 私たちの知っている一神教とは、セム的一神教、すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの系譜であり、それはいずれも中東で生まれ、他の地域へ広がったものである。「セム的」という語は、ノアの一子セムに由来する。この一神教の預言者たちは、いずれもセムの子孫とされる。より客観的に言えば、「啓示」がセム諸語(モーセのヘブライ語、イエス・キリストのアラム語、ムハンマドのアラビア語)などを通して語られるため、「セム的」と言われる。セム的一神教の特徴は、唯一神と被造物を峻別する点にあるが、そのような一神教は、人類の宗教思想地図を描くと中東に固有の宗教であるように見える。
★ (……)歴史的に「肥沃な三日月地帯」と呼ばれているあたりで古くから二つの宗教的系譜として、多神教と一神教が対立し競合してきた、という点に注目すべきであるように思われる。というのは、唯一神が普遍的概念としてどこの地域でも発展すべきものだとするならば、なぜ、この地域でだけ一神教がこれほど強くなったのかという疑問があるからである。キリスト教世界では、自らの優位を確信するあまり、一神教が最終的に広がることについて「なぜ」という疑問は生じないかもしれないが、セム的一神教が中東に固有の文化的磁性を帯びていることは疑いを入れないように思う。
★ 旧約聖書の時代は、多神教の側が、常に優勢であった。しかし、キリスト教は、登場してから3世紀ほどでローマ帝国を宗教的に征服し、一神教の優位を確立した。イスラームは、7世紀に登場し、8世紀にはかつてなかったような広大な帝国を樹立した。その版図は、ローマ帝国を凌駕した。
★ イスラーム史の大家である後藤明氏は、これを「一神教革命」という概念で表わしている。キリスト教の出現とともに、地中海一帯に一神教革命が広がり、イスラームがそれを継続・発展させた、という。「革命」という表現は、魅力的である。革命は、ものごとが逆さまに転じることを意味する。それは以前との断絶も含意される。その意味では、キリスト教は、単にそれまでの旧約聖書的な伝統を発展させたわけではない。そこには、革命的な転換があった。そして、それによって、古代オリエントの多神教世界は消滅したのである。
★ イスラーム帝国を建設した原動力の中には、間違いなく、一神教としての宗教的側面が大きな位置を占めている。その原理がどこから来たかを問うとき、欧米の研究者は、ムハンマドがキリスト教やユダヤ教と接触して影響を受けたのではないか、という安易な伝播説に頼る傾向が強い。それを立証する事実の裏付けが薄弱なこともさることながら、文化の伝播で、あのような世界史を激変させる事態が生じうるという前提が間違いであろう。しかも、イスラームは帝国を建設したが、それ以前のユダヤ教もキリスト教も帝国を生んだわけではない。キリスト教は、ローマ帝国を自らのものに作り替えたにしても、それ自体は帝国の原理とはならなかった。したがって、伝播論は論拠が薄弱である。
★ イシュマエル(注:アブラハムの息子)の系譜は、アラビア語のイスマーイールという名となって南下し、アラブ人の祖先の中に繰り込まれた。
そしてこの一神教の系譜が、帝国の空白地帯(注:ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの空白地帯)で、自由に自らを展開したと考えるべきではないだろうか。「空白地帯」であることは、制約が少ないことを意味する。そのために、独自の価値体系が自己発現することになったと言うべきであろう。
<小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(講談社・興亡の世界史06-2006)>