《森駆けてきてほてりたるわが頬をうづめむとするに紫陽花くらし》
この歌は、有名な若き詩人が歌った。
東北の人。
“ぼく”も東北の人、であった。
しかしこのアイデンティティは、きわめて“いいかげん”である。
むしろぼくは、“埼玉県の人”であった。
あるいは中央線の街で大人になった。
すなわち、ぼくの“場所”は、いいかげんであった。
大江健三郎の“森の奥の村”や、中上建次の“路地”に匹敵できるような場所は、ぼくにはどこにもない。
しかし“森の奥の村や路地”も彼らがつくりあげた“幻想”であるなら、ぼくもまた“東北”と言ってみたい。
たとえば宮沢賢治は東北の人である。
しかしぼくは岩手県に行ったこともない。
《われに5月を》と言ったのは、5月に生まれ、5月に死んだ青森県の詩人であった。
★ 20才 僕は5月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
20才 僕は5月に誕生した
(引用)
上記の詩は、良い詩だろうか?
そんなに“良い詩”ではない。
だが、このようなナイーヴさ(率直さ)に、なにかを感じることはできる。
それは、これらの言葉を“取り囲むもの”との対比によってだ。
“ある時代の青春”、社会、その社会を埋め尽くす言葉の、ただ中。
しかもこの若い詩人は、“宣言”したいのだ、ひとつのマニフェストを。
これらの“言葉”を、ぼくは数日前、安藤礼二『光の曼荼羅』という本で見出した。
『光の曼荼羅』の“序”を読むのは2度目だった。
そこには、折口信夫(安藤礼二は折口を研究してデビューした“若い”評論家である)と中井英夫の関係が書かれており、中井によってデビューした寺山修司のことが書かれていた。
この『光の曼荼羅』では、折口を中心して、中井英夫、埴谷雄高、江戸川乱歩、稲垣足穂、南方熊楠らのことが書かれているらしい。
ぼくは、上記の<名>につまずいた。
ぼくの好きなひとがいないのである。
ただし、“好きなひとがいない”という意味は、それぞれちがっている。
たとえば、埴谷雄高というひとを、ぼくは、吉本隆明ととも、“かなり読んだ”時期があった(『死霊』でさえほとんど読んだ;意外に読みやすかった;笑)
しかし、埴谷と吉本の“コム・デ・ギャルソン論争”で完全に両者にしらけた。
また晩年の埴谷雄高と大岡昇平の対談集(岩波)にも幻滅した。
中井英夫、江戸川乱歩、稲垣足穂の<名>は知っているが(乱歩は子供のとき“ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団”は愛好したが)、さっぱり読んでみたいひとではなく、読んだこともない。
南方熊楠のみが、少し気になる。
やはり、いちばん“問題”なのは、折口信夫というひと“だけ”だろう。
ああ、それらの<名>のなかに、“寺山修司”の名を見出し、<われに5月を>のマニフェストを見出すのは、爽快であった。
寺山修司についても、ぼくは何度かブログに書き、引用もした(エレベーターに乗り合わせたことも書いた)
しかし、寺山が、“ぼくのアイドル”であったことはない。
寺山の映画も天井桟敷も好きではない(最高の寺山は、ラジオドラマであった)
しかし“東北の人”(笑)
『光の曼荼羅』によると寺山の最初の本『われに5月を』は、中井英夫により1957年に作品社より刊行された。
ところがぼくは、『われに5月を』が、自分の本棚の奥にあることを思い出した。
引っ張り出すと、1985年に思潮社から再刊されたものである。
しかもこの本は、ぼくが買ったのではない、母が買ったのだ。
この本を開くと、以下の“字”が読める;
《五月に咲いた 花だったのに
散ったのも五月でした》― 母
すなわち、寺山修司は、“母”より先に死ぬという、親不孝者だった(笑)
すくなくともぼくは、このような親不孝をしないですんだ。
ぼくは角川書店の友人を介して入手した、寺山自筆の歌をもっている(たぶんぼくが暗誦できる唯一の短歌)
《マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや》
しかしぼくが“ほんとうに”好きだった寺山の歌はほかにあった;
《とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられた少年の詩を》
《海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり》
《鰯雲なだれてくらき校廊にわれが瞞せし女教師が待つ》