★ 中上健次は最も身近な肉親に文字を知らぬ者を持つほとんど最後の作家だった。こういう作家が日本の文学にとってどれほど貴重な存在だったか、私たちはおそらくこれから徐々に身にしむように思い知ることになるだろう。
★ 中上健次によれば、口承とは母親の言葉、女たちの言葉である。つまり母性空間・路地は女たちの語りの声に満たされた口承の空間である。しかしそれは、文字の基底に口承を見出したということとは微妙に違った事態を意味する。
★ たとえば『千年の愉楽』という小説集を読む読者は、そこでオリュウノオバという母なる語り部の声によって路地という円満具足の時空そのものがみるみるうちに紡ぎ出されていく目覚しい光景に立ち合うはずだ。けれども、そのオリュウノオバの語る物語が、仏教説話やら貴種流離やらの文字に書かれた物語を参照していることも確かである。語りはあらかじめ文字に浸透されている。ただ、オリュウノオバの語りの声に乗せられるとき、それらの文字で書かれた無数の物語は、自在にほどかれ、編み直され、揺らぎ出すのである。だから声が文字の基底なのではない。声は揺らぐ文字なのだ。ここにも「底」はないのである。
★ 「説教節が、謡曲が、神と乞食、天皇との間を深く揺れるのは、語ることによってシンタクスから解かれてある自由さによる」(『紀州』-伊勢))――語りが自由で豊かなのは、そこではすべての記号が揺れているからだ。母性空間としての路地とはそういう揺らぎの場なのだといってもよい。
<井口時男“作家案内―中上健次 揺らぐ文字”――中上健次『化粧』(講談社文芸文庫1993)>