Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

揺らぎの場

2011-02-06 18:26:34 | 日記



★ 中上健次は最も身近な肉親に文字を知らぬ者を持つほとんど最後の作家だった。こういう作家が日本の文学にとってどれほど貴重な存在だったか、私たちはおそらくこれから徐々に身にしむように思い知ることになるだろう。

★ 中上健次によれば、口承とは母親の言葉、女たちの言葉である。つまり母性空間・路地は女たちの語りの声に満たされた口承の空間である。しかしそれは、文字の基底に口承を見出したということとは微妙に違った事態を意味する。

★ たとえば『千年の愉楽』という小説集を読む読者は、そこでオリュウノオバという母なる語り部の声によって路地という円満具足の時空そのものがみるみるうちに紡ぎ出されていく目覚しい光景に立ち合うはずだ。けれども、そのオリュウノオバの語る物語が、仏教説話やら貴種流離やらの文字に書かれた物語を参照していることも確かである。語りはあらかじめ文字に浸透されている。ただ、オリュウノオバの語りの声に乗せられるとき、それらの文字で書かれた無数の物語は、自在にほどかれ、編み直され、揺らぎ出すのである。だから声が文字の基底なのではない。声は揺らぐ文字なのだ。ここにも「底」はないのである。

★ 「説教節が、謡曲が、神と乞食、天皇との間を深く揺れるのは、語ることによってシンタクスから解かれてある自由さによる」(『紀州』-伊勢))――語りが自由で豊かなのは、そこではすべての記号が揺れているからだ。母性空間としての路地とはそういう揺らぎの場なのだといってもよい。

<井口時男“作家案内―中上健次 揺らぐ文字”――中上健次『化粧』(講談社文芸文庫1993)>






ホリエモンと永田洋子

2011-02-06 14:13:50 | 日記



ぼくは心身のコンディションがとってもいい、なんて日はほとんどないのだが、このところ特に低調である。
寒い時期は昔からそうだったが、昨夏は、夏に強いはずがメタメタになり、それ以後、ずっとおかしい、年末年始もひどい風邪のなかですごした。

あまり本が読めず、テレビを見る時間がどんどん増えている(テレビを見る時間の増加がぼくの不調のバロメーターである)

そして、テレビを見れば見るほど、憂鬱になる(笑)

つまり、個々の番組自体には良いものがあっても、その日見る番組の“組み合わせ”によって、浮かび上がる“現在の状況の総体”が、<憂鬱>である。
ひとことで言えば、あまりにも知性が欠けている。


しかしぼくは「朝まで生テレビ」は見ていない。
大昔、ずっと見ていた時期があった。
田原総一郎の顔は見たくないし、現在の出演者には魅力を感じない。


ところが今日の天木直人ブログ(“ホリエモンに感動した”)にこうあった;

昨日の早朝(午前4時ごろだったと思う)にテレビをつけたら朝まで生テレビが目に飛び込んできた。
 番組の終わりのほうであったので、それまでにどのような議論が行なわれていたかは知らないが、ホリエモンが中国や北朝鮮が攻めてくると考えるのは間違ってる、と力説していた姿に引き込まれた。
 彼が平和論者であるかどうかは知らない。
 彼が国際情勢の緻密な分析の上に立って力説しているのかどうかは分からない。
 しかし、最近の北朝鮮の行動や、中国脅威論が花盛りの中で、中国も北朝鮮も日本を攻めてこない、脅威ではない、と真顔で言う事は勇気がいる。
 しかも、ホリエモンは誰が何と言おうが、頑として主張し続けた。
 日本を攻めて何の得があるのか。そんな事をすれば世界が許さない。
日本を攻める事などできない。尖閣でも沖縄でも攻められるものなら攻めてみろ。攻めさせてみろ。中国や韓国は国際社会から袋叩きにあう。
そんな事が中国や北朝鮮にできるはずはない。するはずはない。
 そのあまりの剣幕に右派論客や司会の田原総一朗さえも沈黙せざるを得なかった。
 その光景を見た私は奇妙な感動を覚えた。
 そしてその奇妙な感動はやがて賞賛の感動へと変わった。
 これこそが私が求めていたものだ。
 いわゆる「おりこうさん」の護憲論者に欠けているのはこの粗雑さだ。
荒々しさだ。
 何よりも人に罵倒されてもひるまない愚直なまでの強い信念だ。
 政治家の護憲論は言葉だけの護憲論だ。
 平和が重要なのではなく平和を語る自分が偉いのだと考える者たちだ。
 だからその言葉に迫力がない。心に響かない。
 都合によって変節する。
 皮肉にもホリエモンの近くに座っていた辻元清美はついにひと言も発しなかった・・・
(以上引用)



それでホリエモンのウェブ・サイトを見たら、“朝まで生テレビの討論についての補足”という文章があって、ホリエモンはこう言っている;

☆ テレビ朝日「朝まで生テレビ」に久々に出演した。
テーマから脱線するのはこの番組の常であるが、「国を守る」云々の議論では私の出した前提があまりにも、いわゆる常識からかけ離れている事もあり、出演者のほとんどから異論が出まくりで私もマトモな説明を出来ずに終わってしまった。

☆ そもそも国防とは何か。ほとんどの人は国を守るのはなんとなく当たり前だと思っている(と思う)。だけど、本当にそうなのか?という疑問を常々持っていてそこを私は問いたかった。

☆ 「国を守る」というレベルの議論でも視点を変えればいろんな思考実験が出来る。いろんな考え方があって当たり前だと思う。しかし、多くの人は「常識」で考え異論を唱える人を「非常識」だといって迫害する。それはおかしいと私は考える。

☆ とまあ、いちいちこんな常識からかけ離れた事を議論しなきゃ四面楚歌で攻撃されたりはしないんだろうけど、やっぱり気になる事は言った方がいいと思うし、常識がいろんなものの邪魔をしていることは多いと思うから議論したくなっちゃうんです。そういう性格は小学校の頃から全然変わりません。
(以上ダイジェスト引用)


ぼくはホリエモンというひとが、好きではない。
よく知らないが、結局彼は、“新自由主義者”だと思う。

けれども、彼がここで、
《「国を守る」というレベルの議論でも視点を変えればいろんな思考実験が出来る。いろんな考え方があって当たり前だと思う。しかし、多くの人は「常識」で考え異論を唱える人を「非常識」だといって迫害する。それはおかしいと私は考える。》
と言っている“基本姿勢”は評価する(“感動”はしない、天木さん)


天木直人さんが感動してしまうのは、現在のテレビでは、<常識>を、クソのような常識のみを、“言いふらす”ひとしか見れないからだ。


けれどもSNSかどうかは知らないが、“この世界の現実(リアル)”が、現在の全メディア体制を、根底から崩壊させる日は近いと感じる。
(“現在”はまだダメだ)

現在の新聞社を中心とするメディア体制と、そこに巣食う“無駄話屋”は、存在できなくなる。


たとえば、現在チュニジアから始まり、“エジプト”などで起こっていることは、<世界>を変える。
注目すべきは、イスラエルの動向である。


もちろん“日本”は、“井の中の蛙”である状態<注>から、無理やりにでも、白日のもとに叩き出される。

それは“幸福な”状態<注>ではないだろう。
しかし“現在の虚偽”が維持できないということは、<嘘の少ない世界>へ向かうことではあるだろ。


“永田洋子”が死んだ。
ぼくは、彼女になにひとつ共感しない。
しかし、ぼくと“同じ年”を生きたひとが死んだことを、思う。

それは、“ホリエモン”の名を知っていても、“永田洋子”の名を知らない人とは、<別の世界観>である。




<注:翌朝わざわざ注記>

現在の日本には保護者がいる。