Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

とても国民には言えない理由

2011-02-23 12:00:33 | 日記


沖縄の米軍基地。

この沖縄の米軍基地問題について、内田樹最新ブログが書いている。

すなわち、沖縄に米軍基地が“ある”ことの、<とても国民には言えないような理由>について―引用する(今回はこの内容にほぼ賛成なのでぼくのコメントは控える);

☆「とても国民には言えないような理由」とは何か。
それが「非核三原則により、ないことになっている」核兵器でないとすれば、残りは一つしかない。
それは「沖縄がアメリカの在外基地の中でもっとも快適で、もっとも安全で、もっともコストの安い基地だから」というものである。
米軍基地は東アジア全域で縮小されているが、その大きな理由は、駐留先からの「出て行ってくれ」という激しい要求に屈服したせいである。
基地の外に出るとどこでも敵意にみちた視線を浴びる、というのが今のアメリカの在外基地兵士たちのの実情である。
前にも書いたが、アメリカの軍事的パートナーである韓国の軍人たちへのアンケートで「一番嫌いな国」の第一位はアメリカであり、「これから戦争する可能性がある国」の第一位もアメリカである。
それが38度線を抱えた臨戦国家の兵士たちの、同盟国に対するリアルな感情である。
他国においておや。
だから、フィリピンでも、韓国でも、1990年代から米軍基地は急ピッチで縮小されることになったのである。
その中にあって、一人日本だけがいまだに「在日米軍基地は必要だ」ということを政治家も官僚もメディアも言い募っている。
そんな国はもう東アジアでは日本しかない。

☆アメリカ軍にとって、日本列島はいまや「世界で一番居心地のいい場所」、たぶん世界で最後に残されたアメリカ軍ご用達の「リゾート」なのである。
ここを追い出されたら、もう行くところがない。
だから、いる。
その程度の理由で米軍は沖縄に基地を置いている。
それを知って、鳩山さんは 呆然としたのである。
というのが、私の推理である。
まさか、「沖繩は快適なリゾートだから、出たくない」というような「本音」を公的にアナウンスするわけにはゆかない。
それは「日本はアメリカの属国です」という天下周知で、日本人だけが知らないふりをしている「事実」を認めることになるからである。
しかたがないので、「抑止力」という手垢のついた用語を一時の方便に使った。
そういうことではないかと思う。
もちろんこれは素人の床屋政談に過ぎない。
けれども、「方便」の語義について、私の解釈以上に説得力のある解釈があれば、誰か教えて欲しい。

☆メディアの解釈は「鳩山の言うことには何の意味もない」というところで停止している。
沖縄のことについては何も考えたくない、というメディアの気持ちは私にもわかる。
日米がイーブンパートナーではないということを受け容れない限り、沖縄で起きていることは説明できないからだ。
そのことを認めるのが日本のエスタブリッシュメントにとってはたぶんきわめて不快なのであろう。
だが、どれほど不愉快であろうと、そこから話をはじめなければ、私たちはどこへも行けない。
(以上引用)






“モダン”と“ポストモダン”;素敵な勘違い

2011-02-23 09:20:46 | 日記


先日、“100ページ”での感想を書いた宮台真司『日本の難点』(幻冬社新書2009)を読み続け226ページまできた。

この本についてなにか言うとき、二つの“論点”がある。

ひとつは、この本が出た2009年4月という“時点”である。

おどろくべきことは、この2009年4月が、そんなに昔ではないにもかかわらず、“はるかな昔”に感じられることだ。
《オバマのアメリカ》
《リーマン・ブラザーズ》
《ネオコン》
《裁判員制度》
などなどの“時事的”話題である。

宮台真司氏は、これらの“時事的話題”をどんどん取り上げて語る、それはある一貫した記述であるよりも、“トピック対応”的である。
しかし、もちろん、宮台氏は、“社会システム理論”という<理論>を語っていると称している。

たとえばこうである;

★ 僕の社会システム理論に影響を与えた二クラス・ルーマンの法に関する思考も、ハートの考え方をシステム理論の用語で言い換えたものです。その意味で卓越主義的リベラリズムの立場に立つのは当然なのです。(引用)

この“引用”部分をこれだけ読んでも、わからない。
たしかに宮台は、“社会システム理論”についても、“卓越主義的リベラリズム”についてもこの本で“説明”している。

その“説明”で、読者が“わかる”かどうかは、かならずしも宮台の“責任”ではない。

しかし、まず上記の文については(ついても)、ぼくには疑問がある;
《僕の社会システム理論に影響を与えた二クラス・ルーマン》という記述。
そうではないだろう。
宮台が“いろんな”(社会学に限らない)<理論>を勉強して、“二クラス・ルーマンの社会システム論”に影響を受けたのである。

どうも、宮台氏には、謙虚さが足りない(笑)

“しかし”、宮台のこの本には、たしかに“考えるべきこと”がたくさん(あまりにも多く!)書いてある。
また、宮台がときどき“自分の立場(立ち位置)”を言明しているのは、フェアだろう。
たとえばぼくがわりと読んできた大澤真幸には、その状況分析は面白くても、彼の立ち位置がいまいち不明であるという“難点”がある。

たとえば、宮台は書いている;

★ ちなみに、ぼく自身は元々の意味での新自由主義者です。

この《元々の意味での新自由主義》というのは、《「小さな政府」&「大きな社会」の枠組み》だそうだ。
《「小さな政府」で行くぶん「大きな社会」で包摂せよ》ということである。

ぼくはこのキャッチフレーズを見て、立岩真也の《分配する最小国家》を思い出した。
この“キャッチ”においても、ぼくは立岩の方が“好き”である。

なぜなら、宮台の“政府―社会”という把握には、“国家”が出てこないからである。

この宮台の本にフィックスすれば、まだまだ“あらゆる論点”がある(だろう)
ぼくは、“それ”を考える。
しかし、最初に書いたように、2009年4月と2011年2月が“まったく隔たってしまった”ことも事実である。

たとえば、“中東革命”から“中国革命(の可能性と不可能性)”の<現在>において、《オバマのアメリカ》は限りなく影がうすい。

まさに<それ>は、沖縄の米軍基地の問題であり、宮台の言う《重武装》<追記>の不可能性の問題である。


“しかし”、ぼく=warmgunには、あらゆる“社会学(社会科学)的理論”の蓄積はないが(爆)、宮台のようなひとよりも、“時代の核心をとらえうる”野心があるのである。

ぼくの現在の“モチーフ”は、ひとつの“収斂点”を感知している。
それはタイトルに掲げた<“モダン”と“ポストモダン”>である。


この<問題>は、まず“世界的”である。
その上で、“日本的特殊性”は当然考慮される。


たとえば、北海道国語教師・堀裕嗣ブログ(“「青春の終焉」と「遅れてきた青年」”)での発言;

今世紀に入って、三浦雅士に「青春の終焉」という名著があった。近代は左翼系文学にしても、三島にしても、全学連にしても全共闘にしても、急進的に進む個の心象で形成されてきた。少なくとも美学的にはそう言えるはずである。そうした心象は高度経済成長が終わっても、短いオイルショックをはさんで、何とか80年代まで延命させてきた。もちろんニューアカによるポストモダンの流行がそうした古い美学的知見に疑義を唱えはしたが、その疑義も近代を「向こうにまわして闘うべき相手」として意識していた点で、近代はまだまだ健在だったのである。
簡単に言えば、ぼくらはその微妙な時期を生きてきた。だから、バブル崩壊ととともに成長の飽和が意識され、「まったり」ブームで「終わりなき日常を生きろ」と言われたとき、ぼくらのなかの新しい部分が呼応して「なるほど新たな機運を的確に捉えている」という感慨とともに、ぼくらのなかの古い部分が「理屈はわかるが、そうはいっても、ぼくらはそれに満足できない」という違和感とに引き裂かれたのである。
近代的心象は、或いは三浦雅士流に言えば「青春」は、ある種、絶望を基盤に急進的に破滅へと向かっていく行為である。それはことごとく悲劇に終わる。漱石の主人公がことごとくそうであるように、学生運動がそうであったように、三島が死を賭したように。
(以上引用)


上記引用文のタイトルにある“遅れてきた青年”は大江健三郎の初期長編小説タイトルである。
“青春の終焉”は、三浦雅士の本のタイトルである。
また文中にある“終わりなき日常を生きろ”は、まさに宮台真司の言葉(書名)である。

さらに、この引用文には、いくつかの“名詞”もある;
《三島》、《全学連》、《全共闘》、《ニューアカ》、《ポストモダン》、《近代》、《微妙な時期》、《バブル崩壊》、《まったり》(これは形容詞;笑)、《新しい部分》、《古い部分》、《理屈》、《違和感》、《近代的心象》、《青春》、《絶望》、《破滅》、《悲劇》、《漱石》、《学生運動》、《死》


ぼくはDoblog以来、堀裕嗣君には“好感”をもってきた。
しかし、この上記の文章と、彼の“音楽の趣味”はダメである(笑)

しかもこれは、堀裕嗣固有の欠点ではないから、“引用”した。

まさに(ぼくや、ぼくの“世代”をふくめて)、検討されるべきなのは、上記の<単語>である。

それらの<語>について、いったい“ぼくら”はなにを“知って”いるか?

それは、“国語”の問題であり、国語の問題でなく“社会科学”の問題である。

その<核心>をぼくはここで、<“モダン”と“ポストモダン”>として提起する。

“ポストモダン”を標榜する人々が、“モダン”を知らなくては、話にならない。


そもそも、<ポストモダン>は、どこにあるのか?




<蛇足>

宮台真司は《包括性を欠いた社会》が現れた“最近”をポストモダンと呼ぶらしい。

しかし、ぼくが生きた日本の戦後60余年に、“包括性を欠かない社会”があったわけではない。

では、“ポストモダン”は、“いつから”なのか?

まさか、麻布中学・高校 → 東大・同大学院 → どっかの大学講師 → 首都大学東京教授(現在)という彼の経歴において、“包括性のあった社会” → “包括性を欠く社会”という“転換”があったのだろうか(笑)

たぶん宮台氏の周辺には、“ポストモダンなひとびと”が、いる(いた)のだろうか!





<追記:“重武装”について>

宮台真司『日本の難点』読了(今日はちゃんと仕事にも行きました;笑)

この本の“結論”(270ページ“結局、社会は変えられないのか”からの展開)は、非常に意外でした(笑)

その前に、
《僕が社会学に学問的関心を抱いたのは、吉本隆明の著作を通じて柳田國男を知り、いま述べた柳田國男の問題設定と同じものが社会学にも見出されることを知ったからです》
という記述で、レレレという感じでした。

ぼくは“柳田國男”はほとんど読んでいませんが、前に内田隆三の『柳田國男と事件の記録』という本には感銘を受けました。
そして、柳田國男について宮台氏より“専門的に”考察している赤坂憲雄を読もうとして、まだ読めていません。

それで“レレレ”と思ったのは、柳田ではなく、“吉本隆明”という名です。
ぼくはある時期、思想書では“吉本のみ”を読んでいました。
それでぼくの考え(フィーリング)では、吉本は、“ポストモダン”ではありません。

だからこの本の大部分で、宮台氏がポストモダンな学者たちを“引用”して展開してきた論旨と、《僕が社会学に学問的関心を抱いたのは、……》の“整合性”が理解できません。

もっと“奇妙”なのは、最後に出てくる“チェ・ゲバラ”です(爆)

ゲバラが“利他的”なひとでなかったと、ぼくも思わないが、だからといって、ゲバラが“利他的なひとを代表するキャラである”ということは、どうやって“論証”されるのでしょうか?
ぼくもゲバラについてよく知らないが、宮台氏はソダバーグの2本の“ゲバラ映画”以外の情報をお持ちでしょうか?

極めつけはこの本の最後の文章;

《これについても僕は楽観します。先にも一部紹介したように、僕の知る限り、東大でも霞が関でも一番優秀な連中は軒並み利他的だからです。》(引用)


ぼくは残念ながら、《東大でも霞が関でも一番優秀な連中》とのおつきあいがございません。

だから“わからない”が(笑)、上記の文は、少なくとも、そーとー“イヤミ”ではないでしょうか!

“最後の文章”というのはフツー、その本の“結論”なんです。
宮台氏は、《僕は楽観しています》をこの本の最後にきて“連発”します。

しかし、《東大でも霞が関でも一番優秀な連中》が、本当に“優秀”なら、現在の日本“社会”のこのテイタラクはいかなる要因によるのでしょうか?<翌朝追記>

ああ書き忘れるところだった;

宮台くん、《重武装》というのは、《核武装》のことですよね?


この本を読んでの、”宮台真司”というひとの感想;

ああ、保守的なひと。









<翌朝追記>

答え;

社会”システム”(爆)