夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

寛容の精神・・・(一水四見の譬え)

2017年04月22日 17時41分25秒 | 真理の言葉
妻の診察時間の待ち時間に近くの山里を散歩しました。
青空がひろがり、斜面にはツハブキが伸び伸びと揺れていました。


寛容の精神・・・(一水四見の譬え)

天人は水を珠玉と見る。
鬼畜は水を濃血と見る。
竜魚は水を宮殿と見る。
人間は水を水と見る。

天人、鬼畜、竜魚、人間というようにそれぞれの類に従って見るところが違うのである。
人間も水を水と見るからと思って他の類族も同じ水と見なければならないと強制することは出来ないのである。
人間のみが水の客観的な真理を知っているわけではないのである。
これを道元禅師は『本水なきがごとし』といわれた。

珠玉でもなく、濃血でもなく、宮殿でもなく、水でもなく、本当の水というものが別にあるわけではなかろう。
もし水の実相があるとしても、どうして人間がそれを知り得るはずないのである。
人間が知り得るのは四類の所見の一つである『水』だけに過ぎないのである。
この思い上がった一人よがりの人間中心主義(ヒューマニズム)の思想が根本になって
人間関係のあいだにも一人よがりの不寛容が出てくるのです。

宇宙が人間のために存在するかのように錯覚したのと同じ原理で、
世界や社会は一集団、一階級、一国家のために存在するかのごとく思い込んで行動する。
そこに、救われ難い、『二つの世界』の争い、相反する葛藤が生ずるのである。

わけても禅の真髄はあきらかに寛容にある。
禅の訓練は惨烈をきわめたものであっても、なお仏陀の慈悲を背負っている。
慈悲とは他者、有情非常有りとしあらゆるものの身になって感じる人間最高の能力のことである。
それが寛容ということの真髄なのである。