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夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

『物質文明』花盛りです。

2017年12月07日 20時47分39秒 | コラム・人文
スマホのベルトポーチを買いなおしました。
以前のは開閉がマジックテープでした、開閉の度に音がするのと、テープ自体が弱くなりました。
今度のポーチはスマホ、バッテリー、イヤホン、メガネも入るようです。
確かにこの様に私達は一見生活は便利になり、豊になりました。

世界は技術の進歩でドンドンと物が増え、まるで人々は毎日遠足に行っているかのように
『便利であると云う物(劇薬)』を抱えて生活しています。

まるで戦後の買出しの時のように皆、其々物を身につけて外出しています。
部屋の中もあらゆる物で占領されています。

『物質文明』花盛りです。

良い方に考えると生活が多様化しているとも云えます。

しかし『物』と云う『知恵の樹の果』の洪水の中に溺れるのではないかと思えます。

精神文明が『今』まさに顕われんとしている過度期ではないかと思われます。

『注』知恵の樹の果・・・・・物質に執着して生活しているところの知恵。
              即ち世界観、人生観をあらわしている。


現代版エデンの楽園からの追放

『物質さえ具わったら我々は幸福になれるである』いうような知恵を持ったら
お前は実在の本当の姿、即ち実相の楽園に、地上天国のこの世界に住むことが出来ないで、
争いの世界に追い出されるしか仕方がないのである』と。





          


言葉の魔力で数え切れない福徳が顕れるでしょう。

2017年12月06日 21時40分02秒 | コラム・人文
院内で全職員のインフルエンザの予防注射でした。

注射は何才になっても嫌ですね!

言いますと若い女医さんに笑われ、
痛くないようにしますから!

と言われますと何だか本当に何時もよりも痛くなかったようです。

やはり言葉で優しく言われますと言葉の力でしょうか、人間の心は左右されるようです。
運命も言葉の力で良くも悪しきにも変えることが出来ると云われています。

心で思うことも言葉です。

常に心で良きことのみを思い、良きことのみを語り、
また移り変る世の中の良きことのみを見て、喜びましょう。

人に対して微笑と深切を施しましょう。
そうすると有り難い、感謝の心が沸々と湧きあがって参りましょう。

やがて数え切れない福徳が顕れるでしょう。


初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇は深淵の面にあり、

神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。

『光りあれ』

こうして光があった。

神は光を見て、良しとされた。


              創世記 天地の創造 1、2、3、4



はじめに言葉あり、

言葉は神と偕にあり、

言葉は神なりき。

              ヨハネ伝 第一章















十夜会(じゅうやえ)・・・・・(極楽世界には誰でも行ける)

2017年12月05日 21時01分35秒 | コラム・人文
仏の来迎は法爾(ほうに)の道理にして疑いなし

                                法然上人

人間は現象世界(娑婆世界)には生まれない
 今・此処・我は大生命と一体である 


             『注』法爾・・・自然の定まり。あるがままのすがた。自然法爾(じねんほうに)


『無量寿経』に煩悩や誘惑の絶えないこの娑婆世界で十日十夜の善行積むことは、

仏さまの国土で千年の善行を修めるよりも勝れていると説かれています。


先月は菩提寺で十夜法要の念仏会がありました。
私共も月に七回の浄日を定め、
十三仏、十一面観音菩薩等の掛軸を掲げ御縁を結ばさせて頂いております。

念仏三昧で数珠を繰りながら木魚、鉦を打ちますとリズムにのり、
精神が段々と集中して参ります。

『鳴り物』は精神の集中に役に立つようであります。

法然上人は毎日一万遍唱えられたそうであります。

徳川家康公も『日課念仏』として念仏を唱えながら南無阿弥陀仏と書写し、

他者の為一日、何万編も唱えていたそうです。









『今』に生きる

2017年11月28日 19時52分24秒 | コラム・人文
来月は師走です。

ゆっくりと穏やかに走りましょう。


置かれた場所でこの身此のままで『今』を生きる時、
時間、空間を超越した自由で豊な世界に誘われます。

私達は常に時間、空間の三次元の世界に縛られて生きています。
しかしこの時間、空間を捨て去って『今』に生きる時、
因縁を超越して何もにも捕らわれない自由を勝ち取ることが出来ます。

道元の言葉に『空手にして郷に帰る』という禅語があります。

諸々一切の愛着、執着等を捨て去るとき今此処に既に実在している、
真実の世界である極楽世界、天国の世界に還帰することが出来る。















捨無量心

2017年11月26日 21時52分05秒 | コラム・人文
今日は特別有害廃棄物管理責任者の資格講習会でした。
塵の定義が難しいこと知りました。
法律のなかでも難解のベスト3だそうです。

悪しき想念は、ただ悪しきものを幻にして見せるだけの事である。
病気や災難や貧乏の経験は、それらはただ白日の夢である。

『捨無量心』

六親眷属の愛着を捨てたら本当に仲が良くなる。
一遍執着の愛を断ち切ってしまうと、実相そのままの調和のある状態があらわれ、互いに自由で、互いに拝み合える生活が開けてきます。





先日記事にある女性が亡き夫のとの繋がりを如何するかと思いを廻らせて、その結果、夫の先祖代々の墓、菩提寺、仏壇を整理し、
遺骨は一時マンションに安置しいずれ海に散骨の予定でした。
夫の写真だけを残し身近に其の写真に寄り添って生活をしていましたが、一年程経ってその女性は散骨の三日前に散骨を止めると言い出しました。
一年程夫の写真と寄り添い暮らしている間に夫を、心から自分の家族と思えるようになり、自分も散骨して欲しいと思っていたのですが、夫の遺骨も、自分の遺骨も共同墓地のようなところに入れて欲しいと思えるようになったそうであります。








無事

2017年05月20日 18時48分42秒 | コラム・人文
無事

圓光大師の和讃に『くれにはけむりとなるもあり』という言葉があります。
自宅に帰り、妻に煙とはならず『無事』に帰りましたと告げることが日課となっています。
無事という言葉は常々、普段に使っている言葉ですがあらためて調べてみると、
よく寺院に『無事』と揮毫された掛け軸、扁額とが掲げられていますが仏教辞典で調べますと

『むじ』とも読み、なすべきわずらいがない。障りがないこと。
生まれながらにして仏である人間には、求めるべき仏もなければ歩むべき道もないこと。
仏道をきわめ尽くして、もはやなすべきことのないこと。
と説かれています。


『むじ』(無事)と読むことが悟り(幸福や自由)の障りになる事柄、穢れが無いことであり、人間本来の実相である『仏』其のものであると云うことを示しているのです。
もともと仏教語であったのが日常の言葉に使われていますが、本来は深い宗教的な深遠な世界を意味していたのです。

ぬれぎぬ・・・・・ 白隠禅師のお話

謹厳で律儀な商家の主人が駿河の松蔭寺(しょういんじ)の和尚、白隠を神さまのように尊敬していました。
その娘が嫁にもゆかないのにおなかが大きくなってしまいました。
いったいどこの誰の胤をやどしたかときつく問い詰めると
相手は白隠さんですと答えると驚いて一言もいうことが出来なかった。
月満ちて、娘は赤ん坊を生み、腹にすえかねた娘の父親は生まれたばかりの赤ん坊を抱いて
松蔭寺の白隠のところへ怒鳴り込んだ。
さんざん恨み、ののしって赤ん坊を白隠のところに置いていった。
白隠はなにもいわないで、赤ん坊を育てた。
飴湯や米の粉をつくって大切に育てた。
懐に抱いて、托鉢に出かけ、家々の門前に立ったのです。
いままで活き仏さんと拝んでいた人々が手のひら返すようにうしろ指をさして集まってこなくなり、
門弟たちも一人去り、二人去り離れていきました。
ある冬の日に雪の降るなかを素足にわらじ、黒衣の姿に懐に赤ん坊を抱いて、
乞食しながら貰い乳をして歩いていた白隠を窓からのぞいて見た商家の娘は、
堪えかねて泣き出し今まで嘘をついていたことを父親に話し、
実はあの子は隣家の久さんの子ですと事の真相を打ち明けた。
謹厳な父親は直ぐに松蔭寺にかけつけ平伏し、涙をこぼして親子の罪をわびたのです。
白隠はやっぱり父親があったのかいと言い、喜んで赤ん坊を返したのです。
白隠は律儀な娘の父親を説いて、隣家の久さんを養子にする話をまとめ、
めでたく無事に丸く納めたのです。

















黄砂の襲来。(大自然も大日如来の活動)

2017年05月08日 21時11分44秒 | コラム・人文
黄砂の襲来。

遠く見上げると山が霞んでいます。
黄砂には国境がなく、車の上の砂塵を見ると身近に外国を意識し、ネガテイブな気持ちになります。 
しかし黄砂も今は始まったことではなく古くは約7000万年前から発生しているそうです。
環境も何万年も前から地球全体でそれぞれの要素が影響し合って寒冷化、温暖化をくりかえしていています。
何も生えていないカラカラとした乾燥した地域から砂塵が運ばれて来ますが、
不思議にも砂塵が屋根等に積もるとやがて植物の芽が出て屋根の上で花が咲いたりします。
砂塵も肥沃な土と云えます。
運ばれて来る過程で雨、風、植物、野鳥その他の影響で砂の成分が変化しているのだと思います。

人の人生模様と同じように思えます。

黄砂も何万年のスパンを考えるとマクロ的には変ってはいませんが
ミクロ的には成分が大きく変化しているのではないかと思えます。
砂漠が無くなると黄砂が起こらなくなると思えますが、地球は砂漠と温暖な地域とが互いに影響して調和がとれて
バランスを保っているように思えます。
国境は人間が作ったものですが、自然界は国境を越えて地球全体のバランスで支えあっているようです。
大地も隆起している地域もあれば、また反対に沈下している地域があります。
この私の地域も一年に1センチ隆起して、昔は海だったところが現在は陸地となっています。
それは付近に海岸を現わす地名が残っています。
地面は動いていないように感じますが実は毎日動いているのです。
地球は常にマグマ等で烈しく活動していて、まさに生命そのものです。
海底何千メートルの深いマグマの熱水が噴出すところで生命が誕生したと云われています。

このような活動も不思議な霊的波動で動いているといえます。

宇宙も大生命そのものであります。

大自然も大日如来の活動。

閑林に独坐す、草堂の暁
三宝の声、一鳥に聞く
一鳥声あり、人心あり
声心雲水 倶に了了

鳥の声をもそれを聞いている
自分の心も、流れる雲も逝く水も、
大日如来の活動そのものではないか。

               弘法大師空海





彼我を超えたアートマンの魂

2017年05月04日 12時06分01秒 | コラム・人文
連休に入って爽やかな天気が続いています。
山の裾野からひろがる若緑がまるで花びらのように感じられます。
東京の次男坊から珍しく早朝から電話ありました。
仕事が大変忙しい事のようでした。

東京も若い頃に夢を抱いて上京した人々の高齢化が進み
また各々が孤立していて様々な問題があるようでした。
人と人のつながり、また自然、故郷との関わりは一度に築くことは難しいことであります。
早い時期から勇気をもって、一歩一歩築いて行くことが肝心であります。
其れには隣人、有情非情、生きとし生けるもの、有りとしあらゆるもの対して感謝して
今、出来るものを無条件に与える(仁徳)、こころ根を養うことが必要であります。
そのことが廻り廻って我が身に温かい優しい心が与えられることになるのです。

探求することもなく実践もない信仰は本当の信仰ではないのである。
吾々の目標は理解することであり、崇高な信仰をもった知恵に他ならぬのであって、
かかる信仰こそ吾々は直感的に理解することが出来る信仰であり、吾々の善悪の行為の真の評価、
すなわち物質界たる影の世界(現象世界)へうつし出される吾々の不完全なる表現が
いかに自我(ego)を反映しているかという反省によってのみ、
吾々は正しき宇宙の根本原理あるアートマンの知恵を享受できるのである。
このことが真の信仰であるのである。










真理の珠は常に一つである。

2017年05月02日 22時54分35秒 | コラム・人文
端午の節句に孫に贈り物をしましたが、
未来の孫を意識していると、過去にタイムスリップしている自分の心が妙な不思議な感覚に捉われている世界を観じる時でした。

凡ての人間は霊媒的存在である。
宇宙的の根源的な知恵をそれぞれが理解し得ることを、
直感的な心のフイルターで漉してその神秘的な宇宙の真理をうけとっているのです。

真理の珠は常に一つである。

今や『科学と宗教』さらに言うならば、『啓示』との『科学・宗教』との二つの根本問題が本質的に何ら矛盾することなく、
一つにまとめられる時代が到来したのである、と指導霊達は言うのである。
例えば吾々が先ずアガシャが、『普遍意識』と呼ぶ完全円満なる世界においては、
人間は『ここにも、かしこにもあらゆる処に』同時に居ることが出来るのであると言うのを聞き、
またあらゆるものは『全』の一部であり、『全』は又あらゆるものの中にあるのであるというようなことを言うのをきく時、
吾々はこのような真理の言葉を通して実相をほのかに推察することが出来るのである。

吾々はアガシャによってアイシュタインの空間の相関性と空間の広がりの特性によって時間の概念との相対性などについて説明してもらうことが出来るのである。
無量寿の叡智者が永遠不滅のものであるとみとめ観察して享けとめたところの真理を、
吾々も素直にきき、それを理解しょうと努力することが望ましいと思うのである。



        

良寛和尚の懺悔と慈悲心

2017年04月30日 15時16分57秒 | コラム・人文
危機管理は普段からの準備と訓練はもちろんですが、それに対応する直感力を養うことが寛容であります。
危機はある時、突然にやってきます。
とっさに判断して対応することが要求されます。
小さな細かい部分にも細心の注意が必要でありますが、もっと大切なことは全体を掌握することであります。
庭先の可憐な花には気がついても、その花の奥底に存在している大いなる大地、広大無辺なる宇宙は見過ごしてしまうことがあります。
この玄関前の綺麗な花の奥に広大無辺なる宇宙、深遠なる神秘的な世界を直感的に意識することが大切であります。
これが危機意識にも普段の生活にも通じることであります。

良寛和尚の懺悔と慈悲心
弟の由之(よしゆき)の道楽息子の馬之助に意見を頼まれた良寛は久しぶりにわが家の敷居をまたいだのであった・
良寛は馬之助には意見をせず和歌や俳句の話に興じ三日間を過ごし、もうわしは帰ると言い出し、
弟の由之は息子の放蕩がなおらないと、老いたわが身のいく末が案じられ、先祖に対して申しわけがない。
あれほど頼んでおいた、馬之助への意見はもうろくして忘れたのであろうかと・・・・
兄、良寛がうらめしく思われた。
玄関へ出て、良寛はワラジのひもを結ぶのに手がかかっていた。
『馬之助、すまないが、わしのワラジのひもを結んでくれぬか』
馬之助は直ぐ飛びおりて、ワラジのひもを結んでやった。
すると結んでいるその手に、ほろりとひとしずくこぼれ落ちた。
馬之助がはっとして見上げると伯父の良寛和尚の目に涙がいっぱいたまっていた。
『やあごくろう、ごくろうと』と言って表に出て去っていった。
不思議なことに、馬之助の道楽はそのとき限り、止んでしまった。

町では、たった一滴の涙で道楽息子の心を改心させたといって、あの坊主はたいしたものだという評判がたった。
良寛はあの涙はあの息子のために流した涙でないと言い、最後の別れで草履のひもを結んでいる時に、
あれだけ頼まれた意見を今しょうと思い、言い出そうとした時に、自分も出家しないときの若い頃は道楽ものであった自分の心の醜さに気がついて、恥ずかしくなり自分が悲しくなり涙が流れたのであって、道楽息子の為に流した涙ではないと言ったのです。


若い一人の道楽息子が救われたのは、良寛が人の過ちを責めないで、我が心の非を観じて、涙を流された深い切ない良寛の仏の慈悲心を、その息子が有り難く観じたのではないかと思われます。

人の悲しみを、我が悲しみとしてうけとるには、自分の苦い経験を通してその悲しみを相手に映し、再び相手の悲しみを摂取して相手の心と吾が心とが愛と云う絆で結ばれなければならない、
そうすることにより相手の悲しみを我が悲しみとして真実にして享けとることが出来る。










名残惜しい

2017年04月08日 22時23分25秒 | コラム・人文
名残惜しい

自分自身が何かを失い、空虚になった時は寂しく、
儚い気持ちになりますが本当は今まで現世で執着していたものが剥がれていく姿であり、
その因縁から遠離して超越することであります。
またそれは新しい生命の躍動する機会でありますから、
自分自身の内なる静謐な囁きに心を傾け、高き理想に向かって行くならば、
魂が磨かれ美しい真珠のような生活となるでしょう。

世界の混乱の最中ににあっても、『我は道なり、我は光なり』と称する
『神なる自我』なる真の汝自身をわすれてはならない。
霊のために毎日を生きよ。
人々の内部に宿る『神の国』を呼び出すために高邁なる想念を放送せよ。
而して『光の指導霊』より送られる祝福の光を汝自身に吸引せよ。
『我は道なり、我は光なり』とあるその『我』とは汝(あなた)自身である。
汝自身の眞の自我なる『神性の火花』である。

アガシヤの言葉







永遠を今に生きる少年

2017年03月27日 20時16分48秒 | コラム・人文
永遠を今に生きる少年
 
ここに一枚の焼き場に幼い弟をおんぶして立つ少年の写真があります。
依然からこの写真の存在は知っていましたが、公演会場の長崎新聞社のロビーで見かけ、この本を読んで見ようと思い、
昨日、本が届きました。

序文に海兵隊のカメランマンJoe O’Donnell,(ジョー・オダネル)がこのように書いています。
『重大な目的をもってこの火葬場にやってきた強い意志がかんじられました。
しかも足は裸足です。少年は火葬場の淵までくると、かたい表情で目をこらして立ちつくしています。
背中の赤ん坊はぐっすりと眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は火葬場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶのひもを解きはじめました。このとき私は、背中の幼がすでに死んでいることに初めて気づきました・・・・・・
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し沈黙のまま去っていきました。』

私の勤務している病院も当時は海軍病院であり、長崎市からたくさんの被爆者が運ばれて来ました。
この少年ももしかしたら、此の地海軍病院の近くの火葬場に立っていたかも知れません。

この焼き場に立つ少年はまさに目の前で、るいるいと重ねられた尊い遺体が石油で燃え盛る炎の火で焼かれている光景を直立不動で見つめる姿は、尊い、浄らかな、美しい姿に感じられました。

『衆生劫盡(つ)きて、大火に焼かれるると見る時も、我が此の土は安穏にして・・・・・・曼荼羅華を雨(あめふら)して、佛及び大衆に散ず。』
という法華経の言葉が心の中をかけ抜けました。

この少年はまさに『永遠を今に生きる』菩薩のように観じられました。






民族の意思は祖先から置かれた場所で咲く (民主主義社会の於いては常に内部闘争の契機を孕んでいる)

2016年06月25日 19時39分17秒 | コラム・人文
民族の意思は祖先から置かれた場所で咲く

離脱問題で国論が二極化され、国民が相争う状態となり、どちらに決まっても
二極化された国民は争いの種が深く根付き、益々泥沼にはまる結果となります。
離脱問題でも互いにどちらもある意味で正しい意見であります。
これを例えば裁判のように白黒決着させようとすると勝った側にも負けた側にも権利と権利が衝突して、
どちらが勝ってもリスクが残り、憎み合う結果となり、長い期間互いに恩讐の種となります。

日本人は物事を曖昧にするとよく言われますが、これは相手を排除しようとする心があっても、
相手のすべてを排除する訳ではないので、ハッキリと決断しないで曖昧にすることが人間関係を巧く築くことが出来るという日本人の智慧であります。
日本は古来より人間の罪、悪、穢れは祓い清められるという観念があり、
人間は本来悪では無いとした思想が古くから根付いていました。
このことが人間を神として祀って来た歴史的な事実あります。



民主主義社会の於いては常に内部闘争の契機を孕んでいる

建国の功労者の一人のアメリカ第三代の大統領ジェフアソンの言葉に『人間は自分ひとりを治めることさえ安心して任せられないものだと言われることが時々ある。
それならば、彼に他の人々を治めることをどうして安心して任せられようか。それとも、われわれは天使が人間を治めるために王者の姿をして現れたと考えるべきなのか』とあります。
これは人間を軽蔑している思想であります。
人間は自分ひとりすら治め得ないところの愚かなものであるから、どうして他の人を治める資格があろうか、
それだから多人数の会議によって最大公約数的結論を出さねばならぬと言うのである。
もう一つの民主義の思想は、『すべての人間は道徳社会の一員として平等の尊敬を払わればならぬのであって、
その尊厳性は何人も侵すことができない』という人間尊重の思想である。
一方に於いて人間を愚者として軽蔑しながら、他方において『すべての人間を平等の尊敬をもって扱わねばならぬ』という
矛盾した命題のなかで生活せしめられるのであるから、民主主義社会の於いては常に内部闘争の契機を孕んでいるのである。



民主主義は多数決で決められますが、そこには少数派が存在する訳であります。
長い歴史のなかで見るとその少数派のたった一人の意思が正しことがあります。
その当時は迫害を受けたイエスキリスト等などがそれであります。
民主主義と利己主義は表裏一体であります。
本当の民主主義は煩悩に溢れた表面的な人間智を超えた、人間は佛であり、如来であり、神の子であると云う深い人間性に根ざした叡智が必要であります。









グローバル社会と排他的依存性。

2016年06月17日 21時28分20秒 | コラム・人文
グローバル社会と依存性。

現代の世界はグローバル社会に変化していて、遠く離れた地域の出来事でも、日本国内どころか、
自分の地域の出来事であるかのように、錯覚するようであります。
それは瞬時に最新のニュースが全世界を駆け巡るからであります。
人間の依存性はあたかも遠くの戦場や洪水等を見て、
今この住んでいる地域が平和であっても危機に迫っているような心になり不安を感じます。
これはマイナスの自己暗示であります。
太陽が瞬時に核融合反応を起して、光輝いていることには人々は不安を感じません。
しかし身近な処での核融合反応には敏感であります。
排他的な依存性が強いと、周りの事が必要以上に敏感になり、それを受け入れるよりも排他し、攻撃的な思考に走ります。
グローバルな社会になり人間の排他的な依存性が益々強くなり、攻撃的な思想が蔓延しているように思えます。
これは特に弁証論的唯物論のインテリジェンスに能力のある人間に特に顕著に排他的な依存性が現れるようであります。
逆に捉えますとインテリジェンス的な人間程排他的な依存性が強いことになります。
相手を論理的に打ち負かそうとします。
これは善悪の判断を理性的に明白する能力に優れていて、その結果、悪を排除しようとする意思が働くからです。
大きく捉えると世界を善と悪に振り分ける事であります。
また愛と憎しみの心と同じであり、どちらの心も人間の依存性であります。
しかし本当は善悪を超えたところに愛に満ちた聖地があるのです。





『すでに完全円満であって、すでに佛である。すでに神の子である。佛の子である』。

弘法大師はその著述『即身成佛儀』という本の中で、こう書いておられる。
一切衆生すでに成仏せるに、未だ成佛せることを知らず』と。
生きとしいけるものである衆生は佛になって成佛していることを知らないのである。
『自分はすでに佛である。完全円満である。迷いなんてすでにないのである。罪なんかすでにないのである。
すでに完全円満であって、すでに佛である。すでに神の子である。佛の子である』と知ればよいのです。






天皇の御いのちは『吾々神の子』に宿り給う

2016年05月17日 22時52分30秒 | コラム・人文
天皇の御いのちは『吾々神の子』に宿り給う

雲ひとつない青空のなか、午後から休みをとってボランテアで小さな菜園の植えかえをしました。
以前のセロリ、春キャベツ、春菊等に代わりにキュウリ、二種類のナス、二種類のトマト、ビーマン等を植えました。
無農薬、無肥料の腐葉土のみの自然農法に兆戦しています。
無肥料ですと虫がつかないで、野原の野と菜との熟語である『野菜』が本来の爽やかで清らかなる『野の菜』を見ることが出来ます。



名称は異なれども、宇宙のの中心座にまします神は万教共通の本源神がましますのである。
その本源神は無限智、無限愛、無限生命である。
言い換えれば偏在にして全知全能である。
そしてその天之御中主神から天照大御神から天皇にあらわれていたまう神、
その神がわれわれにも宿っている。
そしてわれわれは天皇の御生命(おんいのち)の岐れであるから、天皇にマコトを尽くすのが、
それが忠であることなのです。
すなわち分岐した『子』としての“いのち”がその本源なる『中(みなか)』のいのちに帰一する、それが『忠』であるのです。
子のいのちが『中(みなか)』の親さまのいのちに融合帰一して一体となる『個』即『普遍』の真理です。
続く・・・・・