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民族の意思は祖先から置かれた場所で咲く (民主主義社会の於いては常に内部闘争の契機を孕んでいる)

2016年06月25日 19時39分17秒 | コラム・人文
民族の意思は祖先から置かれた場所で咲く

離脱問題で国論が二極化され、国民が相争う状態となり、どちらに決まっても
二極化された国民は争いの種が深く根付き、益々泥沼にはまる結果となります。
離脱問題でも互いにどちらもある意味で正しい意見であります。
これを例えば裁判のように白黒決着させようとすると勝った側にも負けた側にも権利と権利が衝突して、
どちらが勝ってもリスクが残り、憎み合う結果となり、長い期間互いに恩讐の種となります。

日本人は物事を曖昧にするとよく言われますが、これは相手を排除しようとする心があっても、
相手のすべてを排除する訳ではないので、ハッキリと決断しないで曖昧にすることが人間関係を巧く築くことが出来るという日本人の智慧であります。
日本は古来より人間の罪、悪、穢れは祓い清められるという観念があり、
人間は本来悪では無いとした思想が古くから根付いていました。
このことが人間を神として祀って来た歴史的な事実あります。



民主主義社会の於いては常に内部闘争の契機を孕んでいる

建国の功労者の一人のアメリカ第三代の大統領ジェフアソンの言葉に『人間は自分ひとりを治めることさえ安心して任せられないものだと言われることが時々ある。
それならば、彼に他の人々を治めることをどうして安心して任せられようか。それとも、われわれは天使が人間を治めるために王者の姿をして現れたと考えるべきなのか』とあります。
これは人間を軽蔑している思想であります。
人間は自分ひとりすら治め得ないところの愚かなものであるから、どうして他の人を治める資格があろうか、
それだから多人数の会議によって最大公約数的結論を出さねばならぬと言うのである。
もう一つの民主義の思想は、『すべての人間は道徳社会の一員として平等の尊敬を払わればならぬのであって、
その尊厳性は何人も侵すことができない』という人間尊重の思想である。
一方に於いて人間を愚者として軽蔑しながら、他方において『すべての人間を平等の尊敬をもって扱わねばならぬ』という
矛盾した命題のなかで生活せしめられるのであるから、民主主義社会の於いては常に内部闘争の契機を孕んでいるのである。



民主主義は多数決で決められますが、そこには少数派が存在する訳であります。
長い歴史のなかで見るとその少数派のたった一人の意思が正しことがあります。
その当時は迫害を受けたイエスキリスト等などがそれであります。
民主主義と利己主義は表裏一体であります。
本当の民主主義は煩悩に溢れた表面的な人間智を超えた、人間は佛であり、如来であり、神の子であると云う深い人間性に根ざした叡智が必要であります。









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