晴れのち曇り、時々パリ

もう、これ以上、黙っていられない! 人が、社会が、日本全体が、壊れかかっている。

シャンパーニュ地方の小村に『シャンパン祭り』を覗いてみよう。

2011-08-07 23:45:43 | 旅行とレジャー
スペインとポルトガルと二週続いたので、今週はフランスを旅しましょう。

今週の【フォトの旅】は、シャンパーニュ。


パリを中心とした、半径50キロほどの地方を、『フランシリアン』地方と言う。
かっての『フランク王国』の直轄領であった。

この名が、フランスの国名になったのです。

ちなみに、行政区分の地方(いわゆる道州制)名で言うと、「イル・ド・フランス」。



その東に隣接するのが『シャンパーニュ』地方だ。
首都は『ランス』。
パリから100キロ。

そのまま、東に行けば『ロレーヌ』と『アルザス』と繋がって、ライン川を越えてドイツ。
まだ600キロほど有るけれど。



そのランスの他、主邑となる都市は、『シャロン』と『トロワ』。


ローマ人達がやって来るずっと前から、非常に開けていた。

ヨーロッパの中心部を東西に結ぶ大平原で、古来より「東西」と「南北」との動線の交差する所を占め、人と物の動きの全てを賄って来たのだ。

ローマの『侵略』に抵抗した、ガリア(現在のフランス全域)に分布する『ケルト族』の中に有って、ユリウス・カエサルと同盟を結んだケルトの一枝族『レムス(レメウス)族』は、ケルト全体からは「裏切り者」であったが、その故に「平和と安定」とを享受した。

その「レムス族」の部族名から、中心都市『ランス』が生まれる。


13世紀に有って、『シャンパーニュ伯』は、フォワール(大市)を年に一回、三都市持ち回りで開催し、ヨーロッパ全域から商人が集まって、盛況を博したそうだ。

何しろ、人間の行動半径が極めて小さく、治安や手段など、旅程が大変危険な時代。
農村における物物交換が経済だった時代に、「市」を起てる事は、領主の特権であった。

この「フォワール」と言う言葉から、英語のフェアーが生まれる。
「開店記念フェアー」のあれです。




しかし、何と行ってもランスと言えば、ゴシック建築の焦眉、大聖堂の華、『ノートル・ダム・ド・ランス』がそびえ立つ。

政界遺産です。


     
     ノートル・ダム・ド・ランス大聖堂


それ以前に存在していたカテドラルが火災に遇った1220年、時の大司教は「この世の天国」を求めて、地上の最高最大のカテドラル建設を決めた。

翌年、1221年に着工。

パリのノートル・ダムに遅れる事58年。
その間に、パリ地方で「新技術」が完成の域に達していた。

その、新しい建築理論を導入し、僅か64年で完成を見る事になる。
パリのそれが、167年を要した事を考えると、異例のスピードであった。


なぜか。


ここ、ランスは「フランス国王」の戴冠式を行う所だったからである。

フランス王室に取って、戴冠敷を挙行する大聖堂が「無い」状態が長く続く事は、許されない。
かつ、ランス市民に取っては、町の地位を決定付ける「戴冠式」を行う大司教座の大聖堂は、プライドの象徴であった。


このランスのカテドラルで、特に名高い物が、正面「ポルタイユ(中央玄関口)」の彫刻群の中の、『微笑む天使像』である。


     
     微笑む天使


『仏教』は、慈悲の宗教である。
<命>は、その違いを問わず、総て尊い。
たとえ、虫けらであろうとも。

ひとえに、命を慈しみ、民を優しく「極楽」へと導く教えを諭す。


ところが、『キリスト教』はそうでは無い。

キリスト教の生まれた場所、そのキリスト教の先祖である『ユダヤ教』の生まれた場所は、『パレスティナ』。

荒涼たる礫漠と砂漠とに囲まれ、或は月世界の如き高山に阻まれ、照りつける太陽は容赦なく、人々は息も絶え絶えに暮らしていた。


今日、食えるかどうか、定かでない。
明日、生きていられるか、誰も保証出来ない。

そこでは、一つの判断の過ちが、そのままおのが命を代償としなければならなくなる。


そんな環境では、厳しく己を律して、「神の教え」に忠実に「正しく」生きなければ、民族全体が存在を危うくする。

そのような環境で生まれた宗教の<神>は、峻烈を極め、民を激しく試す。


ましてや、宗教観が生活の総ての規範で、社会はキリスト教のシステムで出来上がっていた時代に、「神」や「天使」が<微笑む>事等、あり得ない。


そんな「中世」の大聖堂に正面に、微笑む天使がおわします事自体、例外的な事なのだ。


     
     微笑む天使(ディテール)


内部は宏大。

奥行き136メートル。
天井高38メートル。


     


内外ともに、壁面は<ステンド・グラス>と<レリーフ>とで飾られている。

特に、『シャガール』デザインのステンド・グラスが、異彩を放つ。


     
     シャガールのステンド・グラス


そして、あの『百年戦争』終盤、母王妃の一方的な停戦条約のせいで、王位をイングランド王に与えられ、皇太子を廃嫡されていた『お可哀想な皇太子殿下』と呼ばれていたシャルルに、オルレアン奪回後、ここランスをイングランドから奪い返し、無事<戴冠式>を挙行させて『シャルル7世』として即位させた、『ジャンヌ・ダルク』の存在は、欠かせない。


     
     ジャンヌ・ダルク


その、ランスのカテドラル「ノートル・ダム」に隣接する、かっての<大司教館>が『トー宮殿』という。

これも政界遺産。


     
     トー宮の門


     
     トー宮外観


その内部は、かなり当時の内装は失われている物の、往時を忍ばせる壮麗さが感じられる。


       
     大広間


そして、歴代国王を戴冠した、様々な資料が展示されている。


     
     『ルイ15世』の戴冠式公式記録


     
     ルイ16世の末弟『シャルル10世』の戴冠式用マント


     
     シャルル10世佩帯の最高勲章『精霊勲章』



ところで、歴代フランス王達は、何故に「ランス」で、戴冠したのか。


それが、ここランスの三つ目の世界遺産『サン・レミー・バジリカ教会』にある。


     
     「サン・レミー」バジリカ聖堂


西暦498年。

ここランスの司教であった「レミー」が、当時隆盛を極めていたゲルマンの雄、『フランク』族の王『クロービス』を、カトリックに改宗させて、洗礼を施したからなのだ。


西ローマ帝国を滅亡させた後も、覇権争いが続き割拠していたゲルマン諸族の中の、フランク族が優勢となり、他のゲルマンの諸族を制覇しつつ有った。

当時、現在のフランス東北部全域に勢力を張っていた『アラマン族』との戦いに際して、フランク王クロービスは、勝利した暁にはキリストの神に仕える事を、妃に約束した。

妃は既に「キリスト教徒」であった。

その戦いを、ランス司教レミーが、勝利祈願のミサを行って送り出した。

クロービスは、アラマン人を撃破し、彼等はライン川の東岸に退却する。
ちなみに、それ以降アラマン人の支配地を、フランス語で『アルマーニュ』と呼び、現在もドイツをフランス語でこう呼ぶ。


レミーは、フランクの王を改宗させ、洗礼を施した。
それによってフランクは、古代ローマの「法体系」「軍事制度」「税制と徴税方法」「行政制度」などを、カトリック教会を通じて受け継ぎ、まだまだ野蛮なレベルであった他の総てのゲルマンに対する、圧倒的優位性が形成されて行った。

各局、クロービスの息子『シャルル・マーニュ』が旧西ローマ帝国領を再統一して、ローマ教会から「帝冠」を与えられ、ここにローマの復活が為された。

『神聖ローマ帝国』である。


レミーは、西ヨーロッパのキリスト教世界秩序の救世主、と言う事で、死後<列聖>されて『サン(聖)・レミー』となった。


     
     サン・レミーの「聖墳墓」


教会内部の彼の墓の裏側に、クロービスを洗礼するサン・レミーの彫刻が見られる。


     
     聖墳墓正面のノゾキ扉


正面に、小型の<門>の様な扉が有り、鉄柵越しに、聖遺物梱が覗き見える。


     


黄金の聖遺物梱の前面に、『この下に聖人レミーが眠る』という刻字が有る。




そんな事より、シャンパーニュと言えば『シャンパン』です!


     
     葡萄畑


この葡萄畑の、色っぽい程の優美な眺めに、うっとりとしてしまうでしょう?


そして、ランスから南下し、エペルネーを経て南へ140キロほど、最後に『トロワ』までに、『シャンパン街道』と名付けられたルートが有る。


     
     『ルート・デュ・シャンパーニュ(シャンパン街道)』の道標


その、南端のトロワに近い幾つかの村々を繋いで、この週末『シャンパン祭り』が行われていた。

早速、視察に行ってみました。


     
     シャンパン祭りのポスター


いやはや、大賑わい。
葡萄畑と林とが連なる、なだらかな起伏の間をうねる間道が、片側一車線で、数キロ手前から大渋滞。

村の入り口は封鎖されて車は入れず、近隣諸国からの大勢の訪問客で、大賑わいでした。

始め、村の入り口あたりに、グラスを売るテントが有る。


     
     グラス販売のテント


ここで、10ユーロで<シャンパン・グラス>を購入。
地図がついて来るが、その地図に10数カ所の「シャンパン・ハウス」の位置が数字付きで示されて居り、夫々の「試飲券」が切り取れる用になってついている。


あとは、目一杯歩き回って、飲んで楽しもう、と言う訳。


     
     <No8>のシャンパン・ハウスへの指示

     
     シャンパンの元となる白ワインを醸造する為の葡萄の圧搾機

     
     ジャズバンド



シャンパン・メーカーの敷地内や、村の通りの其処ここにジャズバンドが待ち受けていて、いやが上にも雰囲気を盛り上げていた。


     
     通りに沿った民家


家と言う家は、お花で飾り立てられて、絵本の中の様な光景です。


     
     壁面を葡萄で飾った民家


     
     木こりの彫刻「葡萄を持つ手」


ハンドクラフトのテント有り。
焼きソーセージの屋台あり。


     
     村の通り


なんと、教会前に<救急車>が待機中!


     
     村の教会


     
     あるシャンパン・ハウスの建物


     
     試飲カウンター



そして、今年の『ミス・シャンパン祭り』までが、オープンカーで練り歩く有様!


     
     2011年度「ミス・シャンパン祭り」


そして、特別参加の「ベルギー・ワインの振興団体」までが大型バスで参加していました。


     
     ベルギーのワイン振興団体のおばちゃま達


何ともはや、実に大盛り上がりの一日でした。

どうです、来年は、行ってみませんか?


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6 コメント

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下戸だけれど・・・ (Himbeere)
2011-08-08 09:29:14
行きたい!(*^_^*)
返信する
Himbeereさま。 (時々パリ)
2011-08-08 18:10:16
お久しぶりです!?
「飲めなくても楽しいよ、ゲコゲコ」(シャンパーニュ地方に生息する蛙の声)
返信する
シャンパーニュ祭り (TOKYOより)
2011-08-11 23:11:33
私もいってきました。
もちろん日本からですが・・・

こういうお祭り、良いですよね。
日本では悪酔いする人が多いから、難しいのかな??
それにしても当日(バスツアー)のガイドさんが詳しく歴史の話をしてくれましたが、同じようにランスについてとても詳しく説明があり、ふむふむと読ませていただきました。
歴史がわかっていると、旅も一味違ってきますね。

とはいえ、今回は私もシャンパン♪が目的でしたので、ガイドさんのお話も耳半分で・・・苦笑
返信する
TOKYOより様。 (時々パリ)
2011-08-13 04:09:53
初めまして。
コメントありがとうございました。
おお、お出かけにうなったのですか!?
日本の方はお見かけしませんでした。
シャンパンのハシゴをされたのですね。
悪酔いしませんでしたか(*^_^*)
ブルゴーニュのワイン祭りにも、是非どうぞ!
今後も宜しくお願いします。
返信する
ワイン祭り (TOKYOより)
2011-08-14 21:33:25
フランスではほかにもワイン祭りが沢山?あるようですね。
シャンパーニュ祭りでは確かに私たちバスツアー組以外の日本人はいませんでした。

このお祭りも含めて、また色々と地方へ行ってみたいと思います。

それにしても歴史を含め、お詳しいですね。
眠たくてガイドさんの話がとぎれとぎれでしたので、助かりました!!
返信する
TOKYOより様。 (時々パリ)
2011-08-21 18:38:33
再コメありがとうございました。
二日間のイベントだった様ですが、併せて何人の日本人が訪れたのでしょうね?
フランスのお祭りは、ワインがらみが多いです。
是非、いらして下さい。
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