スペインとポルトガルと二週続いたので、今週はフランスを旅しましょう。
今週の【フォトの旅】は、シャンパーニュ。
パリを中心とした、半径50キロほどの地方を、『フランシリアン』地方と言う。
かっての『フランク王国』の直轄領であった。
この名が、フランスの国名になったのです。
ちなみに、行政区分の地方(いわゆる道州制)名で言うと、「イル・ド・フランス」。
その東に隣接するのが『シャンパーニュ』地方だ。
首都は『ランス』。
パリから100キロ。
そのまま、東に行けば『ロレーヌ』と『アルザス』と繋がって、ライン川を越えてドイツ。
まだ600キロほど有るけれど。
そのランスの他、主邑となる都市は、『シャロン』と『トロワ』。
ローマ人達がやって来るずっと前から、非常に開けていた。
ヨーロッパの中心部を東西に結ぶ大平原で、古来より「東西」と「南北」との動線の交差する所を占め、人と物の動きの全てを賄って来たのだ。
ローマの『侵略』に抵抗した、ガリア(現在のフランス全域)に分布する『ケルト族』の中に有って、ユリウス・カエサルと同盟を結んだケルトの一枝族『レムス(レメウス)族』は、ケルト全体からは「裏切り者」であったが、その故に「平和と安定」とを享受した。
その「レムス族」の部族名から、中心都市『ランス』が生まれる。
13世紀に有って、『シャンパーニュ伯』は、フォワール(大市)を年に一回、三都市持ち回りで開催し、ヨーロッパ全域から商人が集まって、盛況を博したそうだ。
何しろ、人間の行動半径が極めて小さく、治安や手段など、旅程が大変危険な時代。
農村における物物交換が経済だった時代に、「市」を起てる事は、領主の特権であった。
この「フォワール」と言う言葉から、英語のフェアーが生まれる。
「開店記念フェアー」のあれです。
しかし、何と行ってもランスと言えば、ゴシック建築の焦眉、大聖堂の華、『ノートル・ダム・ド・ランス』がそびえ立つ。
政界遺産です。
ノートル・ダム・ド・ランス大聖堂
それ以前に存在していたカテドラルが火災に遇った1220年、時の大司教は「この世の天国」を求めて、地上の最高最大のカテドラル建設を決めた。
翌年、1221年に着工。
パリのノートル・ダムに遅れる事58年。
その間に、パリ地方で「新技術」が完成の域に達していた。
その、新しい建築理論を導入し、僅か64年で完成を見る事になる。
パリのそれが、167年を要した事を考えると、異例のスピードであった。
なぜか。
ここ、ランスは「フランス国王」の戴冠式を行う所だったからである。
フランス王室に取って、戴冠敷を挙行する大聖堂が「無い」状態が長く続く事は、許されない。
かつ、ランス市民に取っては、町の地位を決定付ける「戴冠式」を行う大司教座の大聖堂は、プライドの象徴であった。
このランスのカテドラルで、特に名高い物が、正面「ポルタイユ(中央玄関口)」の彫刻群の中の、『微笑む天使像』である。
微笑む天使
『仏教』は、慈悲の宗教である。
<命>は、その違いを問わず、総て尊い。
たとえ、虫けらであろうとも。
ひとえに、命を慈しみ、民を優しく「極楽」へと導く教えを諭す。
ところが、『キリスト教』はそうでは無い。
キリスト教の生まれた場所、そのキリスト教の先祖である『ユダヤ教』の生まれた場所は、『パレスティナ』。
荒涼たる礫漠と砂漠とに囲まれ、或は月世界の如き高山に阻まれ、照りつける太陽は容赦なく、人々は息も絶え絶えに暮らしていた。
今日、食えるかどうか、定かでない。
明日、生きていられるか、誰も保証出来ない。
そこでは、一つの判断の過ちが、そのままおのが命を代償としなければならなくなる。
そんな環境では、厳しく己を律して、「神の教え」に忠実に「正しく」生きなければ、民族全体が存在を危うくする。
そのような環境で生まれた宗教の<神>は、峻烈を極め、民を激しく試す。
ましてや、宗教観が生活の総ての規範で、社会はキリスト教のシステムで出来上がっていた時代に、「神」や「天使」が<微笑む>事等、あり得ない。
そんな「中世」の大聖堂に正面に、微笑む天使がおわします事自体、例外的な事なのだ。
微笑む天使(ディテール)
内部は宏大。
奥行き136メートル。
天井高38メートル。
内外ともに、壁面は<ステンド・グラス>と<レリーフ>とで飾られている。
特に、『シャガール』デザインのステンド・グラスが、異彩を放つ。
シャガールのステンド・グラス
そして、あの『百年戦争』終盤、母王妃の一方的な停戦条約のせいで、王位をイングランド王に与えられ、皇太子を廃嫡されていた『お可哀想な皇太子殿下』と呼ばれていたシャルルに、オルレアン奪回後、ここランスをイングランドから奪い返し、無事<戴冠式>を挙行させて『シャルル7世』として即位させた、『ジャンヌ・ダルク』の存在は、欠かせない。
ジャンヌ・ダルク
その、ランスのカテドラル「ノートル・ダム」に隣接する、かっての<大司教館>が『トー宮殿』という。
これも政界遺産。
トー宮の門
トー宮外観
その内部は、かなり当時の内装は失われている物の、往時を忍ばせる壮麗さが感じられる。
大広間
そして、歴代国王を戴冠した、様々な資料が展示されている。
『ルイ15世』の戴冠式公式記録
ルイ16世の末弟『シャルル10世』の戴冠式用マント
シャルル10世佩帯の最高勲章『精霊勲章』
ところで、歴代フランス王達は、何故に「ランス」で、戴冠したのか。
それが、ここランスの三つ目の世界遺産『サン・レミー・バジリカ教会』にある。
「サン・レミー」バジリカ聖堂
西暦498年。
ここランスの司教であった「レミー」が、当時隆盛を極めていたゲルマンの雄、『フランク』族の王『クロービス』を、カトリックに改宗させて、洗礼を施したからなのだ。
西ローマ帝国を滅亡させた後も、覇権争いが続き割拠していたゲルマン諸族の中の、フランク族が優勢となり、他のゲルマンの諸族を制覇しつつ有った。
当時、現在のフランス東北部全域に勢力を張っていた『アラマン族』との戦いに際して、フランク王クロービスは、勝利した暁にはキリストの神に仕える事を、妃に約束した。
妃は既に「キリスト教徒」であった。
その戦いを、ランス司教レミーが、勝利祈願のミサを行って送り出した。
クロービスは、アラマン人を撃破し、彼等はライン川の東岸に退却する。
ちなみに、それ以降アラマン人の支配地を、フランス語で『アルマーニュ』と呼び、現在もドイツをフランス語でこう呼ぶ。
レミーは、フランクの王を改宗させ、洗礼を施した。
それによってフランクは、古代ローマの「法体系」「軍事制度」「税制と徴税方法」「行政制度」などを、カトリック教会を通じて受け継ぎ、まだまだ野蛮なレベルであった他の総てのゲルマンに対する、圧倒的優位性が形成されて行った。
各局、クロービスの息子『シャルル・マーニュ』が旧西ローマ帝国領を再統一して、ローマ教会から「帝冠」を与えられ、ここにローマの復活が為された。
『神聖ローマ帝国』である。
レミーは、西ヨーロッパのキリスト教世界秩序の救世主、と言う事で、死後<列聖>されて『サン(聖)・レミー』となった。
サン・レミーの「聖墳墓」
教会内部の彼の墓の裏側に、クロービスを洗礼するサン・レミーの彫刻が見られる。
聖墳墓正面のノゾキ扉
正面に、小型の<門>の様な扉が有り、鉄柵越しに、聖遺物梱が覗き見える。
黄金の聖遺物梱の前面に、『この下に聖人レミーが眠る』という刻字が有る。
そんな事より、シャンパーニュと言えば『シャンパン』です!
葡萄畑
この葡萄畑の、色っぽい程の優美な眺めに、うっとりとしてしまうでしょう?
そして、ランスから南下し、エペルネーを経て南へ140キロほど、最後に『トロワ』までに、『シャンパン街道』と名付けられたルートが有る。
『ルート・デュ・シャンパーニュ(シャンパン街道)』の道標
その、南端のトロワに近い幾つかの村々を繋いで、この週末『シャンパン祭り』が行われていた。
早速、視察に行ってみました。
シャンパン祭りのポスター
いやはや、大賑わい。
葡萄畑と林とが連なる、なだらかな起伏の間をうねる間道が、片側一車線で、数キロ手前から大渋滞。
村の入り口は封鎖されて車は入れず、近隣諸国からの大勢の訪問客で、大賑わいでした。
始め、村の入り口あたりに、グラスを売るテントが有る。
グラス販売のテント
ここで、10ユーロで<シャンパン・グラス>を購入。
地図がついて来るが、その地図に10数カ所の「シャンパン・ハウス」の位置が数字付きで示されて居り、夫々の「試飲券」が切り取れる用になってついている。
あとは、目一杯歩き回って、飲んで楽しもう、と言う訳。
<No8>のシャンパン・ハウスへの指示
シャンパンの元となる白ワインを醸造する為の葡萄の圧搾機
ジャズバンド
シャンパン・メーカーの敷地内や、村の通りの其処ここにジャズバンドが待ち受けていて、いやが上にも雰囲気を盛り上げていた。
通りに沿った民家
家と言う家は、お花で飾り立てられて、絵本の中の様な光景です。
壁面を葡萄で飾った民家
木こりの彫刻「葡萄を持つ手」
ハンドクラフトのテント有り。
焼きソーセージの屋台あり。
村の通り
なんと、教会前に<救急車>が待機中!
村の教会
あるシャンパン・ハウスの建物
試飲カウンター
そして、今年の『ミス・シャンパン祭り』までが、オープンカーで練り歩く有様!
2011年度「ミス・シャンパン祭り」
そして、特別参加の「ベルギー・ワインの振興団体」までが大型バスで参加していました。
ベルギーのワイン振興団体のおばちゃま達
何ともはや、実に大盛り上がりの一日でした。
どうです、来年は、行ってみませんか?
今週の【フォトの旅】は、シャンパーニュ。
パリを中心とした、半径50キロほどの地方を、『フランシリアン』地方と言う。
かっての『フランク王国』の直轄領であった。
この名が、フランスの国名になったのです。
ちなみに、行政区分の地方(いわゆる道州制)名で言うと、「イル・ド・フランス」。
その東に隣接するのが『シャンパーニュ』地方だ。
首都は『ランス』。
パリから100キロ。
そのまま、東に行けば『ロレーヌ』と『アルザス』と繋がって、ライン川を越えてドイツ。
まだ600キロほど有るけれど。
そのランスの他、主邑となる都市は、『シャロン』と『トロワ』。
ローマ人達がやって来るずっと前から、非常に開けていた。
ヨーロッパの中心部を東西に結ぶ大平原で、古来より「東西」と「南北」との動線の交差する所を占め、人と物の動きの全てを賄って来たのだ。
ローマの『侵略』に抵抗した、ガリア(現在のフランス全域)に分布する『ケルト族』の中に有って、ユリウス・カエサルと同盟を結んだケルトの一枝族『レムス(レメウス)族』は、ケルト全体からは「裏切り者」であったが、その故に「平和と安定」とを享受した。
その「レムス族」の部族名から、中心都市『ランス』が生まれる。
13世紀に有って、『シャンパーニュ伯』は、フォワール(大市)を年に一回、三都市持ち回りで開催し、ヨーロッパ全域から商人が集まって、盛況を博したそうだ。
何しろ、人間の行動半径が極めて小さく、治安や手段など、旅程が大変危険な時代。
農村における物物交換が経済だった時代に、「市」を起てる事は、領主の特権であった。
この「フォワール」と言う言葉から、英語のフェアーが生まれる。
「開店記念フェアー」のあれです。
しかし、何と行ってもランスと言えば、ゴシック建築の焦眉、大聖堂の華、『ノートル・ダム・ド・ランス』がそびえ立つ。
政界遺産です。
ノートル・ダム・ド・ランス大聖堂
それ以前に存在していたカテドラルが火災に遇った1220年、時の大司教は「この世の天国」を求めて、地上の最高最大のカテドラル建設を決めた。
翌年、1221年に着工。
パリのノートル・ダムに遅れる事58年。
その間に、パリ地方で「新技術」が完成の域に達していた。
その、新しい建築理論を導入し、僅か64年で完成を見る事になる。
パリのそれが、167年を要した事を考えると、異例のスピードであった。
なぜか。
ここ、ランスは「フランス国王」の戴冠式を行う所だったからである。
フランス王室に取って、戴冠敷を挙行する大聖堂が「無い」状態が長く続く事は、許されない。
かつ、ランス市民に取っては、町の地位を決定付ける「戴冠式」を行う大司教座の大聖堂は、プライドの象徴であった。
このランスのカテドラルで、特に名高い物が、正面「ポルタイユ(中央玄関口)」の彫刻群の中の、『微笑む天使像』である。
微笑む天使
『仏教』は、慈悲の宗教である。
<命>は、その違いを問わず、総て尊い。
たとえ、虫けらであろうとも。
ひとえに、命を慈しみ、民を優しく「極楽」へと導く教えを諭す。
ところが、『キリスト教』はそうでは無い。
キリスト教の生まれた場所、そのキリスト教の先祖である『ユダヤ教』の生まれた場所は、『パレスティナ』。
荒涼たる礫漠と砂漠とに囲まれ、或は月世界の如き高山に阻まれ、照りつける太陽は容赦なく、人々は息も絶え絶えに暮らしていた。
今日、食えるかどうか、定かでない。
明日、生きていられるか、誰も保証出来ない。
そこでは、一つの判断の過ちが、そのままおのが命を代償としなければならなくなる。
そんな環境では、厳しく己を律して、「神の教え」に忠実に「正しく」生きなければ、民族全体が存在を危うくする。
そのような環境で生まれた宗教の<神>は、峻烈を極め、民を激しく試す。
ましてや、宗教観が生活の総ての規範で、社会はキリスト教のシステムで出来上がっていた時代に、「神」や「天使」が<微笑む>事等、あり得ない。
そんな「中世」の大聖堂に正面に、微笑む天使がおわします事自体、例外的な事なのだ。
微笑む天使(ディテール)
内部は宏大。
奥行き136メートル。
天井高38メートル。
内外ともに、壁面は<ステンド・グラス>と<レリーフ>とで飾られている。
特に、『シャガール』デザインのステンド・グラスが、異彩を放つ。
シャガールのステンド・グラス
そして、あの『百年戦争』終盤、母王妃の一方的な停戦条約のせいで、王位をイングランド王に与えられ、皇太子を廃嫡されていた『お可哀想な皇太子殿下』と呼ばれていたシャルルに、オルレアン奪回後、ここランスをイングランドから奪い返し、無事<戴冠式>を挙行させて『シャルル7世』として即位させた、『ジャンヌ・ダルク』の存在は、欠かせない。
ジャンヌ・ダルク
その、ランスのカテドラル「ノートル・ダム」に隣接する、かっての<大司教館>が『トー宮殿』という。
これも政界遺産。
トー宮の門
トー宮外観
その内部は、かなり当時の内装は失われている物の、往時を忍ばせる壮麗さが感じられる。
大広間
そして、歴代国王を戴冠した、様々な資料が展示されている。
『ルイ15世』の戴冠式公式記録
ルイ16世の末弟『シャルル10世』の戴冠式用マント
シャルル10世佩帯の最高勲章『精霊勲章』
ところで、歴代フランス王達は、何故に「ランス」で、戴冠したのか。
それが、ここランスの三つ目の世界遺産『サン・レミー・バジリカ教会』にある。
「サン・レミー」バジリカ聖堂
西暦498年。
ここランスの司教であった「レミー」が、当時隆盛を極めていたゲルマンの雄、『フランク』族の王『クロービス』を、カトリックに改宗させて、洗礼を施したからなのだ。
西ローマ帝国を滅亡させた後も、覇権争いが続き割拠していたゲルマン諸族の中の、フランク族が優勢となり、他のゲルマンの諸族を制覇しつつ有った。
当時、現在のフランス東北部全域に勢力を張っていた『アラマン族』との戦いに際して、フランク王クロービスは、勝利した暁にはキリストの神に仕える事を、妃に約束した。
妃は既に「キリスト教徒」であった。
その戦いを、ランス司教レミーが、勝利祈願のミサを行って送り出した。
クロービスは、アラマン人を撃破し、彼等はライン川の東岸に退却する。
ちなみに、それ以降アラマン人の支配地を、フランス語で『アルマーニュ』と呼び、現在もドイツをフランス語でこう呼ぶ。
レミーは、フランクの王を改宗させ、洗礼を施した。
それによってフランクは、古代ローマの「法体系」「軍事制度」「税制と徴税方法」「行政制度」などを、カトリック教会を通じて受け継ぎ、まだまだ野蛮なレベルであった他の総てのゲルマンに対する、圧倒的優位性が形成されて行った。
各局、クロービスの息子『シャルル・マーニュ』が旧西ローマ帝国領を再統一して、ローマ教会から「帝冠」を与えられ、ここにローマの復活が為された。
『神聖ローマ帝国』である。
レミーは、西ヨーロッパのキリスト教世界秩序の救世主、と言う事で、死後<列聖>されて『サン(聖)・レミー』となった。
サン・レミーの「聖墳墓」
教会内部の彼の墓の裏側に、クロービスを洗礼するサン・レミーの彫刻が見られる。
聖墳墓正面のノゾキ扉
正面に、小型の<門>の様な扉が有り、鉄柵越しに、聖遺物梱が覗き見える。
黄金の聖遺物梱の前面に、『この下に聖人レミーが眠る』という刻字が有る。
そんな事より、シャンパーニュと言えば『シャンパン』です!
葡萄畑
この葡萄畑の、色っぽい程の優美な眺めに、うっとりとしてしまうでしょう?
そして、ランスから南下し、エペルネーを経て南へ140キロほど、最後に『トロワ』までに、『シャンパン街道』と名付けられたルートが有る。
『ルート・デュ・シャンパーニュ(シャンパン街道)』の道標
その、南端のトロワに近い幾つかの村々を繋いで、この週末『シャンパン祭り』が行われていた。
早速、視察に行ってみました。
シャンパン祭りのポスター
いやはや、大賑わい。
葡萄畑と林とが連なる、なだらかな起伏の間をうねる間道が、片側一車線で、数キロ手前から大渋滞。
村の入り口は封鎖されて車は入れず、近隣諸国からの大勢の訪問客で、大賑わいでした。
始め、村の入り口あたりに、グラスを売るテントが有る。
グラス販売のテント
ここで、10ユーロで<シャンパン・グラス>を購入。
地図がついて来るが、その地図に10数カ所の「シャンパン・ハウス」の位置が数字付きで示されて居り、夫々の「試飲券」が切り取れる用になってついている。
あとは、目一杯歩き回って、飲んで楽しもう、と言う訳。
<No8>のシャンパン・ハウスへの指示
シャンパンの元となる白ワインを醸造する為の葡萄の圧搾機
ジャズバンド
シャンパン・メーカーの敷地内や、村の通りの其処ここにジャズバンドが待ち受けていて、いやが上にも雰囲気を盛り上げていた。
通りに沿った民家
家と言う家は、お花で飾り立てられて、絵本の中の様な光景です。
壁面を葡萄で飾った民家
木こりの彫刻「葡萄を持つ手」
ハンドクラフトのテント有り。
焼きソーセージの屋台あり。
村の通り
なんと、教会前に<救急車>が待機中!
村の教会
あるシャンパン・ハウスの建物
試飲カウンター
そして、今年の『ミス・シャンパン祭り』までが、オープンカーで練り歩く有様!
2011年度「ミス・シャンパン祭り」
そして、特別参加の「ベルギー・ワインの振興団体」までが大型バスで参加していました。
ベルギーのワイン振興団体のおばちゃま達
何ともはや、実に大盛り上がりの一日でした。
どうです、来年は、行ってみませんか?
「飲めなくても楽しいよ、ゲコゲコ」(シャンパーニュ地方に生息する蛙の声)
もちろん日本からですが・・・
こういうお祭り、良いですよね。
日本では悪酔いする人が多いから、難しいのかな??
それにしても当日(バスツアー)のガイドさんが詳しく歴史の話をしてくれましたが、同じようにランスについてとても詳しく説明があり、ふむふむと読ませていただきました。
歴史がわかっていると、旅も一味違ってきますね。
とはいえ、今回は私もシャンパン♪が目的でしたので、ガイドさんのお話も耳半分で・・・苦笑
コメントありがとうございました。
おお、お出かけにうなったのですか!?
日本の方はお見かけしませんでした。
シャンパンのハシゴをされたのですね。
悪酔いしませんでしたか(*^_^*)
ブルゴーニュのワイン祭りにも、是非どうぞ!
今後も宜しくお願いします。
シャンパーニュ祭りでは確かに私たちバスツアー組以外の日本人はいませんでした。
このお祭りも含めて、また色々と地方へ行ってみたいと思います。
それにしても歴史を含め、お詳しいですね。
眠たくてガイドさんの話がとぎれとぎれでしたので、助かりました!!
二日間のイベントだった様ですが、併せて何人の日本人が訪れたのでしょうね?
フランスのお祭りは、ワインがらみが多いです。
是非、いらして下さい。