joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

本来の学びの場

2008年10月05日 | 日記
「講義ノート屋」氷河期 京阪神の大学で「閉店」続出(朝日新聞) - goo ニュース


この記事に

「大学での学びは誰のためにあるのでしょうか。授業に出席することなく、『講義ノート』に頼ろうとする試験対策は安易であり、本末転倒です」

という大学の学長が学生に送ったーメール文が紹介されている。

よくわからないのは、なぜ「授業に出席することなく、『講義ノート』に頼ろうとする試験対策は安易」なのだろうか?

講義ノートを読んで勉強することのどこが安易なのか?

学者が出している書籍の中には、その学者の講義を学生がノートにしたものも多くある。もちろんその中には名著と呼ばれているものもある。

講義ノートを読むことも、著者が執筆したノートを読むことも、同じです。結局はそれを読んで、読者は著者の考えを理解するのだから。

講義ノートを読んで勉強することは、本を読んで勉強することと同じです。

そこには安易さなどありません。

そんなことは、自分自身の研究過程を振り返ればわかるはずです。

学者の人ほど、そのことを理解しているはずです。

なのに、なぜこの学長は

「『講義ノート』に頼ろうとする試験対策は安易」

などとおかしなことを言うのでしょう?




本当におかしなことは、勉強するためには講義に出なければならないという考え方にあります。

「講義に出る」。

これほど時間と労力を浪費し、学生の勉強への意欲をなえさせるものはありません。

人の話を聴いて、それを理解して、ポイントをノートにまとめる。

これはとても難しく労力のいる作業です。

もちろんそのような作業を完ぺきにこなすことは、社会に出てからの財産になるでしょう。

でも、それは大学の勉強に必ず必要な作業ではありません。

一番勉強しやすいのは、読んでわかる文章でまとめられた本を勉強すること。


だから、大学の先生が学生に自分の言いたいことを本当に理解して欲しかったら、自分の言いたい内容を文章にして本にして販売すればいいだけです。

出版社が出版してくれなかったら、コピーを配ればいい。

何も言葉と黒板だけで説明するという、聴く人にとって分かりにくいことをする必要はありません。

そんなのは時間の無駄です。

大体、何十人・何百人もいる教室でおもしろい講義をするなんて、普通の人には無理です。余程の達人でも、毎週毎週するなんて不可能です。

そのような講義に出ないと勉強したとみなさないなんて、おかしいにも程がある。100分間机に座るという拷問に出ないと単位を出さないなんて、学問とはまったく関係がありません。

もしそんなことを考えている学者がいたら、即刻考えを改めてください。



大学の講義というものは、本当は要りません。

要るとしたら、学生が分からなくなった時に、教えてあげることができる人です。

教室では講義がなく(だから教室も必要なく)、教師は学生の質問にいつでも答えてあげることができるよう研究室で待機する。


それが本来の正しい学びの場です。