「神戸、北野」
アメリカの絵本作家ターシャ・テューダとの語らいの中で拾った彼女の言葉を一つ一つページに載せたのであろう、『思うとおりに歩めばいいのよ―ターシャ・テューダーの言葉』
を読みました。
でも、読みましたというより、本当は見ましたというほうが正確かもしれない。ターシャ・テューダの透明感のある素顔や彼女の美しい庭を切り取ったその写真はとても素晴らしいものです。できれば、もう少し陽の当たった日に取った写真を見たかったけれども。
でも、この写真を撮ったリチャード・W・ブラウンという人の写真はとてもいい。何がいいのだろう。ターシャ・テューダやお庭が生き生きととても生命感のあるものに感じられる。
ターシャ・テューダ自身はすでに高齢なのでゆったりとした感じだし、お庭も混沌の中に秩序を見出しているようなたたずまいです。アメリカの田舎(バーモント州、NYの北っかわか?)の一軒家と広いお庭を撮った写真です。静かなはずのそのお庭が、とても動的な感じがします。
そういえば、エリザベス・キューブラー=ロスも、晩年で田舎で一人暮らしをしていたと思う。キューブラー=ロスがいたのは西海岸の近くの田舎だけど、同じような感じなのかな。
そういえば、イタリアの作家スザンナ・タマーロも、イタリアの田舎で一人暮らしをしていたと思います。
「わたしは想像の世界で暮らしています。
もしかしたら、臆病なので、
頭を隠して世の中の現実を見ないようにしているのかもしれないわね。
でも、それも楽しい生き方ですよ」
彼女のお庭も、家も、彼女の美意識が強烈に反映されたものなのだと思います。
整然としていないし、むしろ混沌としているのですが、それは彼女がお気に入りのものをすべて自分の手元においておきたいので自然にそうなったという感じです。
彼女は自分の美意識に優越感も劣等感ももたず、ただ好きなものを好きだと表現することができるのです。これは簡単なようで簡単じゃないかもしれない。私(たち)の美意識は、その裏に自分の美意識にそぐわないものへの蔑視を含んでいるからかもしれないから。
ターシャ・テューダは、自分の好きなものに囲まれて安らぎ、それに満足でき、好きなもの以外のことを考えなくていいところまで来ています。
それは他者を排除するのではなく、彼女にとって自分と他者の区別はなく、ただすべてが自分の世界となっているので、他人を排除する必要がないのです。
「庭はわたしの自慢なの!
謙遜なんかしないわ。
うちの庭は、地上の楽園よ!」
僕はターシャ・テューダのことはまだよく知らないけど、彼女に多くの人が惹かれるのは、都会の喧騒や世の中の雑事から離れて(もちろん彼女は絵本作家として印税で自活しているので、雑事にもまみれているのだろうけど)、田舎で暮らしているというところにあるのではないように思う。
そういう部分ではなく、あるいはそういう部分だけではなく、彼女の自分自身への満足感や安らいだ印象に、人々は人間の理想を見出すのではないかと、そう想像してしまいます。
自分の価値観・美意識に満足すること。それでいながら、他人を嫌悪したり排除したりしないこと。ただ、自分の世界はこう、と宣言できること。
「女らしさは女性の大きな魅力です。それをどうして捨ててしまうの?
女性が長いスカートを履かなくなったのは、たいへんな間違い。
半分しか見えないのは、全部見えるよりずっと神秘的で、楽しいものです」
「わたしは絶対、1830年代の人間の生まれ変わりだと思います。
だから、死んだから、迷わず1830年代に戻ります。
わたしは1800年から1840年のイギリスのイプスウィッチに行って、
船長の奥さんになりたいわ」
多くの人がターシャ・テューダの生き方にあこがれるけど、もちろん誰もが彼女のように田舎で一人で暮らせるわけじゃないし、またそうする必要ももちろんないでしょう。また彼女のような庭を誰もが作る必要もないし、山羊を飼う必要もありません。
でも、彼女のように、自分自身の価値観・美意識をもてることは、とても憧れます。
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