昔、よく、「出ていきなさい!」と言われ、玄関の前でしゃがんで泣いたり
「押し入れに入ってなさい!」と言われ、押し入れの暗がりで眠ってしまったり、
そんなこと・・・あった。
でも、親の、そして子どものテリトリーでの出来事だった。
親は、いつでもどこかから見ていてくれた。
感覚のマヒと想像力の欠如・・・
感情のコントロール・・・
そういったことのバランスがどこかでくるってしまう。
批判とか、攻撃とかではなく、最近の社会は、どこか感覚が鈍っている。
子どもが、無事であること・・・祈りつつ、
様々な、感覚のずれには違和感を覚えずにはいられない。
社会での出来事が、すでに私の想像を超えたところにある。
つまり、私自身も想像力の欠如状態なのであって、
劇的なことは、劇場ではなく、社会で頻繁に起きている。
9.11.の時にそのことを強く感じて、身動きできなくなった。
『穏やかな日常』は今や探すことすら、困難になりつつある。
昔だって、トラブルがなかったわけではない。
でも、トラブルとならないように自分をコントロールする能力を持っていた気がする。
社会に力があった気がする。
攻撃的ではなく、刺激的ではない日常・・・
攻撃性とか刺激を求める心がなかったわけじゃない。
そういったものを自制する能力があった。
そして、そこには苦悩が生まれた・・・
だからこそ、人々は、
その自分の中にあるなにかを何とかする場を求めたのではないだろうか。
それが、小説であったり、絵画であったり、歌であったり、劇場であったり・・・
そういった表現世界のほうが、今や、穏やかだったりする。
どこへ向かうのだろう、何をすればいいのだろう。。。
混沌の中で・・・どこへ向かへばいいのだろう。
近所の公園にでも行って、保育園の子どもたちのお散歩を眺めている・・・
そんな時間が、一番幸せなのかもしれない。
明日は6月・・・今日は、片付けをしなくっちゃ。
昨日は、少しだけ雨が上がっていたので、庭に出てしまった。
自分の周りを混沌から救い出さないと・・・なにも見えてこない。
雲が多いが一日のようだが、空が少し明るくなった。
何かが少し前へ進みますように・・・
そして、愛が空気を包んでくれますように・・・
「押し入れに入ってなさい!」と言われ、押し入れの暗がりで眠ってしまったり、
そんなこと・・・あった。
でも、親の、そして子どものテリトリーでの出来事だった。
親は、いつでもどこかから見ていてくれた。
感覚のマヒと想像力の欠如・・・
感情のコントロール・・・
そういったことのバランスがどこかでくるってしまう。
批判とか、攻撃とかではなく、最近の社会は、どこか感覚が鈍っている。
子どもが、無事であること・・・祈りつつ、
様々な、感覚のずれには違和感を覚えずにはいられない。
社会での出来事が、すでに私の想像を超えたところにある。
つまり、私自身も想像力の欠如状態なのであって、
劇的なことは、劇場ではなく、社会で頻繁に起きている。
9.11.の時にそのことを強く感じて、身動きできなくなった。
『穏やかな日常』は今や探すことすら、困難になりつつある。
昔だって、トラブルがなかったわけではない。
でも、トラブルとならないように自分をコントロールする能力を持っていた気がする。
社会に力があった気がする。
攻撃的ではなく、刺激的ではない日常・・・
攻撃性とか刺激を求める心がなかったわけじゃない。
そういったものを自制する能力があった。
そして、そこには苦悩が生まれた・・・
だからこそ、人々は、
その自分の中にあるなにかを何とかする場を求めたのではないだろうか。
それが、小説であったり、絵画であったり、歌であったり、劇場であったり・・・
そういった表現世界のほうが、今や、穏やかだったりする。
どこへ向かうのだろう、何をすればいいのだろう。。。
混沌の中で・・・どこへ向かへばいいのだろう。
近所の公園にでも行って、保育園の子どもたちのお散歩を眺めている・・・
そんな時間が、一番幸せなのかもしれない。
明日は6月・・・今日は、片付けをしなくっちゃ。
昨日は、少しだけ雨が上がっていたので、庭に出てしまった。
自分の周りを混沌から救い出さないと・・・なにも見えてこない。
雲が多いが一日のようだが、空が少し明るくなった。
何かが少し前へ進みますように・・・
そして、愛が空気を包んでくれますように・・・
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