CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

ゴジラとGodzilla

2019-06-16 11:24:08 | 表現にからむ様々なこと
Godzilla: King of the Monsters・・・納得できないなぁ。
というか、ゴジラとGodzillaは、似て非なるものだと思っていたが、
それが、正しいということをしっかり刻むこととなった。

日本で『ゴジラ』が誕生したのは1954年
その時代背景の中で、覚悟をもって、
そして、強い意志を持って、誕生したであろう『ゴジラ』
その最初の『ゴジラ』から62年、
28作目から十二年の時を経て公開された『シン・ゴジラ』は
現代において、その社会性を見事に表現するモノになっていた。

人間は、共通した苦難を目の前にしたとき、
『敵』がはっきりしているときには、
それが大きな力となり、
どんなに『敵』が不動のものに見えても
立ち向かっていくものであると私は考える。

しかし、一方で、その『敵』が巧妙にその姿を隠し
『情報』も管理統制操作され、
『なんとなく』生存できる状態だと、
その力は分散し、立ち向かう『敵』を見失い、
できればもめごとは避けたいという態度が蔓延していく。
現代社会は、そんな状況なのではないか・・・
そんな状況下で、『シン・ゴジラ』は、
あの時代の『ゴジラ』の精神を受け継いでいたという感がある。
社会性があり、表現したいことを『映画』という手法でちりばめていた。
さすがだ・・・と、
良い映画だ・・・と、
思ったことを覚えている。

が、長期短期記憶が望めない我が頭はそれを具体的には語れない(^^ゞ

さて『ゴジラ』の芹沢大助は、その姿に科学者の葛藤、プライドを見ることができる。
芹沢が自らの死をもって、「オキシジェン・デストロイヤー」を葬り去る姿は、
特攻精神ととられがちだが、私には科学者の苦悩と葛藤とプライドが、
彼に『死』を選ばせたとしか思えない。
「もし世界の為政者らにこれを知られたならば原水爆と同様に悪用されることになる」
彼は、資料を燃やしてほおむりさっても、自分の頭にその設計図は残っている。
それを求める輩が自分を放ってはおかないし、
自分の心だってそれを拒否しきれるといいきれない。
と人間の弱さをきちんと認識している・・・そんな芹沢の葛藤を見事に描いている。
芹沢の『死』は自らの意志であったことが『特攻』との大きな違いである。

『ゴジラ』は多くのことを私たちに考えさせる。
私が涙するのは銀座のデパートで子ども二人をかばいながら母親が
「お父さんのところへ行けるよ」というシーンである。
おそらく戦死したであろう夫。
戦後日本中に多くの人たちが同じような状況で頑張って生きていた。
時には、『死』を選びたくなる時もあっただろう。
子どもを抱きしめながら、話しかける母親の姿に涙する。
実は、この親子あとの場面で、その生存が確認できる。
そこで、思いっきりほっとする私なのです。

映画史上の名作であるといって過言ではない『ゴジラ』
そこには人間がしっかり描かれ、社会が凝縮されている。
『怪獣』という姿を借りて、水爆実験ノーをきちんと示している。

そんな私が観たら、違和感だらけであるハリウッドの『GODZILLA』

リブートであると理解しつつも、やはり・・・
いろいろ思ってしまうのが人の性でしょうかねぇ。。。

特に今回、芹沢博士の死に方は、そりゃ違うでしょ・・・と思ってしまう。
なにしろわざわざ『芹沢』の名を使っている。
あの『芹沢』だ。
それぞれに思い入れがある、あの『芹沢』だ・・・

GODZILLAの立ち位置も違う・・・
なんかなぁ・・・
なんかなぁ・・・

怪獣バトルの娯楽映画として割り切って観ればいいと
自分に言い聞かせるが、いろんな点で釈然としない。

まぁ・・・日本人なんだな・・・と思わなくもないが、
日本人がみんな同じ感想ってわけでもないしな・・・

あ・・・こんな時間だ。

とりあえず、このあたりにしておこう。。。

この話題から、杉田さんから『シェーン』の話を聞いた。
どこでどうなって、『シェーン』につながったのかよくわからないが、
『シェーン』も観直さなくっちゃと思った私なのでした(^.^)