CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

そのことを私は考えている。

2019-06-12 08:20:49 | 表現にからむ様々なこと
私が歌い始めたころ、
右も左もわからずに、
歌い始めたころ・・・
10代の頃からずっと私を知る演出家が、
私にいつも通り長文のメールをくれた。
『歌う行為』について、様々書いてくれたのだが、
そのメールがどこを探せば出てくるのか、整理能力皆無の私にはわからない。

ただ、彼が言っていたことをその時理解できなかったことだけは覚えている。
今読めば、少しは理解することができるかもしれないのにと思うのだが。

『ものがたり』はすでに終わった。
『すべての表現行為』は20世紀にやりつくしている。
そんなことをあれやこれや思いながら、いま、この時代にリアルに生きながら
何をどう表現するのかということは、私にとっていつも大きな課題ではあった。

かのピーター・ブルックが
『オペラは人類が初めて洞窟から出たときに発した声である』という意味のことを言っているが、
まさしくそこから発展し、形式を構築してきた表現というものが、存在している。

さて、誰しもひと度『人前に立つ』という非日常を与えられたとき、
それは、すべてが『意識的』な世界となる。
そこにはある種の緊張が生まれる。
その緊張を越える技術であったり、訓練や稽古であったり、
想いの強さがあったりしなければ『立つ』ことはできない。
その『意識的』な世界を『素』で生きることができたら・・・
意識された『素』である。
そのことを私は考えている。

話を変えよう。

私は、MC(曲間での喋り)なるものの存在と『歌う』という行為の落差に苦しんだ。
『歌う』行為は意識的モノであるが、
MCがどうもよくわからない、その立ち位置がわからない。
私は、マイクを持つという行為によって、自分が不自由になることを感じた。
マイクは、妙な緊張感を生むのである、『私、歌います。』的な緊張感。

それと、
私は、歌に自分を近づけることより、歌を自分に近づけるようにしてきた。
よくわからないのだが、その方が自分の言葉として発することができるから。
その一方で、どんなに感情的な歌でもコントロールできていないといけない。

いま、まだ『歌う』という行為に集中するので、MCがボロボロである(笑)
そこまで、意識できるようにならなくてはな・・・と思っているが、
いやはや、それが、なかなか難しい。
そのことを私は考えている。

もう一つの話。
60年代から70年代の日本は、戦後の混乱から立ち直り
高度経済成長へと力強く変化していた時代。
その時代の表現は、その日常から非日常へと誘うものだった。
そして、このままでいいのか、もっと狂え、安定なんてクソクラエとばかりに、
人間の持つある種のエネルギーを象徴するモノであった。
80年代になると、多くの人たちが表現する場を得ていく。
60年代70年代象徴的だった向こう側の世界に自らが立ち、
表現者となり、多くの若者が、活動を始めるようになる。
それは、高度経済成長が生んだ経済効果の一つなのかもしれない。
そして、空前のカラオケブーム。
誰しもが歌い、酔いしれる。
しかも、かなり、うまい。
21世紀インターネットが普及し、
ストリップ劇場に行かなくても刺激的な映像は、
自分の部屋までやって来る事態となった。
もちろん、世界中の音楽が布団の中に寝転がっていても楽しめ、
電車の中でも道を歩いていても、耳には、音楽があふれている。

そして、9.11.である。

あの時、少しずつ感じていた『日常が虚構を越えているのではないか。』
という感覚を、一気に確信にまでもっていった。
それまでも、現実の社会で虚構を越えた行為や事件は多々あった事は確かだ。
しかし、あの9.11.で現実社会の異常性を、
人間がここまで来てしまったということを身体の髄まで感じたときは無かった。

現実が、想像(創造、あるいは虚構)をはるかに超え突っ走ってしまった現代。

誰しもが、多くの情報が氾濫し、自由にコミニュケーションできる時代に生きている。
ところが現実は、コミニュケーションをとることも不自由にな時代に生きているのだ。

表現するという行為で、いったい何ができるのだろうか・・・
そう思ったとき、自分がどう『立つ』のか・・・

私は、ずっと、そのことを考えている。

ライブの感想をたくさんの方から頂戴した。
とても嬉しいし、ありがたい。

自分一人の視線ではなく、他者の視点を受け止められることは刺激にもなる。
もちろん、落ち込むことも、木に登るほど喜ぶことも様々だが(笑)

今朝、起きて最初に目にしたのは、メッセンジャーにいただいた感想だった。
とても興味深く読ませていただいた。

先日このブログにも書いたように、
私は自信がない人間だし、音楽の世界からは遠いところに生きてきた。
そんなある意味ど素人が、『歌う』という行為と向き合っている。
この歳になって・・・である。
まぁ、そんな馬鹿な女が世の中にいたっていいじゃないか・・・そう思う。

『意識された素』
『意図された素』
そのことを私は考えている。

そんなことが、自分の表現でできれば、これは、めっけもんである。
それは、日常の延長であり、決して日常ではないそんな世界なのかもしれない。
朝、メッセンジャーを読んでから、少なくともCuniCoの頭はフル稼働した。