うさぎくん

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BOT

2018年04月02日 | ビジネス

ネットでBOTを検索しても、ロボットの略、としか出てこない。もともと世間一般に使われていた略語ではないのだろうけど、自分のいた職場ではBOTとは東銀、The Bank of Tokyoのことを指した。

大手銀行の再編が一気に進んだのは’97年ごろ、山一証券、三洋証券、そして北海道拓殖銀行破たんしたころからだと思うが、東京銀行はそれより少し前、1995年の春に三菱銀行と合併し、姿を消した。東京の名前だけ、三菱東京UFJ銀行という長ったらしい名前の一部に残していたが、これも昨日からなくなってしまったのは、ニュースで伝えられたとおりだ。

’97年の金融危機のことを先に書いたが、13行あった都銀はそれ以前から少しずつ再編が進んでいて(太陽神戸+三井、協和+埼玉)、次第に体力勝負の様相を呈するようになっていた。東京銀行はもともと外国為替専門銀行で、他の全国銀行とは違う地位を与えられてた。支店の数もたしか国内に30ぐらいしかなかったと思う。1980年代に入り、他の大手行も外為に本格的に参入し、東銀がいずれ何らかの事業再編を迫られることは、既定の事実になっていた。

時期は忘れたけど、年配のメッセンジャーの方が、東銀と三和(のちのUFJ、転じて現三菱UFJ)と合併するらしいね、と聞いてきたことがある。そのときは本当に知らなかったので、いや、聞いてませんよ、と答えたが、その方は東銀が消えてしまうことをかなり本気で心配し、残念に思ってたようだ。

三菱は、都市銀行の中では上位には位置していたが一番ではなかった。それがこの合併で一気に国内最大、世界でも有数の大銀行に上り詰めることになった(当時は円高が一気に進んでたしか90円弱ぐらいまで行ってしまい、ドル建てで計算するとすごいことになるという、いつもの構図)。今日的な視点では、三菱はメガバンクでももっとも目立つ存在なので、そんなに違和感がないが、当時はあの三菱がねえ、という意外感はあったな。

とはいえ、東銀は独特の行風-なんとなくバタ臭い-があり、それにくらべると三菱はちょっと雰囲気ちがう感じがしたので、そこから来る寂しさというのは、外部者である自分にもあった。東銀マンというのは、外大とかを出て、海外赴任とかを経験し為替に詳しい特別なエリートだったのだ。よく地方の銀行とか相互銀行などが、東京支店で外為本部を作ったりすると、東銀出身の人を呼び寄せて指揮を執らせることが多かった。一般の行員は外為を知らないからだ。自分のいたところ(外国銀行の東京支店)にも、東銀の人がいた。日銀や監督官庁にパイプがあるからだ。

東銀の事務センター出身の子と仲良くなって話すことがあったが、事務センターの上司は英語ぺらぺらの超エリートだったが、なにかがあって、事務センターにやられたらしく、腐ってどうもやりにくい人であったらしい。。ただ一般には、東銀の人は辞めても引く手あまた、という状態が普通であったようだ。

で、上の写真だが、これは入行してすぐに、受けさせられた外為講座の終了証とテキスト。東銀の関連会社が主催していた、金融関係のセミナーのひとつ。外国為替はまだ特殊な世界だったので、東銀の子会社が主催していくつかの講座を開いていた。

場所は今のiiyoがあるビルもあたりだと思う。東銀ビルという、戦前の建物のような古いビル(詳細不明)がそのころ建っていた。この地図も古いというか、まだ国鉄本社なんて、、と思ってみていたが、考えてみると民営化はこの少し前のことだった。古いことは確かで、たぶんこの地図の中で、今でも当時の建物のままなのは海上ビルぐらいじゃないかな。

こんな話、ふだんは(なんだか偉そうできまりが悪いし、昔話ばかりするおっさんってのもなんなので)したくないのだが、まあたまには。。

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