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慣用読みの合理性

2006-08-10 23:28:58 | 文字を読む

 上の二行は、正式でない読み方が慣用読みとして定着してしまったものとしてよく挙げられる例です。
 「耗」「憧」「獰」など音を表す部分の旁が「毛」「童」「寧」ですから「もう」「どう」「ねい」と読むのは無理からぬところです。
 実用的には「こう」「しょう」「どう」と読まなければならない理由はありません。
 消耗の場合は文字を知らなくても「しょうもう」という言葉が定着してしまって、「しょうこう」では通じにくくなっています。
 「憧憬」の場合は耳で「しょうけい」という言葉を知っていても、漢字を読むときつい「どうけい」と読む人がいます。
 「どうけい」という読み方がかなり普及して耳でも「どうけい」ということばを聞いているからです。
 「獰猛」の場合はたいていの人は「どうもう」と耳で覚えていて「ねいもう」というのはあまり聞かないと思います。
 それなのに、なぜ「ねいもう」と読む人が多いかといえば、活字で「獰猛」を見る機会が少なく、カナで「どうもう」とか「どう猛」などというのを見ているためでしょう。
 「捏造」の場合は「ねつぞう」が正しいか「でつぞう」が正しいか分からないのですが、耳で聞くのはほとんど「ねつぞう」のほうです。

 漢字の読みは呉音、漢音、唐音などがあって、基本的には中国から単語が伝わったときの読みが正しいとされるのでしょうが、中国での読み方自体は時代によって変化しているのですから、正しい読みといってもある時期日本に定着した読み方にすぎません。
 三種類以上の音読みというのは慣用が支えで、論理的な根拠はないので、誤読といわれるものの方が一貫性を求めているので合理的ではあります。
 ながい眼で見れば、誤読とされる慣用読みが定着したほうが読み方としては筋が通るので、将来も漢字を有効にする力となるはずです。

 銀行、行列、行灯などはそれぞれ読みが定着しているので、いわゆる誤読というのはないでしょうが、読み方と意味とにつながりがないので、ひたすら暗記を要求されることになり脳の負担を重くしています。
 慣用読みで定着しそうなものは無理にいわゆる正式な読みに引き戻す必要はないでしょう。
 
 漢字の用法にはこのほかに、どっちつかずで不安定な段階のものがあります。
 「一生懸命」というのはもとは「一所懸命」だったのですが、現在の慣用では意味としては「一生懸命」です。
 むかしの侍が土地に命をかけたから「一所懸命」だったのですが、現在は土地支配に専念するのでなく、なにかに「一生」命をかけるというほうが分かりやすいのです。
 ところが会話では「いっしょけんめい」というので、意味と文字が離れて不安定になっています。
 「生魚」「活魚」などは音読みの場合は「せいぎょ」「かつぎょ」で紛れはないのですが、訓読みでは「いきうお」でも「いけうお」でも両方ともがどちらにも読めます。
 意味も「生きた魚」「生かしている魚」のどちらでも有効なので不安定です。
 訓読みというのは意訳なのでいくつかあることが許されるのですが、音読みのほうは慣用読みが優勢であるなら慣用読みに収斂するに任せるのがよいと思います。
 


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