漢字は表意文字あるいは表語文字といわれ、文字を見ると意味が分かるといわれると何となく納得しますが、本当にそうかと必ずしもそうとはいえません。
たとえば「洋」とか「海」という字を見ると、サンズイが水を表わすということを知っていれば、水に関係する意味を持った文字あるいは言葉だということがわかりますが、サンズイに羊でなぜ「うみ」の意味なのかは日本人には分りません。
この文字ができたときの中国人ならば「ヨウ」という音声言葉がいくつかあって、そのうち水に関係するものが「うみ」という意味だったので、「洋」という漢字が出来たのでしょう。
日本人は「ヨウ」という音声を聞いて「うみ」という単語の候補がただちに思い浮かべられるわけではありません。
サンズイに羊と書いて「ヨウ」という音読みの字が「うみ」という意味だということを習ったので「洋」が「うみ」を意味すると感じるようになったのです。
「鮪」や「鯛」という字を見ても魚ヘンが魚を意味するという知識があれば、魚の種類だと見当がついてもどの魚を意味するか分かりません。
「イ」とか「チョウ」という読みを聞いてもなんのことか日本人には分りませんが、中国人には意味が分かったのです。
中国人にとっては漢字は表音文字であると同時に、表意文字であったわけですが、日本人にとっては音読みは外国語で、表意性がなかったのです。
日本語では「まぐろ」や「たい」という和訳を訓読みとしてあててこれらの文字を取り入れたので、文字を見れば意味が分かるような気がするようになったのです。
日本人が漢字の意味が分かるというのは学習の結果なのです。
漢字の音読みでは同じで意味的にも近い文字も、和訳して訓読みするとそれぞれが違うために、全く違う文字だと意識される場合があります。
たとえば義捐と義援の「エン」という字は音は同じで、意味も共通部分を持っています。
「捐」は「棄捐」というときは「すてる」という意味ですが、「義捐」というときは「私財を出して人を助ける」という意味です。
「援」は「援助」のときも「たすける」という意味ですから、「すてる」という言葉とは違いますが、「義援」としても「たすける」という意味で「義捐」とおんなじような意味になります。
「反」は訓で「そる」、叛は「そむく」とすると意味が違うので、「叛乱」を「反乱」とするのは間違いだとされているようですが、音読みではいずれも「ハン」で
「反」にも「反対」のように「さからう」とか「むほんをおこす」という意味があるので、「反乱」でも「叛乱」でも同じ意味になります。
「仄」は「ほのか」「側」は「かたわら」と訓読されると、「仄聞」を「側聞」とするのは乱暴のようですが、「仄」は「脇から寄る」という意味で「側」と同じ意味なので「側聞」も「仄聞」も同じ意味です。
逆に訓読みが同じなら別の文字でも同じ言葉とみなすことができる場合があります。
「涜職」を「汚職」にしてしまうのは乱暴のようですが、「涜」も「汚」も訓読すれば「けがす」ですから共通の意味を持ちます。