60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

言葉の解釈の違い

2007-08-05 23:01:00 | 言葉と意味

 東京電機大学の小林春美教授の実験で、幼児に黄色い卵形のガラスを見せて、これは「ムタ」という名前だと教え、つぎにAとBのどちらが「ムタ」かを答えさせます。
 Aは色と材質は同じですが形は三角錐で違い、Bは色と形は同じですが材質は発泡スチロールで違います。
 この場合①「ムタ」を転がしながら質問した場合は、70%の幼児はBが「ムタ」だと答えたそうです。
 ところが②「ムタ」を透かして見ながら質問した場合は逆に70%の幼児がAのほうだと答えたのだそうです。
 質問者が転がしたり、透かして見たりといったアクションを起こさないで質問した場合は半々の割合だったそうですから、具体低的なアクションによってもののとらえ方が異なるということがわかります。
 
 言葉を教えられたとおりに受け取っているだけでは、似たようなものが出てきたときに同じ種類のものかどうか判断しにくい場合があります。
 この例で言えばAとBはどちらが「ムタ」と同類なのかは見ただけの場合は判断が分かれています。
 転がしてみるとか、透かして見るとかいったアクションと関連付けられと判断が変わってくるのですから、そのもの自体の性質だけで判断されるわけではないのです。
 つまり、もののとらえ方は当たり前のことですが、経験によって左右されるのです。

 この実験で転がしてみた場合はBが「ムタ」だと答える率は70%ですが、100%ではありません。
 つまりすべての人が同じ判断をするというわけではないのです。
 経験は人によって違うのですから、すべての人が同じ判断をするということはないということです。
 「りんご」という言葉を聞けば誰もが同じイメージを持つわけではなく、青くて酸味のある果物をイメージするひともいれば、赤くて甘い果物をイメージする人もいます。

 この場合、転がしたのを見てBが「ムタ」だと思って記憶して育つ人がいると同時に、透かして見ることでAが「ムタ」だと記憶して育つ人もいる可能性があります。
 Aが「ムタ」だと思っている人と、Bが「ムタ」だと思っている人は話しが合いません。
 たとえば文部省が「Bがムタだ」と決めたとしても、Aが「ムタ」だと思い込んでいる人はいるわけです。
 学者でもない限り普通の人は、言葉の意味をすべて辞書に当たっているわけではなく、知らない言葉を聞いてもぼんやり類推する程度で聞き過ごしています。
 類似のものを同じ名前で呼ぶというやり方は便利ではありますが、人の経験に左右される以上意味のとり方の違いが発生することは避けられません。
 いわゆる言葉の間違いというものはなくなるものではないのです。


漢字の意味の無視

2007-08-04 22:03:22 | 言葉と意味

 「農相を含め人心を一新してまいります」「人心一新のため内閣改造に早く着手し」などといった表現が最近頻繁にニュースに現れました。
 「人心一新」とは古めかしい表現で、現代社会には馴染まないので「おや?」と引っかかる感じがします。
 「人心」という熟語の意味は普通は「人間の心」「世間の人々の考え、気持ち」といった意味で、「人心一新」という場合の「人心」は「民衆の心、人民の心」です。
 「人心を一新する」といえば。「国民の気持ちをまったく新たにする」という意味ですから、穏やかではありません。
 国民を見下すような感じですから、王様ではなく、現代の政治家が文字通りの意味でこのような表現を使っているとは考えられません。
 おそらく熟語の意味についての誤解があるものと思われます。
 
 前後の関係からすると、内閣改造のことを指しているようですから、具体的には「閣僚の顔ぶれを一新する」というような意味なのでしょう。
 それなら「面目を一新する」とでも言えばよかったのでしょうが、「反省して心を入れ替える」というような意味を込め「人心を一新する」といってしまったのかもしれません。
 「人心」という言葉を使うとき「人」が何を意味するかということに無頓着で、「人間」か「世間の人々」かなどと意識することなく、漠然と「自分たちの心」ぐらいのつもりで言ったのかもしれません。

 「人心」の意味を分析すると「人間の心性あるいは心裡」とか「人民の心情あるいは心得」のどちらかといった感じになります。
 「人心を一新する」といえば後者のほうですから、意味を考えずに「感字熟語」として使ったのでしょう。

 「感字熟語」解釈といえば「料理」は「材料を調理する」から「料理」というのだという説明があります。
 「料理」の本来の意味は「はかりおさめる」で「物事を処理する」という意味です。
 cookingという意味ではなかったのですが、いつごろからかcookingの意味に使われるようになっています。
 「料」は「はかる」という意味で、「材料」ではないので、「材料を調理する」という解釈はこじつけです。
 「料理」という言葉が全体としてcookingという意味だと知っていて、後からそれらしい理由付けをしているのです。
 もし□料□理という熟語の□の部分を埋めろというなら、材料調理だけが連想できるのではなく、材料管理とか原料処理、資料整理とかいろいろ考えられます。
 「材料調理」→「料理」という必然性などはないのです。

 漢字は表意文字で、熟語は構成する漢字が意味を明示していると普通は考えられていますが、案外そんなことはなく、漢字の意味が無視されて意味が覚えられている例というのが結構あるのです。
 


言葉の要素と表意文字

2007-07-31 22:51:33 | 言葉と意味

 子供は10+1=の答えを書かせると11としないで、101と答える場合があるそうです。
 大人からすればドウシテこんな間違いをするのか不思議かもしれません。
 10+1=101としてしまうのは、10と1を文字として加えているからなのですが、101は「ひゃくいち」でなく「じゅういち」だと思っているのかもしれません。
 漢数字で10+1を書くと十+一=となり、答えは十一で先の答えの出し方はまんざら不合理とは言い切れないでしょう。
 ローマ数字で書いても10+1=はⅩ+Ⅰ=となり、答えはⅩⅠで漢数字と同じやり方となります(ただし十一+一は十一一でなく十二で、ⅩⅠ+ⅠはⅩⅠⅠです)。

 10+1=101とした子供は数字を表意文字と考えていて、10は「じゅう」つまり「十」と同じと考えています。
 1と0という記号を組み合わせて10で十を表わし、1と0と0を組み合わせれば「百」を表わすというふうに、記号を組み立てて意味を表わすというところまで理解ができていないのです。
 漢数字やローマ数字は表意文字となっているので、100+1は「百一」、「CⅠ」となり、アラビア数字では1001とならず101です。
 一やⅠはあくまでも「いち」の意味でしかありませんが、1は「じゅう」をあらわす要素となったり「百」をあらわす要素となったりしますからより抽象的です。

 右の図は京大の霊長類研究所で使用したチンパンジー用の図形言語ですが、チンパンジー用の図形言語というのはみな表意文字です。
 一つの図形が一つの意味を表わしていて、チンパンジーは図形と言葉の意味を関連付けて覚えますが、図形の要素を組み立てて意味を理解するというようなことはありません。
 たとえばaは「手袋」を意味することになっていますが、なぜこれが手袋なのかとか言う理由を考えるということはなく、ともかくこれは「手袋」を現しているとして覚えるのです。
 図形の要素とその組み立て方の規則によって意味を理解するということはないのです。
 
 表音文字というのは「かな」でもアルファベットでも音声言葉を要素に分解して、要素の組み立てでいろんな言葉を表現しています。
 「いぬ」は文字では「い」+「ぬ」ですが、意味は「い」+「ぬ」でなく「いぬ」です。
 ⅩⅠ+Ⅰは「ⅩⅡ」ですが「じゅういち」+「いち」は「じゅういちいち」ではなく「じゅうに」なのです。
 表音文字は記号を音声と結び付けていますが、文字を基本的な要素の組み合わせで表現するには必ず音声と結び付けなければならないというわけではありません。
 
 コンピータの機械語というのは0と1だけの組み合わせでできていますが、この組み合わせでできた言葉は音声と結びつけられてはいませんが、特定の意味を持っています。
 記号の組み合わせが特定の意味に対応させられているという点では、カナやアルファベットと同じですが、要素数が少ないからといってもチンパンジーに理解させることはできないのです。
 


漢字の透明性

2007-06-05 22:28:45 | 言葉と意味

 漢字の単語はその言葉を知らなくても文字から意味が大体分かるといわれることがあります。
 たとえば英語でantholopologyという単語の場合、anthlopoはギリシャ語で人類、logyは学問ということですが、普通のアメリカ人はanthlopoの意味を知らないので、antholopologyという単語を見ても意味がわからないといいます。
 ところが日本人が人類学という単語を見れば、人類学を知らなくても人類についての学問だろうという見当はつきます。
 つまり、漢語のほうが英語の単語より見て意味が分かるので、透明性があるという風に主張されるのです。
 
 これは普通のアメリカ人はギリシャ語は不案内なので、ギリシャ語を借りた単語は意味が分からないということで、もし普通に知られているものならすぐに分かります。
 たとえばthermometerはthermoが熱の意味なので温度計というのは普通のアメリカ人でも分かります。
 sociologyが社会学という意味なのはsocio+logyですから社会についての学問だということはもちろん分かります。
 ところが漢語の社会学が社会についての学問だと理解されると、日本人は考えるかもしれませんが、社会という単語は普通の日本人には社会の「社」とはどんな意味なのか分かりませんから、社会とは文字としてどういう意味か分かりません。
 「社会」は明治時代にsocietyの翻訳語として作られたもので、普通の日本人にはすんなり分かるものではありません。
 「社会」の意味を知っているから「社会学」が社会についての学問だということが分かるので、漢字の意味からすぐにわかるということではありません。

 geologyのgeoは土地という意味なので、geologyは地質学ということで、この場合は英語も漢語も文字から意味の見当がつくのでおあいこです。
 しかしgeometryは土地を測量する意味で幾何学のことですが、英語は文字を見て意味が分かっても、漢語の幾何学はいくら文字を見ても意味は分かりません。
 それもそのはずで、幾何はgeoの音訳だからで、この場合は意味の透明性はありません。

 importとかexportという単語はportが「運ぶ」という意味なので、輸出とか輸入という意味の見当がつきます。
 漢字の「輸」が「運ぶ」という意味なのでこの場合は英語も漢語も同じように意味が文字面から分かります。
 transportが輸送というのも同じ関係ですが、porterとなれば漢語は輸人とするわけにいかず、運び人とでもするしかありませんから、漢語のほうが一貫性に欠けます。

 したの二字熟語で、忖、度、課、商、議、料、評、計、略、権、謀、秤はいずれも「はかる」と言う意味なのですが、よほど漢字に詳しい人でないと、文字から意味を理解できないでしょう。
 単語自体は普通に使われているので意味が分かるのでしょうが、使われている文字の意味は良く分からないのではないでしょうか。
 漢字熟語では単語の意味を知っているのに、使われている漢字の意味は分からないという例が結構あるのです。
 単語を知らなくても漢字から意味が分かるとは必ずしもいえないのです。
 


漢字と日本語の距離

2007-06-04 23:25:24 | 言葉と意味

 「日本語は同音異義語が多いので漢字で書き分ける必要がある」という説にはなんとなく賛成してしまいがちです。
 たとえば「はかる」という言葉は、長さを測る、重さを量る、タイミングを計る、合理化を図る、だまそうと謀る、専門家に謀るなどと書き分けます。
 このように書き分けるのだと教えられれば、そういうものかと思って覚えるのですが、誰でもが完全に覚えられるとは限りません。
 つい間違って書いたり、あるいは思い出せなかったりするということはよくあるのですが、それでも言葉を聞いて意味が分からないということはありません。
 
 ということは、漢字に書かなくてもカナで書いても意味が分かるということになります。
 「とめる」という言葉にしても、「車をとめる」というとき、どの漢字を使うかとあらためて聞かれると、迷ってしまうのではないでしょうか。
 会話の中でいちいちどの漢字を使うというようなことを考えることはないでしょう。
 
 学者のように漢字の意味を良く知っている人であれば、漢字で書き分ければより意味がはっきりするということはあるかもしれません。
 会話をするとき、漢字を思い浮かべると学者が言うのは、学者の中にはそうした人がいるということで、一般の日本人に当てはまるわけではありません。

 たとえば「きさま」という言葉は相手を見下していう言葉になっていますが、漢字で書けば「貴様」は相手を上に見ています。
 言葉のもともとの意味は漢字で書いたとおりの意味だったのですが、現在では意味が逆転しています。
 意味が逆転しているのに漢字はそのままなので、言葉の意味と漢字の意味とは無関係になっています。
 漢字は意味を表すといっても、言葉の意味が変わったとき漢字は同時に変身できないのでこまってしまうのです。
 「きさま」という言葉を聞いたとき、漢字をわざわざ思い浮かべる人は少ないと思いますが、「貴様」という文字を見て文字通りの意味には受け取らないでしょう。
 
 つまり案外普通の人は漢字を見ても、漢字の意味にとらわれていない場合もあるのです。
 「全然」という言葉を「全然同感だ」という風な使い方をすれば、それはまちがいで「全然分からない」というように否定的に使うべきだといわれます。
 ところが「全然」という漢字の意味は「まったくそのとおり」という意味なので「全然分からない」という言い方のほうがヘンなのです。
 「姑息」という言葉の意味は、「しゅうとめのいき」ではなく「そのままの状態にとどまる」という意味ですが、なにか「こそこそした」というような意味にとっている人が多いようです。
 漢字の意味よりは擬態語のように音感でとらえているようです。
 「憮然」という言葉もよく意味が違って使われますが、漢字の意味は「がっかり失望している」ということなのですが、「ブゼン」という言葉の音感で擬態語的に「不満の様子」と思っているようです。


音の意味とイメージ

2007-06-03 23:09:27 | 言葉と意味

 文字の起源はものの形をかたどった象形文字ですが、そこからの連想で音声言語はものの音をなぞったものだとする考え方があります。
 漢字の犬がケンと読むのは泣き声が「ケン」と聞こえたのであろうし、猫は「ミョウ」と聞こえたので「ミョウ」と読むといわれればナルホドと感じます。
 そういっても、魚のように鳴かないものはどのように名づけたのかとすぐに疑問が出てきます。
 魚は元は「パシャン」とかなんとか言ったはずだ、などと強弁する人もいますが、いくつかの当てはまる例だけですべてを説明しようとするのは無理なのです。
 
 しかし、ものの名前と音にはなんらかの関係があるはずだという感覚は多くの人に共通なもので、自然なもので一概に非科学的とすべきではありません。
 心理学の実験で曲線図形と鋭角の直線図形に対してどちらが「マルマ」と「ギギ」かという問いに9割以上が曲線図形を「マルマ」としたといいます。
 人は言葉の音に何らかの共通イメージをもつということが分かるのですが、だからといって共通の意味を感じるといえば、それは勘違いです。

 日本には音義説というのがあって、例えば「は」の音には物を切り分け離す意味があって、「刃、歯、葉、羽、端」などにそのような意味が内蔵されているといいます。
 「離す、放つ、払う、掃く、披く、撥ねる」といった言葉も「は」という音を共有することで共通の意味部分を持つといいます。
 「はまる」とか「はさむ」とかいう例を思いつけば、この説明がすべてに当てはまらないことに気づきますが、かといってこうした説明を全面的に否定する必要はないと思います。

 「は」が物を切り分け離すという意味を持つと感じて、放つとか払うとかいった言葉を見直すと、これまでとちがって意味がより鮮明なイメージを持つように感じるのではないでしょうか。
 音義説そのものは大体において科学的でないとされるのですが、語感に関する意見としてみれば、ナルホドと共感する部分はあるのです。

 漢字にも音義説に類した説で漢字家族というのがあります。
 漢字の多くはいわゆる形成文字で、偏が意味を表し、旁は音をあらわしているというのですが、漢字音義説では音が同じなら意味も共通の意味があるといいます。
 「青」は「すみきったエキス」という意味を持っているので「清」は「すみきった水」、「精」は「すみきった米」、「晴」は「すみきった空」、「情」は「まことの心」「すみきった心」といった具合で共通の意味を持っているといいます。
 「同」も「筒状になって切り口が同じ」意味で、「筒、洞、胴、桐」は同じ形状のイメージだとしています。
 漢字家族というのもすべての漢字について同じ説明ができるわけではないのですが、このような見方をすると漢字の意味がより鮮明なイメージを持つ場合があるのは確かです。


語源の説得力

2007-06-02 23:34:03 | 言葉と意味

 A:「あつい、あつい!」B:「夏は暑いもんだ!」
 A:「そうか! あついからなつなのか! あつ、あつ、なつ、なつ」

 貝原益軒は「夏」の語源を「暑い(暑し)」だとしましたが、まじめな学者がそんなことを言ったのかとあきれる人もいますが、ナルホドと感心する人もいます。
 単に「夏」の語源は「暑」だと聞いても「ソウカナ?」と反応するぐらいですが、夏の暑いときに「なつはあつい」と聞けば、夏の語源は「暑い」だということが実感としてアピールしてきます。
 本当に「夏」の語源が「暑い」なのかという、学問的あるいは歴史的裏付けよりも、ナルホドという心理的な満足が得られれば納得してしまいがちです。

 いわゆる民間語源のほうが優勢なのは、その説明でコトバの意味がはっきり分かったように思えたり、あるいは新しい意味が示されてそれに共感したりするからです。
 「はたらく」というのは「傍を楽にする」という意味だ、という説は自分のはたらきが評価されたときなら「ほんとにそうだ」と納得するかもしれません。
 ところが説教調で言われたりすれば「フン、つまらんコジツケをするもんだ」と問題にしないかもしれません。

 百姓が分割相続をすれば経営単位が小さくなってしまうので、「田を分ける」ことはおろかな行為だとする見方があります。
 「田分け」すなわち「たわけ」が愚か者の意味だというのですが、見方によってはナルホドと感じるのでしょうが、別の見方では逆になります。
 親から受け継いだ田を才覚や努力によって大幅に増やせば、自分の子供たちには分割相続させることが可能になります。
 この場合は「田分け」つまり分家ができるのは愚か者どころか、特別有能な証明となります。
 もちろん「たわけ」の語源は「田分け」ではなくコジツケなのですが、こじつけ方にはその人の感覚が反映されているのです。

 12月を「しはす」というのは「師走」つまり、師が走るほど忙しいからだという説も、12月が忙しい月だという感覚に訴えるから説得力を持ち、まだ説明として生きています。
 これなどは最初から「師走」という漢字語があったわけではないので、「しはす」というコトバに当て字をしたのは明らかです。
 一度当て字をしてしまえば、その文字から意味が伝わってくるので、文字が説得力を持ち説明がもっともらしく思えます。
 ところが6月の「水無月」のように「みなづき」に音にしたがって当て字をしてしまうと、「水のない月」という解釈をして苦しむことになります。
 もとは「みのつき」つまり「水の月」だったのが「みなづき」と発音が変化したため、後から当て字をするとき「水無月」となり、逆の意味となってしまったのです(「神無月」も同じで本来は「神の月」)。
 なまじ、漢字を当てるために意味が分からなくなって苦しむということもあるのです。