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人間は分けるのが好きで、言葉によってものを分類して名前をつけると言います。
そこで、自然は連続で分かれているわけではないのに、言葉で名前をつけらると分かれているように見えてしまうということもできます。
たとえば「首と肩はつながっていてどこからが首で、どこからが肩だか分らないのに、言葉では首とか肩とか分けてしまっている」というような言い方があります。
つまり言葉は境目のないものでも切り分けてしまうというのです。
しかしものを分けるというのは、言葉だけの性質ではありません。
たとえばカエルはミミズや昆虫を食べますが、図のように視野の中に獲物が入ると顔をそちらに向け、両目で獲物を見つめ、舌を出して獲物を捕らえ呑み込んだあと口の周りを手でぬぐいます。
言葉がなくても、獲物であるか獲物でないかを分けて、獲物であれば捕食するのです。
自然の中にはカエルにとって獲物であるかどうかわからないものもあります。
だからといって、目に入ったものが本当に獲物なのかどうか思い悩んでいては生きていけないので、適当に判断して捕食しているはずです。
どんな動物でも好きとか嫌いとか、食べられるとか食べられないとか、敵かどうかといったことは言葉を持たなくても見分ける機能は持っていますから、分類能力を持っているわけです。
分類するというのは言葉がなければできないということではないのです。
人間はほかの動物と同じようにものを分類するのですが、言葉を持った結果分類して名前をつけるということをします。
言葉によってつけられた名前は、多くの人間によって共有されるものなので、個人個人の経験や行動とは切り離されたものになります。
人間は経験と切り離された言葉を使えるようになったおかげで、複雑なことを考えることができるようになったのですが、反面分らないのに分ったような気がするという問題もあります。
子供は「あれなーに」と聞いて「あれは××というものだよ」と名前を教えられればそれで納得してしまいがちです。
「どんなものか」ということの説明がなくても、名前を教えられるとそれで分ったような気がしてしまうのです。
学校でも言葉だけを教えることができるため、分けのわからないまま言葉を覚えていて、それで分ったような気ですごしてきてしまったりします。
こういう癖は大人になっても続いていて、新しいカタカナ語など最初はわけが分らなくても慣れてくると、いつの間にか分らないまま、それと気づかず自分でも使ったりするようになったりします。
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