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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

利き目はない

2006-01-21 21:38:48 | 眼と脳の働き
 「利き目」というものががあるというふうに思ってしまうのはなぜでしょうか。
 a図のように目標に向かって両手で指の輪をつくって、そこから目標を見ると、目標は二つに見えます。
 焦点距離を指に合わせてみると、遠くにある目標物は二重に見える、つまり目標物は二つに見えてしまいます。
 このとき左の目を閉じれば右側の輪の中にだけ目標物が見え、左側の輪の中には見えません。
 そうすると右の眼が「利き目」のように感じられますが、今度は右目を閉じて左の目で見れば目標物は左側の輪の中に見え、右の輪の中には見えなくなります。
 要するにどちらも同じように見えるということで、とくに「利き目」というものはないということが分かります。

 ここで片方の指の輪を残し、もう片方の手を下ろすとどうなるでしょうか。
 b図の例では左側の指を残していますが、この状態で両目で見ると、指の輪の中に目標物が見えます。
 ここで左目を閉じれば目標物は見えなくなり、右目を閉じて左眼で見れば見えます。
 やはり、左目が「利き目」かと思うでしょうが、もう一度両目で見てみます。
 目標物は左指の輪の中に見えるのですが、輪の外側にも見えることに気がつきます。
 要するに目標物は二つに見えるのですが、指の輪の中に注意を向けると、二重に見えているもう一つの像に気がつかないでいたのです。

 指の輪でなく目標物のほうを両眼で見ると、目標物はひとつに見えます。
 このとき、指の輪は左によっていて、親指と人差し指が合わさっているところが顔の正面にあることに気がつきます。
 つまり、指の輪の中から見ようとするときは無意識のうちに見ようとする眼の側に輪を寄せていたということになります。
 たまたま右の指で輪を作り、目標物が右目で見えたから「利き目」が右目であると思い込んで、左目ばかりを強化するなどということをすればかえっておかしくなります。
 もし目標物が左目を閉じたときに見え、替わりに右目を閉じたときも見えるならそれは指を気がつかないうちに動かしてしまっているのです。
 「利き目」ということを信じ込んでむやみに片側を強化するというようなことは考え物です。
 もし左右の眼がアンバランスであるということであるならば、医師の診断を受けるのが安全だということになります。

「両目利き」が普通

2006-01-20 21:51:26 | 眼と脳の働き
 「利き目」をチェックする方法ではこんな方法も紹介されています(a図)。
 顔の前に指でOKリングの形を作って遠方にあるものを指の間から両眼で見ます。
 つぎに片目を閉じて見た場合、目標が見えるほうと、見えないほうとがあります。
 目標が見えるほうが利き目だとされています。
 やってみれば確かに片方が見え、片方が見えないという現象がおきるので、やはり「利き目」というものはあるのかと思うでしょう。
 
 ここで、右手でリングを作った人は、右側の眼で見た場合に目標が見える場合が多いようです。
 ところが左手でリングを作ってみると今度は左目で見た場合に目標が見えるのではないでしょうか。
 そうすると「利き目」は右目でもあり、左目でもあるということになってしまいます。
 利き目というのはないか、あるいはこの方法に欠陥があるのかどちらかでしょう。

 ここでb図のように両手でリングを作り、そのなかから見ます。
 そうすると目標は両方のリングの中に見えます。
 片方だけから見えれば見えるほうが「利き目」だということになるのですが、両方見えるのであれば「利き目」はなく、「両目利き」だということになるのでしょうか。
 このようにした場合、普通の人「両目利き」ということになりますから、ほとんどの人に「利き目」というのはないということになります。
 
 右手でリングを作って見て右目が「利き目」であると思った人は、右利きだから右目が「利き目」になっていると思う場合が多いでしょうが、視力検査などをすると右のほうが視力が弱かったりして「ハテナ」と戸惑うでしょう。
 スポーツなどをしていて何とか「片目利き」を直そうとか、「左目利き」にしたいなどと思う人もいるようですが、この方法ではチェックできないので、眼科に調べてもらうほうがよいでしょう。

利き目は錯覚か

2006-01-19 23:07:57 | 眼と脳の働き
 「利き目」といえば、国語辞書では「効果の意味」としかのっていません。
 「利き手」とか「利き腕」といった語法で「利き目」というのは、正規の日本語にはないようです。
 しかし、眼の話題としては「利き目」といえば、「利き手」のようなニュアンスで使われています。
 それでは、「よく使われるほうの眼」あるいは「使いやすいほうの眼」というような意味での「利き目」というのは錯覚なのでしょうか。

 自分の「利き目」がどちらかを知る方法というのはいくつかありますが、これはそのひとつ。
 遠くにあるもの、たとえば木を両目で見て指をさします(右手でも左手でも)。
 左の目を閉じて見ると、指先は木より右によって見えます。
 右の目を閉じてみれば、指先はきより左によって見えます。
 このとき指先が木から離れて見えないほうが利き目だといわれます。
 利き目でないほうの眼で見たほうが指先が木から大きく離れて見えるといわれれば、「なるほど能力がないほうの眼が誤差が大きいのだな」という風に納得してしまいます。
 両方同じように見えないのだから、左右の眼に差があるに違いないと思うのです。

 ところで指をさしたとき、どこに焦点を当てて見たでしょうか。
 もし指先に焦点を当ててみたならば、遠くにある木は上の図の真ん中のように、ダブって見えたはずです。
 逆に木のほうに焦点を当ててみた場合は、右側の図のように指先がダブって見えたはずです。
 したがって、木のほうを指さしたつもりでも本当はどこを指しているのかはっきり分からずに木より右か左を指していたのかもしれません。
 とはいうものの、無意識のうちに外れたほうを指差すということがあるのでしょうか。

 人によってはまっすぐ前を見ているつもりでも顔が少し右側を向いていたり、あるいは左側を向いていたりという癖があります。
 あるいは片手で指さすとき身体をひねってしまうということもあります。
 こうした場合は眼は左右に差がなくても指差しが正確でないため、片目を閉じてみたとき見え方に大きな差が出るという結果になります。

 まっすぐに前を見ているかどうかは、眼だけではなかなかわかりません。
 人間の目はカメラと違って、顔や身体を少し横に向けたからといって見え方を変えずにすむからです。
 顔が目標に対して正面を向いているかどうかは吹き矢を吹くようなイメージで見ると分かります。
 眼は二つですが口は一つで真ん中にあるので、口で狙いをつけたときは左右に関しては狙いが正確です。
 木と指先を同時に見るのでなく、木が正面に来るように顔を向け、顔を動かさず指先が顔の正面に来るように動かせば指先は木を指すようになります。
 そうして片目を閉じて見ると、左で見ても右で見ても木と指先のずれは同じ程度に見えるはずです。
 

マジカルアイ

2006-01-18 22:28:54 | 眼と脳の働き
 マジカルアイというのは、いわゆる立体視のことです。
 立体視の方法には交差法と平行法というのがありますが、交差法は右目と左目の視線を交差させ、平行法は視線を平行にすればよいと説明されています。
 人によってはこの説明ではうまく立体視することができないので、なにか視覚能力が劣っていると思いかねません。

 交差法というのは上の図で、左側の図を右目で、右側の図を左目で見ればよいという風に説明されたりしますが、そうするとうまくいかない人がいます。
 この場合、図と眼の間に人差し指を立て、両目で指先を見る左右の図の間に両方の図が融合した図形が浮き上がって見えます。
 指先は図よりも眼に近いので、指先を見るということは焦点距離を短くして図を見るということになります。
 従って普通に見た場合と比べると小さく見えます。

 平行法の場合は左の目で左側の図を見て、右眼で右の図を見るのですが、眼の力を抜けばよいのですが、図に焦点を合わせてしまうとうまくいきません。
 意識が勝つと、図を注視するためそこに焦点距離が固定されてしまうためです。
 この場合、壁でも天井でも離れたところを見てそのまま焦点距離を変えずに図形のほうを見れば、中央に融合図形が見えます。
 真ん中の円が交差法のときとは逆に大きく見えます。
 焦点距離が図形までの距離より遠くにあるため、普通に見たときより大きく遠ざかって見えるのです。

 どちらにしても焦点距離を変えるということで、手前に見えたり、遠ざかって見えたりするということで、正常な見え方です。
 ただ左右の視力が大きく違っていたりすると左右の図がうまく融合できず二重に見えたリします。
 左右の視力が異なっていなくても、なれないと戸惑いによって、二重に見えたりしますが、この場合は少し慣れればきれいに重なって見えるようになります。

残像は視神経のマヒ

2006-01-17 23:00:43 | 眼と脳の働き
 左側の二つの円を5秒程度見つめた後、右の白い空白部分に眼をやると、薄く青い残像が映ります。
 残像は、円のオレンジ色の補色である青い色になります(陰性残像)。
 つぎに右の二つの円を同じように5秒ほど見つめると、周りに青い円が見え、左側の白い空白部分に目を移すと、先ほどよりはっきりした残像が見えます。
 眼を動かせばそれにつれて残像が動くだけでなく、意識して視線を固定しなければ残像が浮動するのが分かります。

 残像が動くように見えるのは、眼が動くことで視野が変化するためです。
 残像のほうが動かず、視野の変化につれて相対的な位置が変わるので、残像が動くように見えるのです。
 残像が動く様子を見れば、眼を動かさないでいるというのは努力がいることが分かります。

 右側の円を見たほうが残像がはっきり見え、長く続くのはバックが白いので、刺激が強く眼の神経が早く麻痺し、柔軟性を失うためです。
 じっと長く見つめたほうが残像がはっきり見え、また長続きがするので、集中すれば残像がよりはっきりと体験できるとも感じられます。
 しかし実際は、固視をつづければ眼が疲れ、視神経が麻痺して回復が遅れるので、残像もはっきり見え、また長続きするのです。

 オレンジの円を見た後、目を閉じたとき青でなくオレンジの円がまぶたに浮かぶことがありますが、こちらは残像ではなくイメージ記憶です。
 イメージ記憶のほうは網膜に残っているのでなく、脳の記憶なので眼球の動きにつれて動くというようなことはありません。
 残像は意識でコントロールできないので、何か超意識的な能力をもたらすような意見がありますが根拠はないようです。
 固視によって生ずるので、目が疲れてしまい、高齢者にはあまり勧められるものではありません。
 

残像は高齢者のほうが

2006-01-16 22:31:00 | 眼と脳の働き
 残像は視覚が正常な人でも誰でも経験する現象ですが、年をとってからのほうが経験しやすいようです。
 寝起きで少しぼんやりしているときコントラストの強いものを見たり、真夏の日差しの中で自分の影を見たりしたときなどに視線を動かすと、はっきり残像が見えます。
目が疲れて柔軟性を失ったときとか、目が覚めたばかりとか、強い光の刺激を受けたときなど、視覚をコントロールする力がなくなったときに残像は見えやすく、視覚イメージのように自分の意志で見たり、拡大縮小したりはできません。
あるものを見てから視線を転じると、転じた先が遠くであれば大きな残像、近くであれば小さな残像となります。 
視覚イメージと違って目玉を動かすとそれにつれて動いてしまうので、残像はより低次元の網膜の近くで起きる現象です。
焦点距離を遠くにすれば網膜に張り付いている残像は大きく見え、近くにすれば小さく見えるからです。
そのため、網膜レベルでの興奮過程を反映しているものとされています。

左側の図では白い円を見ていると周りが黒くなり、円がより白く見えますが、白い円の残像が黒いためです。
眼が少し動くと黒い円が浮遊しているように残像によって見えます。
 右側の図では白い背景に黒い円で明暗のコントラストが激しいので、残像がはっきり見え、また黒い円を見続けると周りが光って見えるます。
 残像はなにか不思議な印象を与えるので、右脳とか特別な能力と結びついていると考える人もいますが、残像が見えることに積極的な意味はありません。
周りが光って見えたからといって不思議なことはないのです。
 
 よく集中力のトレーニングとかで黒い丸をジッとみつめさせ、まわりが白く光って見えるようになるとかいいます。
 集中しなくても残像は生じるのですが同じ丸から眼を離さなければ残像も離れず、周りが光って見えるのです。
その意味では集中力の訓練になるかもしれませんが神秘的な要素はありません。
 右脳と関係付けたりするのも疑問です。
 若い人で残像が見えにくいとあせる人もいるようですが、見えにくいのはむしろ健康な証拠です。
 残像の見え方は光が強いところとか、眼が疲れているときとかのほうが見えやすく、必ずしも集中力があるときに見えるというものではありません。
同じところを集中してジッとみつめて眼が疲れたときに見えやすく、また長続きします。
眼筋や視神経が柔軟さを失って固まってしまったときの現象なので、高齢者などのほうが見やすいのです。

脳による解釈

2006-01-15 23:45:25 | 眼と脳の働き
 図は心理学で対比効果による錯視といわれているものです。
 円aはbの外側の円と同じで、またcの内側の円と同じなのですが、cが一番大きく、bが一番小さく見えます。
 bは内側に小さな円があるために、同化して小さく見え、cの場合は外側に大きな円があるために同化して大きく見えるという説明がなされているようです。
 説明のしかたは何か一貫していないように感じられます。
 同心円が描かれた場合、内側の円が大きく見えるということなのか、あるいは内側の円は大きく見え、外側の円は小さく見えるということなのかはっきりしません。
 
 片目を閉じて、aという文字を見て、同時にbという文字を見ると円aとbの外側の円は同じ大きさに見えるようになります。aとbの外側が同じ平面なので焦点距離を固定して見れば二つの円は同じ大きさに見えます。
 次にcの内側の円と円aとを同時に見るとaとcは同じ大きさに見えるようになります。
 この場合もaとcの内側の円を同時に見ることで、焦点距離を同じにすることができて同じ大きさに見えるのです。

 グレゴリーという心理学者は、錯視は二次元的な図形を三次元的に解釈しようとするために生ずるものだとしました。
 錯視が脳の解釈だとするのですが、実際は眼が動いていて、焦点距離が変化しているのですから実際に大きく見えたり小さく見えたりしているのです。
 眼の使い方で見え方が変わるので、錯視とされているものの、実際そのように見えているのです。
 脳が勝手なイメージをこしらえて、見えたと錯覚するのではなく、脳の解釈によって眼の使い方が変わるということでしょうか。

二次元的に見る

2006-01-14 22:41:10 | 眼と脳の働き
 片目で見ても遠近感はあります。
 片目で見るときでも、遠いところを見るときと、近くを見るときとでは、自動的に焦点距離を変えて見ているので遠近感はあります。
 ところが片目で同じ距離のものを二箇所同時に注視すると遠近感がなくなり、視界が平面的になります。
 たとえば、左の図のように顔の近くに指を立て、片目で両方の指を同時に見ます。(片方の指を見ながらもう片方の指を見る)
 そうすると前方に見えるものは指の間に挟まれているように近寄って見え、遠近感が失われて見えます。
 
 二点を同時に見ると眼の焦点距離が固定されるため、見えるものが同じ距離にあるように見えます。
 普通に見ているときは眼が動いていて、見るものに合わせて自動的に焦点距離を変えているのに気がつかないだけです。
 老眼になれば眼の調節範囲が狭くなるので、ある程度近くのものはぼやけてしまいます。
 それでも、まったく焦点距離が固定されるわけではありません。
 もし固定されてしまえば見るものの距離がちょっと変わるごとにメガネを変えなければならないので大変不便になります。
 焦点距離の調節機能が壊れたカメラで物を写そうとするようなもので距離によって眼を近づけたり遠ざけたりするか、眼の焦点距離のところに物を持ってこなければならなくなります。

 焦点距離を動かさないで見ると平面的に見えるのですが、写真は平面に写されているのに立体感があるように感じられます。
 これは陰影などから奥行きを脳が感じて自動的に焦点を変えているためです。
 焦点を動かさないようにして見ると、立体的に見えた写真も平面的に見えます。
 心理学に出てくる錯視図の多くは奥行き感に原因がある場合は焦点を変えて見ているのに気がつかないだけで、実際は錯視ではないことが分かります。

右脳で見ているか

2006-01-14 00:14:52 | 眼と脳の働き
 絵を描くということは、三次元のものを紙という二次元の平面に写すことなので難しいものです。
 見たとおりの遠近感を表現するために画家たちがいろんな工夫をしてきています。
 原理的には透明なガラスに格子状の線を引いておき、ガラス越しにものを見て、輪郭線と格子状の線との交点をつないで輪郭線を描くものです。
 「右の脳で描け」という本では、頭の中に格子状の線の入ったガラス板をイメージし、その中央の点に片目で焦点を合わせ、イメージ上のガラス板越しに見える像を紙に描き写すという方法を提案しています。
 片目を閉じ,片目で中央の点を見ながらものの輪郭と格子状の線との交わり方を紙に写してゆくのです。
 
 上の図で二つの正方形は同じ大きさですが、右側の正方形は立体感があり、右側のほうがおくにあるように見えて、狭まっているように見えます。
 左側の図は、格子状の線の入ったガラス越しに同じ正方形を見た様子で、片目を閉じ片目で中央の黒点を見ながら四辺を見ると左右の長さが同じの正方形に見えます。
 格子状の線はガラス板という平面状にあるので、ものの輪郭が格子状の線と重なって見えるところを写していけばよいということになります。
 このとき三次元のものは遠近感がなくなり平面的に見えますが、格子状の線を取り去り、両眼で見れば立体的に見えるようになります。

 三次元のものを見るということは、見る部分によって眼からの距離が違うので、気がつかないうちに焦点距離を変えながら目を動かしてものを見ています。
 ぼんやりものを見ているときは、眼が動かないで、焦点距離が変わらないので見えているものは遠近感が失われているのが分かります。
 平面画像は、眼からの距離がほぼ一定なので、焦点距離を固定した見方ができればよいということです。
 そうするとこれはかならずしも右脳で見るということに限ったことでないのではないかと思います。

 片目を閉じてみるのは右でも左でもよいのです。 
 どちらでも同じように見えますから、右の脳だけで見ているということはないでしょう。
 

右脳の絵と左脳の絵

2006-01-12 22:20:41 | 眼と脳の働き
 左は、M.コックス「子どもの絵と心の発達」に出てくる5歳の子どもの「アイロンがけ」という題の絵で、右は有名なレンブラントの「夜警」。
 子どもの絵はアイロン台が不釣合いに大きく、右側の両親が小さく見え、左側に描かれている本人はさらに小さく描かれています。
 子どもの絵は客観的な大きさの割合とか、角度などは反映されていないで、自分流のやり方でそれらしく思えるように描いています。
 対象をありのままに描くのではなく、自分のイメージにしたがって描いています。
 こうした絵を人によっては左脳で描いた絵だといいます、
 右の脳で見ればものの形がありのままに見えるという考え方からすれば、子どもの絵は主観的なイメージに従っているので左の脳で描いたということになるのでしょう。
 物を観察して描くというのでなく、ここのものに対するイメージを配置していく象徴絵画で、脳の左側で解釈したものだということになります。
 
 レンブラントの絵は、視覚の実態を表現しているとして紹介されることがある絵です。
 人間の網膜に映る像は、網膜の中心に色を感じる視細胞が集中しているため、周辺に行くにしたがってぼやけて見えるので、網膜に映る像を忠実に表現しているとされています。
 レンブラントの時代に視細胞の分布などが分かっていたわけではないので、画家は自分の視覚の性質を直感で知っていたということになります。
 普通の人は、このように真ん中がはっきり見え、周辺がぼやけて見えるという意識はありません。
 視線を固定すれば中心部分だけがはっきり見えるというのは客観的事実なのですが、そう見えないということは、ありのままに見るには訓練がいるということになります。
 もし、ありのままに見ることが右脳で見るということならば、右脳で見るときは中心がはっきりして、周辺がぼやけるという風に見えなければならないということになります。

 ところで、遠近法に従った絵とか、網膜に映った像の解像度に従った絵とかは、知識や訓練がなければ描けるものではなく、常識的に見れば左脳で描くことになると思われます。
 子どものほうが左脳で見て、訓練された大人が右脳で見るという考えは奇妙に感じられます。
 主観的であれば左脳が働いているという風に解釈することに無理があるのではないか、あるいは感性は右脳の働きであると決め付けるのが間違いなのか。
 それとも右脳とか左脳とかどちらか一方のみの働きとしたがることに問題があるのかもしれません。