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60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

構造化して見る場合

2006-04-02 21:16:36 | 眼と脳の働き

左の図を見ると円柱を並べたようにも見えますし、コインを重ねてならべたようにも見えます。
コインを重ねたような感じに見えると、奥行きが感じられるので、境目の縦線は斜めに見えます。
実際は垂直線なのに、斜めに見えるのは、奥行きを感じるため無意識のうちに視線を上下に動かし、焦点距離を変えて見ているためです。
ここで、図の中心に視線を向け、視線を固定したままジット見続けると、縦線はすべてすべて垂直に見えます。
そのかわり、前に感じられたような奥行き感はなくなります。
縦線が斜めに見えたのは、平面上の図形を奥行きのある図形と見なして、奥の部分と手前の部分を見るときとで、眼の焦点距離を変えたためだということが確認できます。

ここで眼を離して、図全体を見ると、濃淡によってぼんやりとした模様のあるのが分かります。
この模様は何かということに、注意を向け始めると視線の動きは、コインを重ねたと見たときのように上下が主体ではなくなります。
濃淡の変わり目のところを重点的に、全体に眼を向けるようになります。
そうすると、奥行き感は薄れて、縦の線は斜めには見えなくなっていきます。

右の図は左の図を白黒反転させたものですが、右の図より模様が分かりやすく見えます。
(じつは右の図が原画で、左の図が反転画です)
スダレ越しにひげを生やした男の顔が見えると感じると、上下での奥行き感はなくなるので、縦の線は垂直に見えます。
(もし顔だかなんだか分からない場合は、少し眼を離して、薄目で見ると形がハッキリ見えます。薄目のときは細かい違いが無視され、おおまかな濃淡の差が主として感じられるためです。)

右の図でも、コインを重ねた形とみなしていたときは奥行きを感じ、縦の線は斜めに見えたのですが、顔があると感じると縦の線は垂直に見えてきます。
それだけでなく、この図に顔を見てしまうと、今度はその見方が優先して、コインを重ねたという見方をするのが難しくなります。
人間の顔のほうが注意を引きやすく、関心をもたれるので、この見方のほうが優勢になってしまうのです。
こうなると、縦の線が斜めに見えるということが、ありえないような感じになってしまうのですから、ものの見方に構造化が大きな要素を占めていることが分かります。

右の図を見たあと、左の図に戻ってみると、顔の形は右の図ほどハッキリは見えませんが「笑った顔のようだな」という程度には見えるようになります。
顔の形が見えたと思ってみていると、こちらもやはり縦の線は垂直に見えます。
コインを重ねた形というふうに構造化するより、顔の形というふうに構造化するほうが優勢になっているのです。

 


構造として見る

2006-04-01 23:33:11 | 眼と脳の働き

左側の四つの長方形は曲がって見えます。
本当はまっすぐなのですが、木目のような線が遠近感を与えるので、縦の線が曲がって見えます。
遠近感を与えるものがあっても、同じ平面上にあるので焦点距離を変えなければ、線は曲がって見えません。
たとえば一番左の長方形を見るとき、まん中へんに視線を向け、視線を動かさずにじっと見ると、この長方形の縦の線はまっすぐに見えます。
そのまま視線を動かさずに見続けると、残りの三つの長方形が周辺視野で、縦の線がまっすぐに見えるようになります。
あるいは、四つの長方形をいっぺんに見て、視線を動かさなければやはり、縦の線はまっすぐに見えます。

視線を動かさないのは、眼が自動的に焦点距離を変えてしまうのを防ぐためですが、意識的に焦点距離を固定するのは、眼が疲れるものです。
それでは視線を動かしたら、どうしても縦の線は曲がって見えてしまうのかというと、必ずしもそうではありません。
要は、焦点距離が変わらなければよいのです。
この場合、周りが線で囲まれ、大きな長方形の中に四つの細い長方形が描かれたかたちになっています。
見方を変えると、白い大きな長方形の板に長方形の穴が四つ開いており、穴から斜めの線のもようがが見えるのです。
そのように意識して、白い板の部分を見ると穴の間の線はまっすぐに見えるようになります。

白い板に長方形の穴があけてあるというふうに全体を一つの構造としてみると、白い部分はすべて同じ平面上として見るので、白い板の上であれば視線を動かしても縦の線はまっすぐに見えます。
構造化して見れば、視線を動かしても焦点距離が自動的な変わってしまうことは防げるのです。

右の図の場合は柱が四本並んでいますが、柱の模様の部分に注目してしまうと、柱は曲がって見えてしまいます。
柱の間の空白部分に注目してじっと見続ければ、空白部分はまっすぐに見えるのですが、柱のほうに眼を向けると、柱は曲がって見えてしまいます。

この場合は柱を受けている上下の部分に注意を向けると、柱であると意識され、一体構造として見る見方となるので、縦の線はまっすぐに見えるようになります。
視線を動かさなければ縦の線はまっすぐに見えるのですが、柱のほうに眼を動かすと模様が眼に入り、曲がって見えるのです。
ここでも柱を意識させる上下の受けの部分に注目させることで、一体構造が意識され、正しい見え方をするようになるのです。


視線のスリップ

2006-03-31 22:56:42 | 眼と脳の働き

 左図はフレーザーのねじりひもの錯視というものです。
 渦巻状に見えますが実際は同心円です。
 線を鉛筆などでたどると、もとの場所に戻るので同心円であることが分かります。
 しかし、同心円であるといわれて、もう一度見直しても、やはりうずまき状にみえるでしょう。
 ためしに外側から二番目の線をたどってみます。
 線がねじれひも状になっているので、線を眼で追うとスリップして隣の線に視線が移ってしまいます。
 線を眼で追うとき、ゆっくりと追えばいいのですが、相当集中しないとスリップします。
 ふつうは線を眼で追う場合、途中で注視点をツイ線から離してしまうのでスリップしてしまうのですが、注視点が線から外れないようにすれば、元のところに戻ります。

 線をたどらないで確かめる方法もあります。
 中心点に注意を集中して見続けると外側の線は周辺視野で見えてきます。
 このとき視線を動かすと無意識のうちにスリップして、渦巻状に見えてしまいます。眼を動かさずじっと見続けなかればなりません。
 もう一つの方法は外側の円をいっぺんに見る方法です。
 眼の力を抜いて外側の円をパッと見てそのまま視線を動かさなければ、円が途中切れたように見えるところがありますが、同心円に見えます。
 切れて見えるのは、一本のひも状に見える線が、実は両端が三角の白い短線と黒い短線が組み合わさっているものなので、つながって見えない場合があるためです。

 右の図のほうは、左の図と似たようなものですが、同心円ではありません。
 内側の円ほど中心が上にずれているので、共通の中心というのはありません。
 したがって、渦の中心のように見えるところは円の中心ではありません。
 この場合も、一番外側の線を眼でたどっていけば一周してもとの所に戻ってくるのですが、ちょっと集中が途切れるとスリップして隣の線に移ってしまいます。
 しかし、ゆっくりと眼で追うか、線から注視点を離さないようにして見て行けば、元のところに戻ってくるので、やはり円形だということが分かります。

 複雑な図形を見るときは、視線が無意識のうちに動いて形を見極めようとします。
 このとき同じような図形のパターンが繰り返されていると、視線がスリップしてしまいます。
 そうすれば、外側の線と内側の線がつながって見えるのですから、渦巻きに見えてしまうのです。
 心理学では、背景にある図形のパターンによって、脳が誤って解釈するので、渦巻状に見えるという説明がされますが、脳の誤解ではありません。
 実際視線が動いてしまうため渦のように見えるのであって、視線が動かなければ内側の線と外側の線が離れて見えるので、渦巻状には見えなくなるのです。
 線が離れて見えているのに、「脳が誤った解釈をしてしまう」というような説明は、もっともらしくはあっても、とってつけた説明に過ぎないのです。


まとまりへの集中

2006-03-31 00:04:49 | 眼と脳の働き

左図の斜めの線はかなり曲がって見えますが直線です。
曲がって見えるのは、見るときに無意識のうちに視線を動かしているからです
斜めの線と垂直線が交差することで奥行き感が出て、焦点距離が変わるためです。
視線を動かさなければ曲がって見えないかどうか試して見ましょう。
視線を動かさないといっても、いろんなやり方があるので、とりあえず一点に視線を集中して見ます。
どこでもよいのですが、ここでは左の星印に視線をあてじっと見続けます。
視線を動かさなければ右側の斜めの線は一直線に見えてきます。
このとき、直線は周辺視野にあるので線の端はハッキリ見えないかもしれません。
線の端をよく見ようとして視線を動かすと、斜めの線は曲がって見えてしまいますから、視線を動かさないようにします。
見る点はこの星印でなくてもどこでもかまいません。
視線を動かさないための手がかりなので、斜めの線に近ければどこでもかまいません。

一点集中というのはどうしても眼に力が入り、毛様態筋を緊張させっぱなしにするので、じきに眼が疲れてしまいます。
そこで今度は、眼の力を抜いて斜めの線の全体をいっぺんに見ることにします。
いっぺんに見るということは上のほうから順に見るということでなく、上下が同時に見えるように全体を見ることです。
縦の棒と交差しているところなど部分的なところに注意を向けてしまうと全体が見えなくなり、線は曲がって見えてしまいます。
部分に集中するのではなく、全体のまとまりへ集中することが肝要です。

ところでこの斜めの線が点線だとどうかというと、荒い点線のばあいは、普通に見ても斜めの線は直線に見えます。
横の星印の助けを借りて一点注視のようなことをしなくても、斜めの線はまっすぐにつながって見えます。
これは線が荒い点線なので、つながっていない部分を脳が補って見ているためためです。
部分が抜けているところを補って直線としてみているので、余分なところに注意を向けず全体のまとまりに目が行くのです。

全体の形を見るには、細かい部分に気をとられないで、全体を荒く見ることが必要なのだということがわかります。
マンガやイラストが写真のようなものより、分かりやすかったりするのも、部分的なところを無視して全体的なつながりを表現しているためだということが推測されます。
文章を読む場合も一文字一文字に注意が向いてしまうと、眼が疲れるだけで文章の意味が理解しにくくなるといったことがあります。
ある程度の長さの文字列を一まとまりのものとして、いっぺんに見たほうが眼が疲れず、広く理解できるようになります。


利き目あるいは利き眼

2006-03-19 22:18:12 | 眼と脳の働き
利き目あるいは利き眼があると思ってしまうのは、目が無意識のうちに見方を変えるためです。
といっても、何のことか分からないでしょう。
まず右の眼を閉じ、顔の前30cmぐらいのところに指で輪を作って、指の輪を通して2m以上はなれたところの縦の線(ドアとか柱の線)を見ます。
そのまま右の目を開くと、縦の線はやはり指の輪の中に見えます。
つまり、両目で見ても縦の線が指の輪の中に見えます。
この状態で左の眼を閉じて見ると指の輪は縦線より左に見えるでしょう。
そうすると、いわゆる利き目チェックによれば、利き目は左目だということになります。

こんどは、左眼を閉じ、前と同じように指の輪から縦の線を見ます。
そのまま左目を開けば、縦の線はやはり指の輪の中に見えます。
つまり、両目で見てもたての線が指の輪の中に見えるのですが、ここで右目を閉じれば縦の線は右側にそれて、指の輪の中には見えなくなります。
そうすると、今度は利き目チェックでは、利き目は右目だということになります。
なんと両目ともに利き目だったということになりました。

この場合は指の輪を右手で作っていますが、左手で作っても同じことです。
それでは、なぜこういう結果になるのでしょうか。
片眼を閉じて指の輪を通して遠くの線を見てから、閉じていた眼を開いたとき、じつは指の輪が二つに見えているのですが、遠方の縦線に注意が向けられていてそのことに気がつかないのです。
両目を開いたとき、本当は指の輪は二つに見えているのですが、指の輪の中に縦線が見えるほうの指の輪を優先させてみているのです。
つまり最初に片目で見たほうを優先させているのです。
そこで最初に左目で見れば、左眼の見え方に合わせ、右目で見れば、右目の見方に合わせているのです。

上の図では右の二つの図は、最初が右の眼を閉じて見たあと両眼で見たとき、二番目が左の眼を閉じて見たあと両眼で見た状態を描いたものです。
本当は指の輪が二つ見えているのですが、縦の線が指の輪の中に見えるほうに注意が向けられ、もう一方が抑制されているのです。
両目で見ているとき、指の外の縦線に注意を向けると、そのとき指の輪は二つ見えているということに気がつきます。
つまり、両目で見ているといっても、実は無意識のうちに偏った見方をしていたのです。

利き目というのは利き手のように具体的な内容のあるものではありません。
医学的な、あるいは生理学的な根拠がないのですが、利き目チェックのようなことをやると、見え方が大きく変わるように感じるために信じ込むものです。
体や顔の向きを斜めにする癖がある場合は、片方の目が優先的に使われるということがあるかもしれませんが、それは姿勢の問題で、利き目とかいう問題ではありません。

遠近感を確かめる

2006-03-10 23:26:11 | 眼と脳の働き
 左の二つの図形で縦の線は同じ長さなのですが、上のほうが短く見えます。
 グレゴリーという学者の説では、上の図は縦線の部分が近くに見え、下の図の場合は遠くにあるように見えるためだとしています。
 図形が遠近感を感じさせるので、縦線の長さが違って見えるのだというのです。
 左の図の場合は建物の扉とか、窓のようなものが描き加えられて立体的に見えるようにしていますが、基本的な線だけの場合はどうでしょうか。

 右の図の場合、横線はすべて同じ長さです。
 一番上の図形と一番下の図形とを比べると、下のほうがかなり短く見えます。
 グレゴリー説では一番上の図形の横線は奥にあるように見え、一番下図形の横線は手前にあるように見えるということになりますが、実際はどうでしょう。
 たいていの人は特にそのようには感じないのではないでしょうか。
 
 真ん中の図形は長方形の紙を折り曲げた形で、立体感を感じる図形です。
 曲げた内側を見ているうちにいつの間にか逆に折り曲げたように見えたりするので、真ん中の線は、奥に引っ込んでいるように見えたり、手前に浮き上がって見えたりします。
 まず、一番上の図形と真ん中の図形を見比べてみます。
 そうすると真ん中の図形が凹んで見えるときは上の図形の横線も凹んで見えます。  
 右の黒丸部分を見れば上の図形の斜めの線端と真ん中の図形の斜めの線端が手前に浮き上がって見えます。
 やはり一番上の図形の横線は奥に見えるのかとつい思うかもしれませんが、それは速断なのです。
 しばらく見ている内にこんどは真ん中の図形の横線は手前に浮き上がって見え、それにつれ上の図形の横線も浮き上がって見えます。
 つまり上の図形は真ん中が奥に見えるとは限らないのです。

 つぎに同じように真ん中の図形と一番下の図形を見比べて見ます。
 真ん中の図形の横線(折れ目)が手前に見えるときは下の図形の横線も手前に見えます。
 ところがしばらく見ていると、真ん中の図形の横線が奥に引っ込んで見え、それにつれて下の図形の横線も奥に引っ込んで見えます。
 やはり下の図形の場合も横線が手前に見えるとは限らないのです。

 ここで分かることは、矢羽根の形が三次元の世界に見られるからといって、矢羽根の形が三次元的に見えるということにはならないということです。
 矢羽根の形を見たら平面的なものでも立体的に解釈して、長さを錯覚するのだという説明は当てはまる場合もあれば当てはまらない場合もあるということです。
 脳が無意識のうちに特定の解釈をして、その結果錯覚が起こるというのは、面白いから説得されやすいのですが、確認する必要があるのです。
 

脳の思い込みによる錯視

2006-03-09 23:55:49 | 眼と脳の働き
 E.アデルソン教授のデモ図形で、右側の図形は左の図形を90度回転したものです。
 左の図の矢印で示した部分は同じ明るさにつくってあるのですが、下のほうがかなり明るく見えます。
 矢印で示された部分で下のほうが明るく見えるのは、この部分が陰になっているように無意識のうちに解釈されるため、影の分を割り引いて明るく感じるのだとされています。
 つまり、実際に描かれた明るさのとおりに感じないで、脳が計算した明るさを感じているというのです。
 
 この種の説明はもっともらしいのですが、常識的な考え方からずれています。
 普通の考えなら「陰になっている部分は、実際見えた明るさより本当はもっと明るいのだろう」という考え方をします。
 見かけは見かけとして、実際はこうだろうと推測するのが普通で、いきなり実際に見えているより明るく感じることはないでしょう。
 もし陰になっているのを知らなければ、同じ明るさに見えるものが実際に同じ明るさなのだろうと思います。
 思い込みによって錯覚が生じるというのであれば、「陰になっていれば実際より暗く見えるはずだ」と解釈して、下のほうの色が暗く感じるのではないでしょうか。

 この場合、図形は真ん中が競りあがっていて、上から光が来るため矢印で示される部分は陰になっているように見えるという前提になっています。
 ところがこの図形は見ているうちに見え方が反転して、真ん中が凹んで見えるようになったりします。
 その場合は矢印で示される部分は陰になっているとは必ずしも感じられないのですが、明るさはといえばやはり上の矢印で示された部分より明るく感じます。
 そうすると陰になっていると解釈することが錯覚の原因ではなく、配色が原因なのだろうと思われます。

 右の図の場合は図形の折れ目が縦になっているので、光が当たって影を作ると解釈するにしても左下からということになるので、かなり不自然です。
 この場合も見ているうちに凹凸が交代して見えるようになるので、右側の矢印で示されるほうが常に陰になって見えるわけではありません。
 陰になって見えるかどうかということとは関係なく矢印で示された左側の部分より右側のほうが明るく見えるのですから、「陰があると解釈して錯覚が生じる」という説明は無理です。
 脳の思い込みが錯覚をもたらすというような説明は、刺激的なので説得力があるのですが、本当にそうなのか確かめる必要があるのです。

漢字が優先

2006-03-08 00:14:18 | 眼と脳の働き
 「ルビンの盃」は白い部分が図であると感じれば盃、黒い部分が図であると感じれば向かい合った横顔に見えます。
 心理学の説明ではどちらに興味を持つかで見え方が変わるといいます。
 白い部分も、黒い部分も模様がついていなければ、どちらが図であると感じられてよいので興味のあるほうを図であると感じるとされています。
 しかし、片方を図であると感じるともう片方は図であると感じないとすれば、最初に図として選択したほうが興味のないほうであっても、反対の色がどんな図であると気がつかないはずです。
 したがってこの説明は面白いのですが疑わしい説明です。

 ところで、白い部分と黒い部分に模様を入れた場合は解像度の高い処理を必要とするほうが図であると感じられるそうです。
 そこで黒い部分と白い部分に漢字とひらがなの模様をつけてみました。
 そうすると、たしかにパッと見た場合、漢字の入った部分のほうが図として感じられやすいようです。
 ひらがなの入ったほうが地に感じられるのは、ひらがなのほうが解像度の低い処理で住むからなのだなと納得できるような気がします。

 漢字かな混じり文は英語のように単語と単語を空白で分けるということがないのに意味のまとまりごとの区切りができるのは、漢字と仮名の解像度の違いのためだということが分かります。
 ひらがなだけの文章の場合は英語のように単語ごとの区切りを入れないと、単に読みにくいだけでなく意味が取りにくくなります。
 「おしいれにねむっているふようひんをしょぶんしたい」のような文章はパッと意味をつかむのは困難です。
 「押入れに眠っている不用品を処分したい」と漢字が入ると、句読点がなくてもすばやく意味を把握することができます。

 漢字かな混じり文は漢字と仮名の処理に要する解像度の違いによって、自然に区切りができて読みやすくなっていると理解されます。
 それならカタカナはどうなのでしょうか。
 カタカナもひらがなと同様あるいはさらに解像度を必要としませんが、漢字カタカナ混じり文というのは以前の法律文章のように読みにくいものです。
 しかし「オシイレにネムっているフヨウヒンをショブンしたい」とすれば分かち書きのような効果が出てくるので、視覚的にはひらがなと異質です。
 カタカナは漢字の一部分をとっているので、ひらがなに比べ直線的なので、解像度の違いはなくてもひらがなと区別できるのです。
 たまたまカタカナを持っていて、英語などの外国語をカタカナで置き換えるようになったので、うまい具合に外国語を広く取り入れるのが容易になったのです。
 カタカナ語が増えすぎて混乱したということはありますが、導入消化力の強さを示しているのだといえるかのもしれません。

視角能力と錯視

2006-03-06 23:31:58 | 眼と脳の働き
 眼で見て大きさや長さを比べるといっても、同じ条件で見なければ意味がないはずです。
 人間の目は無意識のうちに動いたり、焦点を調節したりしているので、同じ大きさや長さのものが違って見えたりします。
 図のaからfまで横線の長さは同じ長さなのですが、近くに加えられた線によって、長さが違って見えます。
 cとbではbのほうが長く感じられるのですが、同じ図形でもaはbより長く見えたりします。
 aでは矢羽の内側に注意を向けて見ると短く見えるのですが、両脇の円を見るようにすると横線の長さは広がって見えます。
 注視する範囲を横に広げると自動的に焦点が調節され、長く見えるようになるのです。
 
 cの場合は矢羽根が横線に接しているため、見る範囲が内側に狭められてしまうので短く見えてしまいます。
 eのように矢羽根を横線から引き離すと注意の範囲が横線の外側に広げられるため長く見えるようになります。

近くにある線によって注意の向け方が違い、それにともなって眼の焦点が自動調節され、大きさが変わって見えるということは、意識的に焦点を固定すれば同じ大きさのものは同じ大きさに見えるということになります。
 実際bとcのように普通に見るとかなり長さが違って見えるものでも、二本の横線を同時に見つめ、視線を動かさないようにして見続けると長さは同じに見えてきます。
 心理学の実験でも、何回もこの図形を見ているとだんだん長さが同じように見えてくるといわれています。

 見慣れると、図形の状態を詳しく把握できるようになってくるので、比べるとき視線をあまり動かさないで見ることができるためです。
 図形を何回も眺めるうちに図形の大きさや形のイメージがハッキリ把握できてくるので、目を動かさず同時に二つの横線を見て比べることができるのです。
 あるいは、視角能力が発達して図形の大きさや形をすばやく把握することができれば視線を何回も動かして大きさを比較しないですみます。
 視角能力が未発達の子供や、視角能力の衰えた高齢者がこの錯視の度合いが大きいというのも、視線を頻繁に動かして比較しようとするためだと考えられるわけです。

利き目というのは

2006-03-05 17:17:27 | 眼と脳の働き
 「利き目」というのも錯覚の一つです。
 利き目を調べる方法として、目の前30cmぐらいのところに指で輪を作り遠方の目標物を見て、片目を閉じてみても目標物が見えるほうが利き目だとされています。
 しかし、実際は両眼で見た場合は、指の輪に焦点を合わせると目標物は二つに見えてしまいます。
 逆に遠方の目標物に焦点を合わせると、今度は指の輪が二つに見えてしまいます。
 両眼で見て、近くにある指の輪と目標物のどちらかに焦点を当てるともう一方は二重に見えているのですが、指の輪が真ん中になかったり、顔が目標物に対して斜めを向いていたりすると、二つに見えるはずのうちの一つが指の輪の中に見えたりします。
 指の輪を左右に動かしてみると、目標物は二回見えます。
 それぞれについて片眼を閉じてみれば分かりますが、二回とも同じほうの眼で目標物が見えるわけではありません。
 一回目が左目であれば、二回目が右目というように交代しますから、一回目の見え方で利き目があると思うのは速断なのです。
 テストのやり方を変えて、最初に片眼を閉じて指の輪から目標物を見て眼を開けば両眼で見ても目標物が見えます。
 つぎにもう一方の目で同じことをすると、やはり両眼でも見えます。
 つまりどちらの眼も利き目ということになります。

 鉄砲には照準というのが先のほうについていますが、照準を両眼で見て射撃するということはありません。
 両眼で照準を見ると的が二つに見えてしまいますから必ず片目で見るのです。
 拳銃の場合に両手で打つというのも正面の的に片手で狙いを定めることができないからで、両手で持つことで体の正面に銃口を向けるためです。
 もし上のような方法で利き目というのが分かるならば、遠方の的を両眼で見たとき二つに見える照準の片方と的を合わせれば当るということになってしまいますが、そういうことはありません。

 人間の目は目標物が多少左右に動いても顔を動かさずに追うことができます。
 そのため注視目標がちょうど正面になくても気がつきません。
 体や顔のくせで、前を向いているつもりでも、斜めになっていることに気がつかない人がいます。
 こういう場合は利き目のテストのようなものが「ほんとだ」と感じるでしょうが、眼が原因なのではなくて姿勢のくせが原因だと考えられます。

 利き目といえば右脳と左脳に関係が有りそうな感じがしますが、利き手と違って右脳が左目を支配するということがないので、関係ないようです。
 右目にも左目にもそれぞれ右視野と左視野がある野で、右目を左脳、左目を右脳が支配するということになっていないからです。
 医学的な根拠がないのに利き目があると思われているのは、指で輪を作ってみるといった簡便テストが劇的な体験を与える場合が合うからです。
 指の輪が顔の正面にあるかとか、目標が体の正面にあるのかといった条件をきちんと抑えていないので、やり方によっては片方の目で見たとき目標物が大きくそれて見えたりします。
 そうすると「やっぱり利き目というものはあるのだ」と強く感じるのでしょう。
 なかには顔や体を斜めにする癖が強すぎて眼に影響を与えている人もいるかもしれませんが、体が斜めに向いているのに眼だけを正面向けにしようとすれば、かえってよくないのではないでしょうか。