60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

会意文字が多い

2008-09-16 23:18:21 | Weblog

 「翠」と「みどり」と読み、青緑色を意味しますが、「羽+卒」がなぜ「みどり」という色になるのか、字面からは読み取れません。
 字典を引けば「翠」は「かわせみ」の雌で、雄の「かわせみ」を指す「翡」と合わせて「翡翠」が「かわせみ」を指します。
 かわせみの色が鮮やかな青緑色であることから、青緑色を意味し、そこからこの色の宝石である「翡翠輝石」をも意味します。
 日本語では「翡翠」を「かわせみ」と読めば鳥の名で、「ひすい」と読めば石の名ですが、色名のときは「翠」だけを表示して「みどり」と読みます。
 中国では「翠」(スイ)が「翡翠」を代表し、鳥の名、色名、石名を兼ねているのですが、日本ではバラバラになっています。
 日本では「かわせみ」が青緑色を連想させ、それが翡翠輝石を連想させるというふうになっていないので、読み方がバラバラになるのです。
 漢字の解釈といっても、中国と日本では発想が違うので、中国式の連想のつながりで説明されても日本人が納得できるとは限らないのです。

 「翡翠」については「翡」がオス、「翠」がメスだというのですが、なぜメスの「翠」が「翡翠」を代表するのかわかりません。
 一般的には雄と雌があってどちらかでその種を代表するとすれば、目立つほうで「かわせみ」の場合は、どちらかといえばオスのほうが色鮮やかだそうですから、本来ならオスの「翡」で代表してもよさそうなものです。
 「鯨」などは雄の鯨だそうですから、オスが種を代表しています。
 「かわせみ」は小さくてかわいらしいからメスで代表させると、理由付けしようとしても、「おしどり」はオスの「鴛」が代表していますから、「かわせみ」だけがなぜ?という感じです。

 また「翠」は「羽+卒」という形になっていて、羽は鳥を意味するので分かるのですが、「卒」はどういう意味なのか分かりません。
 いわゆる形声文字であれば「卒」は音符、羽が意符ということで、「卒」の意味まで考えなくても良いのですが、「卒」は字典を引いても「ソツ、シュツ」という読みがあるだけで「スイ」という読みはでていません。
 字典では「翠」の「卒」は音符(シュツ)で「小さくしまっている」意味で小鳥のことだと説明しています。
 つまりここでは「卒」は意味を示していて、「スイ」という音は示していないので、「翠」は形声文字でなく会意文字だということになります。
 
 それでは「卒」の部分は「スイ」と読むことはないのかというと「純粋」「酔態」「憔悴」などは「スイ」と読んでいるので、「スイ」と読むときもあります。
 単独では「ソツ、シュツ」としか読まなくても、他の意符と組み合わさったときは「スイ」と読むことがあるのです。
 「粋」「酔」「悴」「翠」などには字典を引けば、「ちいさい」という意味が含まれていて、「卒」にも「ちいさい」という意味があります。
 「スイ」という音声言葉があってこれを文字にしようとするとき、「卒」の意味を借りて「羽+卒」、「米+卒」のように作ったものと思われます。
 文字より先に音声言葉があるので、「翠」は「ウ」とか「ソツ」と読まず、「スイ」と読むのですが、文字面に音声は表示されていません。
 字典では「翠」は会意兼形声文字とされていますが、実際上は会意文字であるようです。
 そうすると、漢字は形声文字が大部分と言われるのですが、会意文字が考えられていたより多いということになります。
 日本で作られた漢字が会意文字が主であるのは、中国の漢字も形声文字ばかりでなく会意文字がかなり多いと感じていたためかもしれません。


漢字の単語家族

2008-09-14 00:23:26 | 言葉と文字

 「青春を謳歌する」とか「わが世の春を謳歌する」というときの「謳歌」は広辞苑などでは「ほめたたえる」と説明していますが、普通に使われているときは「たのしむ」という意味です。
 漢和辞典を引くと「ほめたたえる」という意味がのっていて、日本風の意味として「たのしむ」とありますから、広辞苑は漢語の解釈をそのまま載せたのでしょう。
 夏目漱石は「世は名門を謳歌する」というふうに使っていますから、ほめたたえるというのが本来で、その後意味が変化してきているようです。

 「謳」という字はゴンベンが付いていますから「たのしむ」より「ほめたたえる」という意味のほうが自然です。
 漢和辞典で見ると「謳」の「區」という部分の意味は「うたう」という意味で、「謳歌」は「ほめうたう」ということになります。
 同じような意味の漢字で「嘔」、「歐」というのがありますが、これらはゴンベンの変わりに「口」(くち)「欠」(口を大きく開ける)となっていて、「うたう」という意味だということが納得できます。
 同じような意味なら一つにまとめてもよいのに、なぜかかたちまで似た字が三つもあるのです。
 しかも「區」には「はく、もどす」という意味があって、「嘔」、「歐」は「吐きもどす」という意味もあります。
 「嘔吐」というときは「嘔」が普通使われ、「歐」を使う例は見ませんが、「歐」のほうは「欧」のように略字があるのに使われないのは不思議です。
 さらに「區」には、「打つ、たたく」という意味があって、「毆」と「歐」は同じ意味ですが、「毆打」というときは「歐」あるいは「殴」が使われ、「歐」あるいは「欧」が使われる例は見かけません。

 結局「欧」は三つの意味のどれも持っているのに、現在では「欧州」のように当て字で意味が分からない使われ方が一般的になっています。
 「歐」という字が四つの中でいちばん古く、書き分けのために「謳」「嘔」「毆」が後から作られたのかもしれませんが、「歐」だけでもよかったように見えます。
 「區」には他にも「オウ」という読みで違う意味があって、「まがる」という意味については「嫗」(老婆」「傴」(せむし)などがあり、これらは「歐」と別の意味です。
 サンズイに「區」は水につけるという意味で、さらにこれに「鳥」が加わると「かもめ」という字になっています(サンズイがなくて「區」+「鳥」でも「かもめ」)。

 「區」は「ク」という音で「区」「駆」「躯」、「スウ」という音で「枢」というような字があってそれぞれについて「區」が意味の中心部分としてか説明されています。
 これらの字は「區」という文字を共有することで、意味的に直接的あるいは間接的につながっているということになるのですが、「區」がいわゆる部首になっていないので、漢和辞典にはばらばらの場所に乗っています。
 「區」という字を共有していることで、血縁イメージを連想し「単語家族」という言い方をする立場がありますが、それにしては意味の広がりがばらばらです。
 「區」という字があれば、音が違ってもその意味に似たような言葉が寄ってきて文字を借りるということがありうるので、あとから家族関係にもぐりこんだという例もあるかもしれません。
 漢和辞典のあちこちにこれらの文字は散らばっているため、文字の関係が一覧できない状態なので偽家族が入り込んだり、家族関係が離れていったりごちゃごちゃになって分りにくいのです。

 


漢字と意味の多義性

2008-09-11 23:53:24 | 言葉と文字

 「靴」とか「鞄」と書くと革製品でなければならないような感じがしますが、布製鞄やゴム靴であっても漢字の部分は布にしたり、ゴムにしたりはしません。
 革のカバンを鞄と書き表すようになったときは、うまく表わしていると思われたでしょうが、布製のカバンやビニル製のカバンが普及してくると、文字が体を表わさなくなります。
 これがバッグとかシューズのようにカタカナ語であれば、革でも布でもビニルでも矛盾はしません。
 漢字が表意性があるために見ればその意味が分かるというのは、便利なようで不便なところもあるのです。

 「駅」という単語でも、現在では馬を置いているわけではないので、文字と内容がずれてしまっていますが、「ステーション」なら馬がいなくても問題がありません。
 そればかりか「駅」は鉄道の駅に変わっただけですが、ステーション(station)はサービス拠点という意味から「宇宙ステーション」、「放送ステーション」のようにも使われるようになり、意味が広がっています。
 馬を置いているときは「駅」は文字から意味が伝わる要素があったのですが、駅の内容が変化してしまうと名は体を表わさなくなってしまいます。
 カタカナ語のほうは名が体を表わしていないので、文字を見て内容が分るということはありませんが、、内容が変わっても差支えがないのです。
 
 図に示しているのはポピュラーな果物について、英語と漢語の意味の広がりの違いです。
 見れば分るとおり、英語は多義的で日本人の感覚では単純に思われるものでも、いくつかの意味を持っています。
 「リンゴ」といえば日本人の場合ならリンゴの実のことと受け取られ、リンゴと聞いてイメージするものが人によって違うのは、赤いリンゴか青いリンガかとか、西洋リンゴか和りんごかといった程度です。
 英語の字典を引くと、「大字典」といった詳しいものでなくても、いくつもの意味がのっていて、国語辞典や漢和辞典とだいぶ様子が違います。
 
 桃とか梅とか書くと木偏が付いているので、特定の植物をさしていることは、意味を知らなくても推定できます。
 どんな植物を表わしているかは、兆とか毎のような表音要素からでは分りませんが、植物であるということだけは分ります。
 英語のほうは文字面からだけでは何をさしているか分りません。
 木偏のようなものが付いているわけではないので、これらの単語を知らなければそれが植物かどうかの見当すら出来ません。
 その反面限定要素がないので、図のように多義化することができています。

 このように漢字で名詞を表現した場合は意味が限定される傾向があり、英語と比べると多義化しにくいように見えます。
 どちらがよいかは一概に言えませんが、表意性があるから漢字が便利だと断定するのは考えものです。
 漢字は字の形で意味を表現しようとする傾向があるので、、出来たときはよいのかもしれませんが、内容が変化したときついていけなくなるので不便なのです。
 機械は木製でなく金属製なのが普通ですが、そうしたことには目をつぶって使わなければなりません。
 字の構成などに気を使わずに、文字を処理しなければ不便になり、かといって字の構成に鈍感になっててしまうと漢字の特性が無意味となってしまいます。
 意味の変化が速い時代は漢字にとっては難しい時代なのです。

 


旧字体の文字の形

2008-09-10 00:06:14 | Weblog

 「学」という字は旧字体では「學」という字になっています。
 漢和辞典の説明では上の部分は図にあるように、「身ぶり手ぶりをならわせる」という意味だそうで、そのしたは屋根を表わしその中に子供がいるということで、学校を意味し、さらに学ぶという意味を持つということだそうでです。
 現在使われている新字体の「学」では、このような意味が字面に表現されていません。
 これは旧字体が良いという人がよく例に挙げる例なのですが、これだけ見ればもっともらしいのですが、現在ではこの知識はほとんど他に適用できないので役に立ちません。
 
 たとえば「撹乱」とか「撹拌」という字も、旧字体では「攪」となるのですが、この場合は「みだす」とか「かきまわす」という意味で、「学ぶ」という意味とは関係がありませんし読みもガクではありません。
 ふつうは「カクハン」とか「カクラン」と読んでいますが、漢字にうるさい人は「コウラン」「カクハン」が正しい読みだといいます。
 手偏に覚で「カク」とあとから読み慣わすようになったのでしょうが、音符の「覚」を「カク」と読むという知識が逆に作用してしまったようです。
 「撹」を「カク」読んだところで不都合はないのですが、「撹乱」いうような言葉を最初に導入したときは「コウラン」という読み方をしたということです。
 しかし「撹拌」のような言葉を使い始めたときには「コウハン」と言う読み方が定着していたかどうかは分りません。

 では「覚」は「カク」としか読まなかったかというと、実は「コウ」という読み方もあって、「覚醒」のように「さめる」という意味の場合は「コウ」という読みが漢和辞典を引くと出ています。
 「発覚」「覚悟」のように「あらわれる」とか「おぼえる」といった意味の時は「カク」という読みが当てられています。
 しかし現在では「覚醒」も「カクセイ」と呼んでいますから、すべて「カク」という読み方になっています。
 それで別に不都合はないのですから、「カクセイ」「カクラン」「カクハン」と言う読みが定着していても追認すればよいと思います。
 もちろん「覚」には「学ぶ」という意味とは直接関係がないのは明白ですが、字典では意味のつながりを何とか説明しようとするものがあります。
 それでも「覚」を「まなぶ」という意味とつなげるのはむずかしく、説明を読んでも論理がつながっていません。

 それぞれの文字の意味が違うのですから、こレらの背景に統一的な意味を感じ取ることは出来ません。
 したがっても字面が一緒でも意味も一緒というふうに考えないで、それぞれ個別に意味を覚えるしかないのです。
 「學」と同じ意味を持つ字としては「黌」という字があり、これだけ見てもややこしい字で意味が分からなくても「昌平黌」というふうに示されれば「ショウヘイコウ」と読むことはできるかもしれません。
 「黌」の上の部分は「學」と同じで、「学ぶ建物」という意味ですが、下の「黄」という部分が分りにくいものとなっています。
 まさか黄色い色をした建物という意味ではないでしょうから、あらためて字典を引けば「黄」は「ひろい」という意味で「広」の旧字体の「廣」と同じ使われ方です。
 したがって「学ぶための広い建物」ということで「ガッコウ」を意味することになります。(それでもこの場合は読みが「コウ」で学とはなぜか違います。

 「学」「覚」「撹乱」などは上の部分からは意味の共通性が見渡せないので、共通の意味をさぐろうとせずに個別に意味を覚えることになり、かえって好都合ですし、音読みも個別に覚えたほうが無難です。
 旧字体は文字の意味が字の形に埋め込まれているというのですが、この例でも見られるように同じ形が同じ意味とは限らないのです。
 「学」という字でも字源的な説明にある「身ぶり手ぶりをならう」というような意味は 「科学」や「数学」などの「学問」という場合にはなくなっています。
 言葉の意味が変化してきて元の意味から離れてきているのですから、文字の形が元の意味を反映していないほうが便利なのです。
 


旧字体と新字体

2008-09-06 22:36:55 | 言葉と文字

 「恋」という字を旧字体では「戀」と書きますが、「心」の上の部分は糸+言+糸という形になっていて、「レン」と読みます。
 ずいぶんややこしい字で、書くのも覚えるのも大変なように見えますが、「戀」という字は「糸し糸しと言う心」と覚えれば簡単だと旧字体を好む人は言います。
 語呂合わせで覚えやすいのですが、意味的にはなぜそのように書くのか分りません。
 新字体は元の形を崩してしまうので、文字の形から意味が読み取れなくなるといいますが、この場合は旧字体にしたところで、たいていの人には意味が分かりません。
 漢和辞典を引けばこの部分は糸がもつれている様子を表わすとありますが、糸の間に「言」が入っているので「もつれる」という意味になる理由が分りません。
 「言」は「けじめをつける」意味だという説明もありますが、なんとなくすっきりしません。
 
 いちおう「糸+言+糸」で「もつれる」というような意味だとして、それでも「恋」は心がもつれた状態だと説明されると、少しおかしいなと感じます。
 別の説明では「もつれる」は「もつれて断ち切れない」という意味で、執着する意味を強調しています。
 それでは同じ部分を持つ「変」という字はどうなるかというと、下の「攵」が動詞とする機能を持って「もつれて変る」という説と、「攵」は「たちきる」意味で、「つながりを断ち切るので「変る」意味となるとしています。
 いずれにせよ文字を見れば意味が分るということはありません。
 「弯」の場合は「弯曲」の弯で「まがる」という意味ですが、上の部分は「いとがまがってもつれること、それと弓を合わせて丸く反る」という説明で苦しい感じです。
 弓を張れば糸はもつれていないと思うのですが。

 「蛮」の場合は「野蛮」などように「未開で文化が開けていない」というような意味ですが、「もつれる」+「虫」でなぜそうなるか。
 「姿や生活が乱れた虫のような人種」だからというのですが、日本人には思いもよらない思考法です。
 以上は新字体が作られている例ですが、これらについては旧字体であることのメリットはほとんどなく、旧字体では字が複雑で読み取りにくく、もちろん書くのも書きにくく不便です。
 このほか「欒」は団欒、「攣」は痙攣、「鸞」は親鸞という例があるので、馴染みのある漢字ですが、文字を見て意味の分る字ではありません。
 
 図の一番下の行はあまり馴染みのない漢字ですが、「糸+言+糸」が「もつれる」という意味だという知識を持っていても、字を見て意味のわかる人はほとんどいないでしょう。
 読みも「恋」がレン、「変」がヘン、「弯」はワン、「蛮」はバン、「欒」、「鸞」はランですから、知らない漢字であればレンと読んでも間違っているかもしれないと自信をもてません。

 「糸+言+糸」は「糸がもつれているようす」という視覚的なイメージを表現しようとしたものなのでしょうが、そこから文字の意味を推測しようとするとかえって難しくなっているのに気がつきます。
 この部分を「亦」に簡略化してしまった新字体では、文字面から意味は全く推測できませんが、「恋」「変」「弯」「蛮」をそれぞれ別に覚えるので、意味にムリを加えないですみます。
 「亦」に意味を感じようとしないのですが、そのほうがかえってよいのです。


頭の漢字

2008-09-04 23:06:03 | 言葉と文字

 「頭」という字は「豆」に「頁」と書きますが、漢和辞典を引くと「頁」が頭のことを指し、豆は食べる豆でなく「たかつき」で容器を意味するということです。
 豆の部分の表わす意味は「ジッと立ったたかつき」とか「あたまの大きなたかつき」という説明でなぜ「たかつき」が組み合わせられるのかピンときません。
 もしかすると「豆」は「トウ」という音を表わしているだけなのかもしれません。
 意味を表わしているのは「頁」の部分で、これがアタマを意味しているのです。
 顔とか頚、額、顎、頬,項(うなじ)などはアタマに関係する漢字ですから、なるほど「頁」は頭のことを意味するのだなと思います。

 「煩」という字は「わずらわしい」という意味ですが、火が燃えるようにアタマがいらいらすることだという説明を読むといちおうなっとくします。
 ところが「顕」という字を見てもアタマとどういう関係かわかりません。
 「顕」は旧字体では「顯」で左の部分は「日」+「絲」で絹糸を日光にさらすことで、「顔を明るみに出してはっきり見せること」というような説明がありますが、分けのわからない説明です。
 順、頑、頽、、以下図に示した例は普通に使われる漢字ですが、普通使われる意味は「アタマ」とは結びつきません。
 「順」は川と結びついていますが、字典では「川の水が流れるように、アタマを向けて進む」ということで「したがう」の意味だとありますが、記憶法としては面白くても、わけの分らない説明です。
 
 「頑」の場合は「元」自体が「あたま」で「まるいあたま」を表わしているとのことで、丸い頭の意味なのですが、これがどうして「かたくな」とか「融通の利かない」という意味になるのか分りません。
 アタマが四角かったり三角だったりすれば、かたくななイメージもあるかもしれませんが、丸い頭が頑固アタマというのはどういうことでしょうか。
 「頽」の場合は「頁」(アタマ)+禿(はげる)で「くずれる」という意味となるというのですが、「アタマが禿げる」ということがすなわち「くずれる」というのはどうでしょうか。
 アタマが禿げていてもエネルギッシュな人もいるので、納得できない人もいるかもしれません。
 「頽廃」という熟語は「おとろえすたれる」という意味ですが、普通の使われ方では不健全なイメージですから、禿げたアタマと結びつけるのはどうかなという感じです。

 「類」の左側は「米」+「犬」ですが、米がたくさんの植物の代表、犬が種類の多い動物の代表で、「アタマ」と組み合わせ、「多くの物の頭数をそろえて区分けする、つまり分類する」意味となるといいます。
 本当にそういうことで作られた文字なのかどうかわかりませんが、あまり必然性を感じない造字法で、あらかじめ意味を知らされていなければ、このも字の意味を推測することは困難です。
 このほかの文字も、字典には「アタマ」との関係が説明されてはいますが、普通の人がこれらの文字を見て「アタマ」との結びつきを考えても、もっともらしい説明はできないでしょう。
 わからないので字典を引いてみても、「なぜ?」と思うような説明で、かえって分らなくなったりします。

 漢字は一人の人が造ったわけでもなく、一時に出来上がったわけでもないので、造字の原理が首尾一貫しているわけではありませんし、作られたときの意味から変っている場合もあります。
 漢字は見れば意味が分かるというような説がありますが、たいていの漢字は丸暗記によって記憶したもので、長期間の学習で獲得したものです。
 普段使っている漢字でも、なぜそのような意味になるかとアラタメテ見直すと、分らないものがほとんどです。
 見れば意味が分かるのではなく、意味を学習したから分るのであって、分っていて見るから、見れば分るのです。  


漢字の古い字体

2008-09-02 23:59:20 | 言葉と文字

 園芸という意味で使われる「芸」という字は「藝」という字の略字で、「芸」という字自体は本の虫除けに使う香草だということで別の字だそうです。
 旧字体でなければいけないという人は、「芸」の読みは「ウン」で意味も違うのだから園芸や芸能の意味の「ゲイ」に略字として「芸」を使うのは間違いだと主張します。
 ところが漢和辞典を引くと「藝」の元の字は草冠と下の「云」の間の形で、それだけで人がしゃがんで木を植えている形の象形文字で、草冠と「云」はあとから加えられたものだということです。
 「藝」という字自体もさかのぼれば誤った字で、声高にこれが本来の文字の形だということはできないのです。
 略字はダメで繁体字でなければいけないといっても、「法」という字も略字で「ホウ」という読み方はないのに、繁体字で書こうとする人はいません。
 漢和辞典の説明では元の形は、サンズイにの島の中にいる鹿に似た「タイ」という神獣の形で、行動を抑制するワクを表わすといいます(他の解釈もあるようですが)。
 略字の「法」はこの神獣の部分を取り去っているので、元の意味との関連を失っているのですが、だからといって不足を言う人はいません。

 「芸」にしても元の意味では園芸の意味に限定され、現在のように芸術、遊芸、工芸、技芸のような意味はありませんから、「藝」という字にするとかえって不都合です。
 「藝術」と書けば園芸の技術に解釈され、アートとはいめーじがてしまいます。
 「法」にしたところで、現在は生活を規制するワクの意味だけでなく、作業や製造の方法、物理化学の法則、魔法、仏法など超自然の法則など広い範囲で使われるので、元の字義はかえって邪魔になります。
 言葉の意味が変化すれば文字の形と、意味のつながりが薄れていったり、あるいはつながりを失っていきますが、そのほうがかえって好都合なのです。

 発音は変化しても文字の形は変化すべきでないという人は、いわゆる旧字体が初めからあったような印象を持っているわけではないかも知れませんが、時代をさかのぼればさかのぼるほど正統であるという感覚を持っているのでしょうか。
 元の形を維持すべきだということなら、漢字は現在の楷書でなく、甲骨文とか金文にあるものはそこまでさかのぼるべきだということになります。
 そうすると、たとえば「斉」のように、現在とは全く違った形にもどらなくてはならなくなってしまいます。
 甲骨文や金文になると現代の感覚からすると、文字というよりは図形で、そうなると意味の解釈はどうしても感覚的で、連想主体になります。
 たとえば「斉」の源字の三つの図形はこれだけ見ては何のことが分りません。
 ある学者はこれらを簪とみて、三本の簪が髪にそろって刺さった状態だと考え、また別の説では穀物の穂先が出そろった形だといいます。
 両方とも「そろう」という意味だとしているのですが、イメージは違います。
 また「男」という字は普通には、「田」+「力」で力仕事をするということで男を意味するというのですが、甲骨文では田の横に描かれているのは力でなく土をすき返す道具だといいます。
 意味はどちらも男の意味だというのですが、これは意味が分かっているので「男の意味だ」と結論するのですが、あらかじめ意味を知らなければ「オトコ」だという判断に行き着いたかどうか疑問です。

 図には載せていませんが「取」という字は耳の横にある「又」は手の意味で耳を取ることを意味しているということです。
 ところが意味の解釈となると一説では動物の耳を手でつかめば、動物にかまれずに制御できるということから出来た字だとしていますが、別の説では戦功の印として敵の左耳を切とって持つという意味だとしています。
 耳は二つあるので左耳を切取るという説が合理的のようですが、いかにも残酷で本当にそんなことが行われたのかと思いますが、豊臣秀吉のときに日本兵が朝鮮兵の鼻を切り取って軍功の証明とした例もありますから、そういうこともありえます。
 いずれにせよ文字の形からではどちらが正しいともいえないので、漢字の字源解釈というものは学問的にはともかく、実用的には意味がないのです。
 取るという字を読んだり書いたりするする上で、耳を手でつかんだり、切り取ったりというイメージは邪魔でしかないからです。


音読みの種類

2008-08-31 00:12:41 | 文字を読む

 漢字は字の構成を見れば知らない字を見ても、読み方が類推できるので分りやすいというふうに言われることがあります。
 たとえば「豆」は「豆腐」「納豆」のように「トウ」と読むということを知れば、「頭部」はトウブ、「登記」はトウキと読むことができます。
 さらに「逗留」「天然痘」「橘橙」など少し難しい字でもトウリュウ、テンネントウ、キツトウというふうに読むことができます。
 ところが「豆」はトとつまって読む場合もあり、「登山」はふつうトザンと読みます。
トウザンと読んでもよいのですが、普通はトザンと読んでいます。
 しかし「登頂」「登坂」「登攀」「登城」などになるとトウチョウ、トウハン、トウジョウと読みむ人もいれば、トチョウ、トハン、トジョウと読む人もいます。
 既に読み方が固まっている人は良いのですが、はじめてこれらの単語を見た人は読み方に戸惑うでしょう。
 また「豆」は「伊豆」のようにズという読み方もあって、「頭蓋骨」はトウガイコツとも読みますが、ズガイコツのほうが一般的です。
 全部トウと読んでも間違いではないのですが、慣用が優先し、地名に使われた場合は「伊豆」「小豆島」をイトウ、ショウトウトウとすれば間違いです、

 読み方が一通りでないという例は、他にもたくさんあります。
 図にある「尺」「訳」「駅」「沢」「釈」はふつうシャク、ヤク、エキ、タク、シャクというふうにいくとおりもの読み方になっています。
 訳、駅、沢、釈は旧字体では譯、驛、澤、釋で旁を尺にしているのは略字ですが、尺を共通音符にして略字を作っているのですが読み方は違っています。
 「立」にはリツとリュウの二通りの読み方があり、粒はリュウ、拉の場合はラツでまだよいのですが、泣はキュウでリュウと離れていますし、位はイで似ている部分がありません。
 じつは「位」会意文字で音を表わす部分がなく、旁の部分の「立」は音を表わしてはいないということですが、字を見ただけではそんなことは分りません。
 「勺」は約はヤク、酌、杓はシャク、的ハテキ、釣はチョウです。
 最も変化の多いのは各がカク、落がラク、客、略、路、額はキャク、リャク、ロ、ガクです赤ら、かなり読み方の種類が多くなっています。
 適当は普通テキトウと読みますが、字典を見ると本来の読みはセキトウで、滴、敵、摘はテキですが、嫡はチャク、謫はタクと読むのが普通です。
 
 このように音を表わす部分が同じなのに読み方が違うというのは、もともと違う発音なのに近い発音なので同じ音符にしてしまったのか、あるいはほぼ同じ発音であったものが発音がだんだん離れてしまったのか分りません。
 かんじは文字が即単語なので、単語の意味や発音が変化すれば、文字の形と発音や元の意味からのズレが激しくなってきます。
 漢字の形や意味、発音が整然とした形で結びついていると考えたいところなのですが、実際は言葉というものが変化するためにかなりくずれています。
 原理主義的に覚えようとするとかえって混乱する場合もあるので、基本的には個別に覚えてその後つながりを知るというのが自然です。
 たいていの人は知識が増えれば自然にパターンを見つけようとするので、過度にパターンを一般化しないように注意することが必要のように思われます。
 


字面を見て分る漢字の長所と短所

2008-08-28 23:17:16 | 言葉と文字

 子犬や子馬を「仔犬」「仔馬」と書くことがありますが、犬や馬なのになぜ人偏をつけた「仔」の字を使うのか気にかけていないようです。
 本来「仔」は人間の子供の意味だったはずですが、小さいとか細かいという意味にも使われ、仔細というような熟語も出来ています。
 「仔細」というような言葉になれば、「子供」という意味は消えていて、単に小さいという意味になっています。
 「仔犬」や「仔馬」の場合は、「小さい」という意味と「子供」という意味が残っていますが、「人間」の意味は残っていませんから、文字のなかの「ニンベン」という要素は無視されています。

 漢字は字面を見れば偏などによって何にかかわる言葉なのか見当がついて、意味が類推しやすいということになっていますが、そうとばかりはいえません。
 よく使われる漢字でも意味が分かっていても、あらためて文字の構成要素を見ると、かえってわけが分らなくなるものもあります。
 たとえば「黙る」という字でも、黒い犬とどういう関係があるのか辞書には説明があっても、納得のいく説明ではありません。
 「突」は新字体では穴に大ですが、旧字体では穴に犬で、穴から犬が跳びだしてくるという意味だなどと説明されていて、面白くはあってもご無理筋の感じです。
 たいていの人は黒犬とか穴から犬などと思わずに、単純に漢字を覚えていて読み書きしているはずです。
 
 図は人偏を使った漢字の例で、どれもよく目にするものですが、なぜニンベンかと、あらためて考えるとハテナということになり、合理的な結びつきが思い浮かびません。
 ニンベンは人の意味ですが、これが「変化」「化学」の「化」とどう結びつくのか、直感的には分りません。
 漢和辞典では、「物の代表としての牛と、牛を引く人からなる」というような説明ですが、意味不明で「件」の意味を知らなければ、字の説明を見ても意味が分かりません。
 「什」のように「ムカシの軍隊の十人一組の単位」ということから派生して「数多い物品」という意味だというのは一応納得できますが、現代では「什器」という場合の使われ方が主で「日常の器具、道具」の意味ですから、ニンベンとは結びついていません。
 
 「低」は背の低い人を示す文字ということになっていますが、現代では「低」だけで背の低い人を表わす用法はなく、ただ「ひくい」という意味ですから、ニンベンが付いていても「人」の意味が意識されることはありません。
 ニンベンに注意すればかえって戸惑うだけです。
 「併」は「并」が合わせるという意味で、これにわざわざニンベンがついているのですが、偏がついていることで意味が変るわけではありません。
 したがってニンベンが付いているからということで、「人」の意味が意識されるわけではないのです。
 
 漢字は一字で一単語となっていて、意味を持っているのですが、言葉の意味というものは別の意味に変化したり、拡大あるいは縮小したりします。
 意味が変化したり拡大あるいは縮小したからといって、それに応じて漢字の形が変化するわけにはいきません。
 漢字が意味を表わすような形で作られていれば、意味が変化したとき漢字の意味と形は
ズレを生じてくることになります。
 あまり使われない漢字であれば意味の変化も少ないので、形と意味のズレは少ないかもしれませんが、よく使われる漢字は多義的になったり、意味が広がったりするのです。
 「漢字は字面を見れば分る」というのは長所をいっているようですが、矛盾を含んでいることを表明しても入るのです。
 


視野と注意の集中

2008-08-26 23:29:50 | 視角と判断

 上の図では内側の四辺形の色は同じ濃さの灰色ですが、背景の色の濃さが違うため右に行くほど色が薄く見えます。
 背景の色との違いが際立つように見えるため、背景が明るい色であれば実際より濃く見え、背景が暗ければ実際より薄く見えるのです。
 ところで下の図は上の図と同じなのですが、横に棒が渡され四つの四辺形がつながって見えます。
 こうした状態で一番目の四辺形と二番目の四辺形を見比べるとほとんど同じ濃さの色に見えます。
 同様に二番目の四辺形と三番目の四辺形を見比べると同じ濃さに見え、三番目の四辺形と四番目の四辺形も同じ濃さに見えます。
 その結果いちばん左の四辺形といちばん右の四辺形は同じ濃さの色のように見えます。
 もともと同じ濃さの色なので同じ濃さに見えて当然なのですが、上の図ではかなり濃さが違って見えたのですから、見え方が違っているのです。

 下の図では横棒で四つの四辺形がつながっているので、全体が一つの図形に見えます。
 そのため図形を見るとき四つの四辺形をつなげた全体に注意が向かうので色の濃さも同じように見えるのです。
 上の図の場合は一つ一つの四辺形が離れているので、一つ一つを別に見るように注意が向かうので、それぞれの背景との比較で色が濃く見えたり、薄く見えたりするのです。

 ここで上の図のいちばん左の四辺形の内側にある小さな正方形に注意を向けてジッと見つめて見ましょう。
 そうするとこの正方形の色が薄くなり、正方形の外側の四辺形も色が薄くなって見えます。
 つぎにいちばん右の四辺形の中の正方形部分に、同じように注意を向けてジッと見続けると、こちらのほうはだんだん色が濃く見えるようになります。
 つまり狭い範囲に注意を向けて集中視すると、背景の影響が少なくなるので、実際の色に近づいて見えるようになるのです。
 
 上の図ではいちばん左の四辺形といちばん右の四辺形とを同時に注意を向けて見るのが難しいのですが、下の図はつながって一つの図形に見えるために、両端の四辺形を同時に注視することができます。
 そのため両端の四辺形が同じ濃さの色に見えるのですが、視野が狭いとどうしても両端の四辺形を同時に注視することが出来ません。
 注視というと、どうしても一点に注意を向けて見ようとしてしまうのですが、つながった四つの四辺形全体を眺めるようにして、注意だけを両端に向ければ両端の四辺形の色が同じように見えるようになります。
 狭い範囲を集中視するのと、視野を広げて見るのとでは、一点集中のほうがやりやすいのですが、目は速く疲れます。
 視野を広げてみるほうは慣れないとやりにくいかもしれませんが、眼は疲れにくいので、文字を読むときも視野を広げる見方が出来ることが必要です。


集中視と錯視図形

2008-08-22 23:20:27 | 視角と判断

 図はE.H.エーデルソンが考案した図形で、矢印で示されている二つの平行四辺形は同じ濃さの灰色なのですが、上と下ではかなり濃さが違って見えます。
 二つの平行四辺形の間の正方形と隣接する上下左右の四辺形を同時にコピーしたものが真ん中下の図形ですが、こうして見ると確かに上としたの四辺形は同じ濃さであることが分ります。
 この図形が左の図の中にはめ込まれると、下の平行四辺形が他の三つの四辺形より明るく見えるのはなぜかという問題です。

 まず左の図を見ると紙が折られて真ん中の部分がせり上がっているように見えます。
 そこで心理学では、この折られた紙に上から光が当たっていると、脳が判断するからだという説明をします。
 上から光があたっているので矢印で示された下の部分は陰になっていると判断するというわけです。
 同じ濃さなら陰になっている部分はもっと濃く見えるはずなので、下の四辺形は色が明るいと推定されるというのです。
 つまり視覚的には同じ濃さだけれども、陰になっていると判断するため、陰によって濃くなる分を差し引いて判断する結果、明るい色だと意識してしまうというのです。
 目は同じ濃さだと見ているのに脳は違う濃さだと判断しているということになります。

 真ん中下の図のように平面的に表示されれば同じ濃さに見えるものが、左の図のように立体的に見える環境にはめ込まれると、見え方が変るというわけですが、このように説明されると思わずそういうものかと思ってしまいます。
 ところが同じように紙を折った形で立体的に見える右の図の場合を見るとどうでしょうか。
 この場合は上から光が当たるとすれば矢印で示される二つの平行四辺形は、いずれも光が当たる面で陰になる面ではありません。
 従って先の説明で行けば同じ濃さの色なら同じ濃さに見えるはずです。
 ところが上と下の平行四辺形は同じ濃さなのに、やはり下のほうが明るく見えます。
 
 そうすると、光が当たって陰に見える部分だから、陰による濃さを割り引いた明るさを脳が感じるのだ、という説明は成り立たないことが分ります。
 真ん中下の図と上の左右の図と違う条件というのは、平面的に見えるか立体的に見えるかということではなく隣接する部分の色の違いだということになります。
 矢印の指し示す二つの平行四辺形の隣接する左右の四辺形の色の濃さを見ると、上の四辺形の左右は明るく、下の四辺形の左右は濃くなっています。
 そのため上の四辺形は濃く見え、下の四辺形は明るく見えるのです。

 ここで四つの四辺形の中央の正方形に注意を向けてジッと見ていると、隣接する上下左右の四辺形は同じ濃さに見えるようになります。
 真ん中の正方形に注意を集中すれば、真ん中の正方形との比較だけが目に入りますから同じ濃さだと感じるようになるのです。
 なにげなく見たときは他の部分との比較が目に入りますが、意識を集中できれば実態が見えてくるのです。
 


視覚の集中力

2008-08-20 22:49:05 | 視角能力

 A図で4本の横線はすべて水平線なのですが傾いて見えます。
 斜めの線が交差しているためですが、これも水平線に意識を集中して見ると平行に見えるようになります。
 横線に意識を集中して、斜めの線からの影響を取り除いて見ることができ
れば、本来の水平線に見えるのです。
 水平線に意識を集中して見る方法は、水平線の左右両端に同時に注意を向けてみることです。
 たとえば真ん中の二本の横線の左右両端に注意を向けて見ると、二本の横線は水平に見えるようになります。

 慣れないとどうしても斜めの線が意識の中に入り込んで、横線に意識が集中しにくいかもしれません。
 そこでB図のように横線を太くしてみます。
 B図でも普通に見ると横線は少し傾いて見えますが、横線に注視を集中して見るのはA図の場合より楽です。
 A図のときと同じように真ん中の二本の横線の両端を同時に見るようにすると、二本の横線は水平に見え、その他の二本の横線も水平に見えます。
 B図のほうが楽に横線に注意を集中して見ることが出来るのは、線が太くなっているためで、簡単な理由です。
 
 横線に意識を集中できれば、錯視がなくなり水平に見えるとするならば、横線を太くしなくても、色を変えてみるという考えも出てきます。
 C図は横線の色を赤く変えてみたものです。
 この場合も普通に見れば横線は傾いて見えますが、赤線に意識を集中して見れば横線は水平に見えるようになります。
 色が変っているため横線に意識を集中しやすいので、A図の場合より楽に横線が水平に見えるようになっています。
 こうしてやや楽な条件で横線に意識を集中して見る訓練をしたあと、A図に戻って横線に意識を集中して見ると、最初のときより横線が楽に水平に見えるようになります。
 横線に知識を集中する能力が一時的に高まったのです。

 横線に注意を集中しやすければ、横線が水平に見やすくなるということであれば、逆に横線に意識を集中しにくくすれば、横延はどうしても傾いて見えてしまうということになります。
 D図は斜めの線のほうを太くしているのですが、水平線のほうに意識を集中しようとしても、斜めの線が太く強いため非常に困難です。
 それだけでなく、横線に注意を向けて見ると横線は動いて見えるでしょう。
 横線に注意を向けて見ると水平に見えるようになりかかるのですが、斜めの線の干渉が強く傾いて見えるようになるため、ゆれて見えるようになるのです。
 この場合さらに意識を横線に集中して見続ければ、線のゆれが消え横線が水平に見えるようになります。

 水平な横線が傾いて見えるのは、斜めの線が妨害刺激となっているためですが、年をとってくると妨害刺激に弱くなるため、意識を集中して水平に見ることが難しくなってきます。
 D図の場合はかなり難しいですが、B、Cを経てA図で横線が水平に見えるくらいの視覚の集中力は欲しいものです。
 


視覚能力と錯視

2008-08-18 22:12:11 | 視角能力

 図Aでは上の図の軸線のほうが下の図の軸線より短く見えますが、実際は二つの横線は同じ長さです。
 よく知られているミュラー.リヤーの錯視図というものですが、これは誰でも同じように長さの差を感じるかというとそうではありません。
 子供や老齢者は成人に比べると長さの差を大きく感じるそうですし、同じ人でも見ているうちに差を少なく感じるようになるといいます。
 つまり経験とか視覚能力が関係してくるようなのです。
 
 ところでA図のそれぞれの矢羽の部分を半分切り取って、B図のような形にすると、やはりA図のときと同じように上の図の軸線のほうが短く見えるかというとそうではありません。
 この場合は上の軸線のほうが短く見えないというどころか、なんと上の線のほうがむしろ長く見えます。
 A図では軸線の先端が矢羽と接しているために、軸線の長さを比べようとしても線端があいまいになっています。
 A図では上の軸線の線端は実際よりも内側にあるように見え、下の図の軸線は実際よりも外側にあるように見えます。
 つまり軸線を矢羽から切り離して見ることが出来ないので、上の図の軸線のほうが下の図の軸線より短く見えるのです。
 そこでB図のように矢羽根の半分を取り去ってみると、軸線の線端がはっきり見えるので、上の軸線のほうが短く見えるという錯視効果は消滅するのです。

 したがってもしA図を見るときも、B図のイメージで見れば軸線を矢羽から切り離した見かたが出来ますから錯視効果はなくなります。
 そうはいってもA図を見るときは矢羽根が見えているので、B図のように半分を切り離したイメージを見るということは難しいものです。
 このように図のなかから特定の部分を抜き出したイメージを作り上げるのは、こどもは視覚能力が未発達なので難しく、高齢者は視覚能力が衰えた結果不得意になっています。
 その結果、子供や高齢者は成人に比べこの錯視の度合いが大きいという傾向が見られるのです。

 B図は矢羽根の半分を取っているので、なにかごまかされたような感じがするかもしれませんが、C図のように矢羽根の一部をとっても、同じような結果が得られます。
 C図では矢羽根の部分は残っていますが、片側が短くなっているために軸線の先端を見極めやすくなっています。
 このため上の軸線と下の軸線とが同じ長さであるというふうに見えやすくなっています。
 B→C→Aというふうに順番に目を馴らしていけば、A図のなかにB図のイメージを見ることが出来、錯視効果をなくすことが出来ます。
 つまり、A図を見て上の軸線と下の軸線の長さが同じように見えてくれば、図形を妨害要素から切り離して見る能力が増したということになるのです。
 


簡体字の例

2008-08-12 23:23:41 | 言葉と文字

 図は中国の簡体字の例です。
 「態」という字は「能」という部分が音を現し、「心」が意味の分類を表わしていて、「心構えとか、すがたの様子」という意味の漢字です。
 この字の音読みは「タイ」ですが、音を表わす部分が「能」ということは、「能」は「タイ」と読めるということです。
 そこで漢和辞典を引いてみると、小さな漢字辞典では「ノウ」という読みしかのっていませんが、ある程度詳しい辞典には確かに「タイ」という読み方も載っています。
 発音の違う言葉が同じ文字に同居しているのですが、「タイ」という読みで「能」という字が使われる熟語というのは見かけません。
 したがって「能」が「タイ」と読むなどということは、よほどの学者でないと知りません。
 しかし「態度」という熟語を見て「ノウド」と読む人はまずいないでしょうから、普通の人は理屈ぬきに「態」は「タイ」と読むと覚えこんでいて、「能」が「タイ」とも読むと思っているわけではないのです。
 おそらく中国でも「能」という字を見て「タイ」と読める人は少なくなっていて、「太」という字をあてがったほうが分りやすいので造字したのでしょう。

 「願」は音を表わす部分が「原」、意味を表わす部分が「頁」ですが。、「願」と「原」は日本語では「ガン」と「ゲン」でちがうので分りにくいのですが、中国語では両方とも「ユアン」で同じですから、音を表わす部分が「原」だと分ります。
 意味を表わす部分の「頁」は「あたま、くび」の意味なので、それよりも「心」を使ったほうが「願う」という意味にふさわしいと考えたのでしょう。
 (日本人の場合は「願」を「ガン」と読んでいて「原」と読みが同じだとは思わないまま「願はガンと音読みして願うという意味だ」と理屈ぬきに覚えているのです。)
 ところが「愿」という字はべつにあるので、同じ時に別の意味が同居してしまうことになるのですが、もとの「愿」の字はあまり使われることがないのか、「願う」という意味に母屋を取られた感じです。

 「驚」の場合は音符が「敬」で意味を表わす部分が「馬」ということですが、そういわれても、どうしてここで馬が出てくるのか驚いてしまうのではないでしょうか。
 字典では「敏感な馬がハッと緊張することを表わす」などと説明していますが、何となく腑に落ちません。
 「驚く」のは心の問題だから意味を表わすリッシンベンに、音を表わす部分は同音でもっと簡単な「京」にしたほうが分りやすいということで造字したものと思われます。

 「護」の場合は右側が音符なのでこれを同音で簡単な「戸」に変え、意味の部分は「言」では分りにくいので手偏にして動作を示すようにしたものです。
 これらの文字はよく使われる文字なのに、どうしてこのように書くのかと改めて考えると分らなくなってしまう文字です。
 もう既に覚えてしまっている人にはどうということはないのですが、初めて漢字を覚えようとする人には理屈ぬきで覚えなければならないので、記憶の負担が大きいのではないかと考えられます。
 中国では文盲率が高かったので、ともかく覚えやすく書きやすく合理的な文字に変えようとしたのでしょう。
 簡体字のなかにはやりすぎで、おかしなものもあるようですが、日本で導入してもよいものもあると思います。


漢字の意味の違い

2008-08-11 23:34:21 | 言葉と文字

 「一番」という単語は「いちばん」とも「ひとつがい」とも読めます。
 「いちばん」と音読みするときの番は順番のことですが、「つがい」と訓読みするときは「ペア」の意味です。
 訓読みのほうはもともとの漢字の意味ではなく、日本で与えた意味です。
 もしもともと「番」に「つがい」という意味があれば「いちばん」と読んで「ひとつがい」という意味となるはずです。
 漢字は文字自体が意味を持つというふうにいわれても、日本人が漢字を使う場合は、独自に意味づけをしているのですから、日本風の意味づけをしているのです。
 音読みと訓読みでは「足跡」のように音読みでも訓読みでも同じ意味を表わす場合もありますが、意味が違う場合は訓読みのほうの意味は古代の中国人には理解できなかったでしょう。

 中国語入門書では、中国語と日本語で文字が同じでも意味が違う単語の例が紹介されています。
 「答応」は日本語では「応答」ですが、中国語では「応答」という意味のほかに「承知する」という意味で使われるそうです。
 「大意」というのは中国語では不注意とか油断という意味で、油断は油が切れるという意味だということです。
 これは「大」が「おおざっぱ」という意味だとすれば「不注意」という意味になるのも頷けることで、油断も中国式の解釈が読んで字の如しで、日本風の意味づけのほうが理解しにくいことに気がつきます。
 「到底」というの単語は現代の日本では「到底不可能だ」というように「どうしても~だ」というふうに使われますが、明治時代には「結局」という意味で使われたそうですから、明治期までは中国式の使われ方をしていたのです。

 「合同」は日本では数学用語以外では「ひとつにする、いっしょにする」という意味ですが中国では「契約」という意味になっています。
 お互い意の意見を一致させるということかもしれませんが、日本人の感覚とはかなり違います。
 「東西」は日本語ではどうしても「東と西」ですが、現代中国語では「もの」という意味だといいます。

 漢字はもとは中国のもので、日本人にとっては外国語だったわけですから、読み方にしろ、意味の解釈にしろ間違ったり、くずれたりしているという考え方があります。
 ちょうど英語の単語が日本に入ってきて、発音が日本式で間違っているとか、意味を日本式に誤解しているとか、英語の専門家から指摘されるような現象が、漢字についてもあるわけです。
 漢字の読み方などは「呉音」「漢音」「唐音」など時代の違う発音を模写したものが共存するという珍現象が起きています。
 漢字を音読みするとき中国人ならだいたい一通りの読み方なのに、日本では化石化した読み方が残ったので、いく通りかの読み方があるのです。
 漢字本来の読み方といっても何を基準にしてよいか分りませんし、そうかといって現代中国式の読み方もできません。
 「正しい読み方」とは、日本に定着して通用している日本式の読み方とするしかないのです。
 日本に入り込んだ漢字は日本語の一部になってしまっていて、中国語とは別物になっているので、漢字そのものを追求しても実用とはかけ離れてしまうのです。