「100日後に死ぬワニ」という漫画に触発された。ボキは、余命ということを考えることはあるが、それがいつ来るのかということは意識していない。もっとも5年前に大病をしてからは、いつも余命のことは考えてきた。しかし、今すぐ死んでも良いのかとなると、そりゃゴメン被るであったから。
この漫画、まさに「夜と霧」を書いたフランクルではないのか。100日後に死に至るのなら、人生は意味があるのか?ということになる。ちなみに、フランクルのいたアウシュビッツに今月行ってみたいと思っていた。コロナでやめちまったけど。意味を問うというと以下のような?があるのだが。
こんなことをやっていて(馬鹿ブログを打鍵)どんな意味があるんだ?
苦学して私立の三流大学を出て、朝は3時30分から朝刊配達、夕方は4時から夕刊配達、集金もやって大学に行って、そんなことに何の意味があるんだ?
仕事をして、成果を上げて、出世する。そんなことにどんな意味があるのだ?
小銭を貯めて、ときどき海外旅行に行って、うまいもんをたらふく喰って、そんなことに何の意味があるんだ?
愛だの恋だのとやっていて、家庭を築いて、そんなことに何の意味があるんだ?
不倫だの、家庭破壊だのやってきてそんなことに何の意味があるんだ?
仕事仕事と生きてきて、人間関係を破綻させて、そんなことに何の意味があるんだ?
ううううううううううううううううううううううううむ。
もっとたくさんあるのかも知れない。意味を問う対象が。
余命を知らないからやっていられるのである。余命を知っていたら、意味を問うことでもって自分を是正することが可能になるとボキは思っている。つまり、どんなものにも意味があるからだ。これが絶対であるというような絶対的価値というものは、存在しないと思っているからだ。
だから逆算的生き方が重要であると思っているのである。
死をどのように受け入れられるか。死の受容ということをテーマに、来月からの院生生活が始まる。タノシミである。
今日は、週に一度(または二度)の飲酒解禁日である(^_^)。
ノンベンダラリと過ごす。
それもまた人生である。厳しい修行をしているわけはないからだ。ただの庶民である。あははっははっははと笑いながらである。なんの厳しさもない。普通に生きているだけである。評価も求めないし、嫌われたら嫌われたでそれもまた良し。
いろんなことを考えさせられたよん。
このワニちゃんには。感謝である。感謝。
BYE-BYE!