老人フリーターという言葉がある書籍にあった。仕事がないから、確かにボキこれに当てはまる。バイトをやっているではないかと言われるだろうが、バイトは所詮バイトである。
それに暇な時は、こもる。ゴミ論文を打鍵し始める。これがアカン。動かないから下肢静脈瘤になってしまった。それで某大学大学院を中退してしまった。アホそのものである。
去年の9月から千葉市のバイトを始めたが、これで開眼した(^0^)。つまり、もうボキは通用しないと実感したからである。もっとも、現役時代から通用しなかったか。
わははっははっはははっはははっははっははっはははっははっははっはは。
通用しなかったら、潔く去ることである。去ることだけが、ボキにできる唯一のことである。
旅に出て、オノレを見つめるこっちゃ。温泉につかりながら、夜に露天風呂から月を眺めていれば、オノレがいかにむなしい存在であるかわかる。
そこで、般若心経である。あのお経、実に短い。それに、有名な「色即是空」「空即是色」というフレーズがある。あのお経に、高校時代、魂が震えるような気分になったもんだった。考え方がずいぶん違ってしまった。すべては空というのが、ボキの少年時代の気分を支配した。でも、空という字は、7つしか出てこないそうである。さらに、無という字は21回であるそうな。山折哲雄先生によると(「往生の極意」)。
そこで「はっ」となったのである。
なにが「はっ」となったか。
老人フリーターになると、すべてが空虚に感じられるのかというとそうではないからである。虚無主義は老人フリーターに似合わない。無だから、空も有もない。基盤は無である。
ボキは、学部時代に苦学していたから、空ということをよく考えていた。すべて虚無だと思っていた。同年代のお坊ちゃんお嬢ちゃん学生は、ヘルメットをかぶって棒きれを振り回していた。大学はほとんど全部閉鎖していた。明治、中央、法政とかあのあたり(神田近辺)の大学は、全部ロックアウト。苦学していたから、大学で勉強したいのに大学がやってくれない。たまに授業を受けていると、ゲバ学生が暴れまくっていた。授業中止もかなりあった。ああやって騒いでいた学生たちは、今なにをやっているのだろうかねぇ。転向して一丁前に会社員とか公務員をやって、ポマードをぬったくり過去を捨てているんだろうよん。
ま、転向文学というのが、ボキの学部卒論になったのだから、彼ら彼女らに感謝しているけど。
フリーターだから、なんとでもなる。職種さえ選ばなければ、なんでもできる。小遣いが欲しければ、やってみることである。そういう意味でボキは欲が深くても良しと思っている。聖人君子みたいに生きることはできないからだ。
おいしいアイスクリームを食べても良いのである。食べたかったらである。
欲望を否定しても意味がない。
そういう意味で空なのである。しかも両面ある。それが空即是色、色即是空なのだと思う。無を基盤にしているから。
今日は朝からすばらしい快晴である。これもまた喜びである。まさに、尾畠春夫さんが言われるとおり。
朝は必ずくるのである。
ありがたいかぎりである。
今日はジムにも行こう。
ジジイ元気で留守がよいである。
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