と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

尾畠春夫さんは、まことにありがたい方である。現代の妙好人である。

2019年02月10日 08時44分45秒 | 尾畠春夫氏

ここんところ、尾畠春夫さんをリンクさせて動画を楽しんでいる。カテゴリーまで新規に作成してしまった。

大好きだからである。

なぜか。それはボキのような悪行三昧、欲深ジジイとは住んでる世界が異なるからだ。異なる次元を(尊いという意味で)生きておられるからだ。月額5万円の年金をボランティアにつぎ込んでおられる。さらに、使われる言葉が良い。朝は誰にでもやってくるというようなことを言っておられる。ボランティアだって、やらせていただいているというようなスタンスである。そういう言葉を動画で使っておられる。

やってあげるのではないのだ。やらせていただいているという言葉はなかなか出てこないのだ。

質問にも丁寧に答えておられる。そこには、微塵も自己宣伝がない。オノレの実績主張や誇りもおごりもない。競争原理もない。他人との比較原理もない。ないない尽くしである。いわば「無」の境地である。

質問攻めにしている動画もアップされていた。作った御仁が、「尾畠さんのポリシーは?」と聞いていた。「ポリシーってなんですか」と尾畠さんは逆質問。そこで、作った御仁が笑っていたが、その笑いはもしかしたらバカにしているのではないかと不快になった。「ポリシーって主義ですよ」とその御仁のたもうていたが、これ間違っているではないか。主義と言い切って良いのかと思った。主義と言うのなら、その上に強いと入らなくちゃアカンではないか。むしろ、方針とかの意味の方が正しいからだ。ま、そんなこたぁどうでも良いこった。

尾畠さんのような方は学者や研究者には絶対いない。ガッコのセンセにもいない。

だからボキは好きなんである。むろん尾畠さんの方である。学者や研究者とか、ガッコのセンセのようなたぐいの人間とはつきあいたくないからだ。競争原理の中で生きているような人種からは、一種独特の臭みがにおってくるからである。臭くてたまらんからである。窒息してしまうからだ。高学歴社会で生きているんだったら、それを抱えて死ぬまで生きていればいいではないか。ご苦労さまなこった。


わははっははっははっははははっははっははっはははっははっはははっは。


妙好人というのがある。実は、これでもってゴミ論文を書いてみたいと思って、通信教育の大学仏教学科に入って勉強したいと思ってきた。ボキは、西本願寺の中央仏教学院の初心者コースを出ているので関心があるのだが、マジにやってみたい。ただし、ボキの信仰心は本物ではない。アタマで理解しようとしているからだ。知識は、信仰の証ではない。

妙好人とは、以下のとおりである。(ウキペディアによる)

小説家の司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく』「因幡・伯耆のみち」において妙好人に触れ、日常の瑣末のことがらにまで仏教的な悟りに似た境地にある一般人を指すと言い、また同時に歴史的存在であるとも述べている。

善導の『観無量寿経疏』散善義において、念仏者を

「明若能相続念仏者 此人甚為希有 更無物可以方之 故引分陀利為喩 言分陀利者 名人中好華 亦名希有華 亦名人中上上華 亦名人中妙好華 此華相伝名蔡華是 若念仏者 即是人中好人 人中妙好人 人中上上人 人中希有人 人中最勝人也」

(訓読 - もしよく相続して念仏するものは、この人はなはだ希有なりとなす、さらに物としてもつてこれに方ぶべきなし。ゆゑに分陀利を引きて喩へとなすことを明かす。「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。)


これくらいにしよう、でないと尾畠さんに笑われる。

(´∀`*)ノ

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2月9日(土)のつぶやき

2019年02月10日 06時48分54秒 | とーま君の流儀2019
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/