と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

怒りを和らげる音楽: "落ち着いた雰囲気" - 落ち着き、平和、調和、リラックス

2018年05月12日 22時21分20秒 | とーま君の流儀2018

ついつい・・・・・・・・怒りに=アカンですなぁ。

ボキは、こういう落ち着いた性格になりたいものであります。

まだまだ道遠し。

 

 

怒りを和らげる音楽: "落ち着いた雰囲気" - 落ち着き、平和、調和、リラックス

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How to Get Over Someone

2018年05月12日 18時55分12秒 | 英語動画2018

いかにして前の恋人に対する思いを断ち切るか



ボキには関係ない話だけれどもねぇ

わはははっはははっっははははははっははははっははっははは!


fixation 「誰か/何かに執着し、異常までに固執すること」を指すこの単語、学術面、特に心理学でよく見られるかもしれません。動詞は fixate です。「見つめる、執着する」という意味で、後ろには前置詞の on/upon が続きます。

 

 

How to Get Over Someone

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自分を消してしまう人 中根東里は凄い人じゃなぁ 教育は愛であるという見本のような人であります

2018年05月12日 18時33分53秒 | 精神のありかた

中根東里という儒者がいたそうな(1694~1765)。江戸後期の儒者たちの中でも稀有の俊秀であったそうな。

なにしろ自分の名が残らないように、作品を燃やし続け、隠れ続け、自分の存在や生きていた痕跡を消し続けていたのだから凄い人がいるもんだ。こんなこと、現代の学者先生や研究者にはとてもできない相談でしょうけど。実績がなければ、学位論文さえ提出できないのだからねぇ。自分を消していたら、喰っていけないだろうし。

俊秀であった。元禄の時代に中国語に通じて自在に操れたのだから。鎖国をしていた江戸時代にあって伊豆下田の貧乏寺で小坊主をしていた。小坊主時代に、お経の漢文には中国語本来の音が残っていることに気がついてしまったのだ。

寺を飛び出してしまって、中国僧のいる黄檗山萬福寺に移ってとうとう中国語をマスターしてしまった。

年少にしてあの大蔵経全巻を読破してしまったのだから恐れ入る。

これだけ読書をしていたし、さらに中国語の音がわかっていたのだから敵無しである。荻生徂徠も、書の細井光沢も、朱子学の室鳩巣等からも自宅に招かれて共に勉強した。

中根東里のエライところは、こんなに学問ができるのにどこにも仕官しなかったことである。

喰うために学問を愛したわけではなかった。ゼニがあれば、読書をした。ゼニがなくなったら竹の皮で草履を作ってそれを売っていた。それで暮らした。だから竹皮草履先生と呼ばれていたそうだ。

当然、妻もいなかった。しかし、子ども好きだった。飢えて困っていた幼い姪っ子を引き取って一緒に暮らしていた。まるで良寛のごとしだ。もっとも良寛は子どもと暮らしていたわけではないけど。

下野の国、佐野の植野という小さな村で、村人の要請に応じて寺子屋の師匠になった。それで暮らせるようになっていった。

肉親を失った者には、「出る月を待つべし 散る花を惜しむことなかれ」と言った。

さらにある。佐野市ホームページには以下のような記述もある。

 

佐野市指定文化財 中根東里学則版木



佐野市指定文化財 中根東里学則版木の写真元文2年(1737)植野の泥月庵(現在の植野小付近)で、中根東里が弟子を教育するために作った学則の版木です。当時の教育を研究するのに重要な資料となっています。

中根東里は、植野村の医師金束信甫に招かれて、享保20年(1735)江戸から来て、信甫の家の泥月庵で塾を開きました。

東里42歳、信甫24歳の時からです。学則は、陽明学の大本を明らかにしたものです。この版木は、市に寄付された須永文庫にあり、材質は欅で、1枚に20字ずつ陽刻されています。
 

 

 今の学者サマや研究者サマにはとうてい真似できない行動だろう。

なにしろ「自分を消してしまう」のだから。

「教育は愛である」と思う。こういう人を見ていると、ボキなんぞマダマダだなぁと慚愧の思いである。自分が消せないのだから。ゴミ論文を書いたり、こんなつまらないブログというものをやっているし。しかも、こんなもんナンの実績にもならない。実績にしようとも思っていないけど。ブログだって、打鍵しながら考え事をしているだけだけど。無意味かも知れないけどねぇ。

情けない。

中国語だって全然ダメだし。

教育でもって喰ってきてしまったし。

昨日なんか、さらに第三の副業に就職してしまったし。

 

自分を消すなんてボキにはできない。

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああ!

情けない。

 

ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

 

中根東里の「壁書」


一 父母をいとをしみ、兄弟にむつまじきは、身を修むる本なり。本かたければ
 末しげし。
一 老を敬ひ、幼をいつくしみ、有德を貴び、無能をあはれむ。
一 忠臣は國あることを知りて、家あることを知らず。孝子は親あることを知り
 て、己れあることを知らず。
一 祖先の祭を愼み、子孫の敎を忽にせず。
一 辭はゆるくして、誠ならむことを願ひ、行は敏くして、厚からんことを欲す。
一 善を見ては法とし、不善を見てはいましめとす。
一 怒に難を思へば、悔にいたらず。欲に義を思へば、恥をとらず。
一 儉より奢に移ることは易く、奢より儉に入ることはかたし。
一 樵父は山にとり、漁父は海に浮ぶ。人各々其業を樂むべし。
一 人の過をいはず。我功にほこらず。
一 病は口より入るもの多し。禍は口より出づるもの少からず。
一 施して報を願はず。受けて恩を忘れず。
一 他山の石は玉をみがくべし。憂患のことは心をみがくべし。
一 水を飲んで樂むものあり。錦を衣て憂ふるものあり。
一 出る月を待つべし。散る花を追ふ勿れ。
一 忠言は耳にさからひ、良藥は口に苦し。

 

中根東里
名は若思、字は敬父、伊豆の人、幼にして僧となる。物徂徠の門に学ぶうち、悟るところあり、
遂に還俗す。後、室鳩巣に師事せり。後に王学に転じてより、独り之を講究す。生平赤貧、或
は江戸に居り、或は鎌倉に往き、上毛に寓す。明和二年二月七日相模の浦賀に歿す。



※2

中根東里 『清貧で学問に励む』

原文

京浜浦賀駅から鴨居方面へ向かう。途中のバス停「新町」の先に浄土宗、顕正寺がある。境内に江戸時代の陽明学者、中根東里が眠る。 墓石は平頭角柱型で伊豆山石製。塔身の高さ三〇・四㌢、側面の幅二〇・九㌢、基礎の高さ十七・五㌢。 正面に「東里居士(こじ)墓」、裏面に「居士姓中根、諱若思、字敬父、亦孫平、伊豆人也」。 いずれも東里の自筆だ、といわれる。左側面には別筆で「明和二年(1765)乙西春二月七日以疾、年七十二」。 近くの標識にはこう記されている。「中根東里先生、先生廿二歳ノ時 父ヲ失ウ、禅寺二入り浄土教ヲ修ム、儒学二移り徂徠(ソライ)、 鳩巣(キュウソウ)二師事ス。ノチ陽明学二転シ、遂(ツイ)ソノ極致二達シ、万物一体ノ義ヲ明力二ス、 宝暦十二年(1762)二月七日二卒ス年七十二
昭和三二年弥生 横須賀市
               横須賀文化協会」
つまり東里はー時、出家をしたが、著名な学者だった荻生(おぎゆう)徂徠、更に室(むろ)鳩巣に弟子入り、 古学派の学者となり、また陽明学を修めー家をかまえるに至った、という。 中根東里の説くところは天地万物一体の義を明らかにし、その心は仁であり、人が学問するのはその仁を実践するためにある、という。 彼自身、清貧に甘んじ学問に励んだ。
浦賀に来たのは姉が浦賀奉行所与力の合原勝房に嫁していた。その縁を頼って下野(しもつけ)栃木県)天明郷(今の佐野市)の知松庵から浦賀の合原家に移り住み、 晩年を過ごし没後、母の墓所である顕正寺に葬られた。なお姉の合原夫妻は、浦賀港をへだてた対岸の西浦賀町二丁目、常福寺の境内に眠る。 墓石によると、勝房は享保十五年(1730)、妻(東里の姉)は明和六年(1769)に没した。



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教育は愛であるのか?千葉市に行って考えたこと。

2018年05月12日 08時23分38秒 | とーま君の流儀2018

教育は愛である。与えることが基盤にある。マジに。

 

 

精神的にケチになってはいけない。ケチは、与えない。モノを与えるのではない。知識も含まれる。あるいは優しさとか、自分の性格とか、信念のあり方とか、勉強法なども含まれるのではないか。

教育と愛というのは、そういう精神的なケチの関係にはない。すくなくてもあり得ない。

自分がこれまで獲得してきたものを、後から生まれてきた者に与えることができないというのは教育者ではない。

フロムに学んだことは、この一点である。

今のところはである。

 

進学指導ばかりやっていると視野が狭くなる。進学だけが教育であると思いがちになってしまう。一流大学に何人進学させたかということだけが教育なら、サミシイことである。

果たしてそうか。進学率だけが教育なのか。

教育はそれだけではない筈である。少なくともボキはそう思っている。

世の中には成功者ばかりがいるのではない。

人間関係を構築できなかったり、学校に行けない通学できないという若者だっているのだ。

そういう若者を十把一絡げにして、「落ちこぼれ」と規定することはたやすいことである。しかし、それで良いのか。

ボキなんか中途ハンパなエリートや、知識人ほど危ういものはないと思っている方である。だから、そういう自称エリートよりは、学校からドロップアウトしてしまった人の方に魅力を感じる。

なぜか。

それはボキ自身が学校に拒絶反応を持っていたからである。さらに、大学も新聞配達をして卒業したからである。極端に言えば、受け入れられなかったからである。逆説的に言えば、だからこそ教師になったのである。

ボキのような学生だっているのだ。

貧しくて大学にも行けない。

両親が不仲である。

父親が夢ばかり見て、ロクに働きもしない。酒乱である。家庭内暴力を振るう。子供も殴る。シベリヤ抑留を体験したから不幸であるという自己規定。だからこそ今生きている社会や現実を肯定することができない。不平不満ばかりになってしまう。

そういう家庭に育っても、人間はまともに育つのである。

ボキがそういう育ち方をしたからである。

 

フロムの言ったことは大いに参考になる。

教育と愛。

しかもそれは与えることによってのみ可能となる。

だからこそ、ボキは新しい副業を見つけたのである。むろんまたまた教育関係である。カネが欲しいからではない。ローンもないし、年金を貰っているだけだから好き勝手に生きている。でも、ボキは教育を生涯の仕事としてやってきたのである。これからもである。どこも雇ってくれなかったら、ボキの家で弟子をとる。宿題塾でもやろうかと思っているくらいである。

チャレンジ、チャレンジである。

こういう姿をドロップアウトしてしまった若い人々に見せたい。

どういう対話が第三の副業で可能になるか。

楽しみである。

 

亡母が言っていたとおりになってしまった。ボキは、生涯凡人teacherである。感謝しているのだ。亡母はボキの本質を見抜いていたのだ。そういうDNAが体内にあるのだろう。

 

時々、教育は愛であるということを書いてみたい。

どんな展開になるかは別として。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

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5月11日(金)のつぶやき

2018年05月12日 06時30分19秒 | とーま君の流儀2018
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/