劣等感というのは、反面教師でありまするなぁ~~~~~~~
親が子に期待するというのは、当たり前のことであろう。こういう子になって欲しいというのは誰にでもある。あって当たり前であろう。そんなのまったくない、どうなろうとオレの知ったことではないというのでは如何なものかと思うからである。
しかしである。
あまりにも、親が期待し、期待通りに生きて欲しいとなると問題が違ってくる。
子どもはオノレの自由自在になるものではないからである。
一流大学を出て、一流会社に入り、貯金もたくさん貯めて幸せな生活を送って欲しいというのが、平均的な親の望むところなんだろうと推察する。
勉強が嫌いな子どもにも一流大学に入って欲しいと望むのだ。
でも、それっておかしくないのだろうか。そもそも勉強が嫌いなのに、一流大学に入れるわけがないではないか。論理が破綻している。
なんでもかんでも自分の価値観を押しつけたらアカンでっせ。
そういう一流大学信仰というのは、劣等感のあらわれでもあるのじゃよ。
ボキが好例だからよく分かるのだよ。
ボキは、劣等感のカタマリであった。大学の学部だって私立の三流大学だったし、学費すら払えなかったから苦学した。新聞配達である。これが一番良い経験になったけど。今となっては感謝しているんだが。あれで徹底的にたたきのめされたからである。苦学しているからって言っても世の中は甘くはなかった。ただの新聞屋さんであった。だから大学生にありがちな、異性との交際とか、友人知人を作ってサークル活動にいそしむなんてぇことはまったくできなかった。時間がなかったからである。夕刊配達と集金もあったのだから。世の中って、ツメテェなぁと思い知らされた。
さらに、大学院修士課程は仕事しながらの通信教育。大学院博士課程は、もっと徹底的に打ちのめされた。三年目で中退である。学力劣等だった。そもそも勉強が嫌いなのに博士になりたいと思ったのだから、笑わせやがるではないか。まるで基地外ですよん。劣等感が三倍になってしまったのだから。
劣等感というのは、ボキ、何年生きているのか忘れてしまったが、何年もボキを苦しめてきたのじゃ。
確かに勉強が嫌いだったし、上から目線で他人に命令して生きてきたわけではない。でも、知らず知らずにテメェの価値観をボキの子どもたちに押しつけてきたのだなぁと思う。
勉強が嫌いだったから、嫌いな子どもたちのことがよく分かるようになった。それで教育で喰ってこられたのである。登校拒否や、閉じこもりで苦しんできた子どもたちのこともよく分かるようになってきた。来月から働かせていただく某通信制高校でも、この経験が活きているのは間違いないから。
それでもボキは(_ _ )/ハンセイしている。
ボキだけの価値観を長女や長男に押しつけていたのではないのか、と。
親族や他人に対してもそうだった。ボキの価値観を押しつけていた。相続でもそうだった。弟に有利なように相続のことで解決した。ボキは、行政書士のライセンスを持っているからそういう問題はできたのである。
だから、相続は清廉潔白にやらねばならないという思い込みがあった。つまり、テメェの権利を主張せずに亡父と亡母の最期を看取った弟に、あるいは故郷の墓を守っている弟に、相続のボキの権利を放棄して弟に提供したのである。それが立派なことだと思っていた。
でもそんなことは九十九里の姻族や他人に説教たれている場合ではない。ミンナそれぞれ自分勝手に生きているだけである。なにを今さらである。
オレだけがそんなことをやってしまったというだけである。後悔はないけどねぇ。
劣等感が根本にあるからだ。
価値観が立派だと思いたいのである。オレの方が立派な生き方をしているではないかと思いたいのである。
どうだ?
ざまーみろというわけだ。
アホらしい。
ゼニに立派もクソもない。ゼニはゼニである。あればあるほどありがたいではないか。それをいかにも聖人君子ぶってみたところで、ただのボンクラではないか。
劣等感の裏返しでしかないのだ。
ううううううううううううううううううううううむ。
Bye-bye!