と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

折口信夫を教えられる大学ってどれくらいあるんだろう・・?

2015年08月12日 09時21分40秒 | 民俗与太話にムチュウ


書庫にある折口信夫はbibleである。

 

 

折口信夫が大好きである。彼の全集はbibleである。

私にとっては。

これを「繰り返し学習」でもって、読みはじめている。繰り返し読む事によって、これから生涯にわたって学習する意味を見いだそうとしているというわけである。

どうせ死んだら消滅してしまうのである。

だから、死んだ先のことなんか考えてもしょうがない。売るときのことを考えてもしょうがない。それこそ古本価格では二束三文である。だったら大いに汚して、できるだけ書き込みをして、この出来の悪い惚けアタマにたたき込むしか無い。

そういうことである。

サブノートをとろうとしたが、時間があまり残されていない。私の生命が消滅するのがいつかは知らないが、それほど長くはないことだけは確実である。今まで生きてきた年月の二倍を生きることはできないだろうからだ。

さりとて老醜をさらして生きていくつもりもない。

そこで思うことがある。

「折口信夫を教えることができる大学ってどれくらいあるんだろうか」ということである。むろん博士後期課程レベルでの話である。

知ってのとおり、折口信夫は民俗学、国語・国文学、神道研究のメッカである國學院大學の出身である。さらに國學院大學の教授もされた。だから、國學院大學ならば、折口信夫を教える事は可能だったのであろう。そういうことに気がついていなかった。

國學院は名門である。愚生ごときが入学して学べるような大学では無い。当たり前である。

だから、何となく敬遠していた。

しかし、全集の25巻を読んでいて、あっと思ったことがある。それは「歌論歌話集」というのである。これまで彼の歌はなんとなく敬遠していたからである。

高校(母校)の国語教師のふとした雑談で、「折口信夫の歌は難しい」ということをお聞きしてから、ずっとそう思って生きてきたのである。

素直な高校生だから、マジにそう思っていた。

ところがである。

この全集を汚そうと思ってグリーンのプロッキーを片手に持って、読み始めたら止められなくなった。

おもしろいのである。

けっこう辛辣な評論も書いているからだった。

一昨日の夜のことである。孫も寝て、暑かったけれども夏の夜をプロッキー片手に過ごしていたのだった。

新しい発見があった。

ふううううううん、ということである。

堅苦しい、性的な異常性を持った学者センセの歌がおもしろいワケがないとばかり思っていたのだ。それがひっくりかえってしまった。

村上春樹どころの騒ぎでは無い。

折口信夫も村上春樹も、おおいに見直しのきっかけとなったのがこの夏の体験である。

あまりにも固定観念でもって、両者とも見過ぎていた。というか、繰り返し学習によって、知らない事が多いということに気がついてしまった。

そうするとロシア文学だって、十代後半にムチュウになって読んできたが、あれも知らないことがかなり多くあるんだろうなぁと思った。

ドストエフスキーだって、全集を何度も読み返し、さらに文庫本でも読み、ノートもとっていた。

されど、知らない事がたくさんあるのだろうと思う。間違いない。

オレごときがである。オレごときがやっているんだから、欠陥はある。かなりある。

そう思うとかえって楽しい。

やる事ができたからである。

人生の半分ほどを無為無策でもって、ダラダラと過ごしてしまった。しかも大金はたいて入学した大学院を今年の三月に退学までしてしまった。

後悔の多い余生である。

無意味といえばこれくらい無意味なことはない。

経済とつながっていないからだ。

もっとも最初からそんなことは考えていなかったし、趣味で学問らしきものに接していれば満足だったからそれでよかったのだと思っている。今でも。

所詮素人学問でしかなかった。いろいろなアナがあったからである。

されど、ゴミとはいえ論文めいたものが残っている。さらに、「房総の郷土史」で41号、42号、43号と連続で論文を掲載していただいた。全部一貫したテーマであった。

感謝している。

そして、それは確実に私の出来の悪いアタマにインプットされている。参考文献も膨大である。「房総の郷土史」を見ていただいた方には、私の参考文献欄だけでもこれからのヒントにしていただける可能性はある。

ある意味私のアタマの財産になっている。

だからこれからも大いにやっていこうと思っている。

「繰り返し学習」によってである。

これしかできないからだ。

ゴミのような駄文を書いて、それでもって学習をしていくしかないからだ。

でないと全部忘れてしまうからだ。

次から次へと読書をしても内容はもちろんのこと、なにを読んだかも忘れてしまうのである。

話にならないとはこのことである。

わらっちまうけど。

それに、最近は、美女を見てもみ~んな忘れてしまう。誰だったかも忘れてしまう。

本当に情けないけど、みんな通りすがりの行きずりの人になってしまっている。

現実とかかわっていないからだろう。

そういう意味では、村上春樹著「ノルウエイの森」の直子とかキズキのように、「半分死んでいる」状態なのかもしれない。

でも、私は「半分死にかかっている」状態から、確実に「100%死んじゃう」ことになる。それがいつになるかは誰にもわからない。

それまでは、やりたいことをやって、書きまくり、勝手なことをくっちゃべって生きていくつもりである。

ワルイケド。

わははっははっははっははっははっははは。

 

 

(^_^)ノ””””

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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8月11日(火)のつぶやき

2015年08月12日 06時04分27秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

直子という存在(「ノルウエイの森」の)

「ノルウエイの森」(村上春樹)に登場してくる直子という女性がいる。キズキという自殺したかつての恋人が忘れられず、自分が自分でない... goo.gl/HqwKZQ


西往寺宝誌和尚立像:宝誌和尚は実在した中国南北朝時代の僧侶。梁の武帝が絵師に和尚の肖像を描くよう命じると、和尚の顔が割れて中の菩薩がどんどん変化するので、結局お顔を書く事が出来なかったという。現在は京都国立博物館に寄託。 pic.twitter.com/0c3kH40LFe

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■「沈黙とは、体と精神と魂が完璧な釣りあいをとっていることである。自己を保っている人は、葉の一枚たりとも動かぬ木のように、小波ひとつ立たない輝く池のように、つねに静かで、実存のあらしに揺すぶられることがない。」

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平等院鳳凰堂雲中供養菩薩:鳳凰堂の長押上の壁面に懸けられている52体の浮彫の菩薩像。いずれも飛雲に乗り、楽器を奏でて合掌し舞を舞うなど、様々なポーズを取り、阿弥陀如来と共に来迎する様子を表す。 末法年の翌年(1053年)に制作された。 pic.twitter.com/qgygZ2o15w

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私はもう第三次世界大戦は始まっていると思うのです。ただ私たちがそれに気づかないだけです。なぜならこの戦争は、従来のように領土を対象とする戦争ではなくて、時間の戦争だからです。それは私たちの子どもや、子孫を破滅させる戦争です。 『エンデの文明砂漠』

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【宝誌和尚の影響】幕末絵師・狩野一信「五百羅漢図」には、宝誌和尚の伝承を図像的に踏まえたと思われるが箇所ある。また、現代美術家・村上隆氏「顔裂き写真」にもその間接的な影響を伺える。宝誌和尚が日本の近現代美術に与えた衝撃は大きいだろう。 pic.twitter.com/8sa43OFUAb

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株価終値 中国経済への懸念で値下がり nhk.jp/N4Kg4GzQ #nhk_news

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平成26年度 全国学力・学習状況調査 追加分析報告書mext.go.jp/a_menu/shotou/… おお!

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三蔵法師の旅の守護役は、なんとドクロを纏う!深沙大将だった!!ww_(^^;)ゞ.。o○これが沙悟浄の原型になったんだな…
(@ 龍谷ミュージアム in 京都市下京区, 京都府) swarmapp.com/teratabist/che… p.twipple.jp/0OpCm

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#プロメテウスの罠 RT @hiroco2003 独裁の短所は専横です。
民主主義の短所は衆愚政治です。

教育と報道が機能しなければ的確な投票行動も不可能になり、衆愚政治となりやすくなります。今、そんな罠にがっつり嵌ってるのが日本です。

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能面は能楽師の顔である。 金剛巌

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蘇我馬子と聖徳太子は、仲良さそうに見えるの。仏教を広めたいと思う気持ちも同じだし、聖徳太子は馬子の甥だし…でも馬子の孫(蘇我入鹿)と聖徳太子の子供(山背大兄王)は戦うの。山背大兄王の母親は入鹿の父親の妹なのよ…でも山背大兄王は滅ぼされてしまう。ここら辺は系図を見ると楽しいわよ。

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なぜ四十年も昔に出されたこの本を、いまふたたび世に問わなければならないと思ったのかといいますと、いま現在語られている平和論に決定的に欠けている視点が、そこにはっきりと表現されている、と考えたからです。~『イカの哲学』

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イギリスに憲法はないというわね。でもこれは「憲法典」そのものがないという意味で、今までの判例の積み重ねが憲法同様なの。つまり「憲法」とは、①「憲法典そのもの」②「実質的に基本法があるということ」の2つの意味があるわ。そして現代では「民主主義的な内容を持っている」ことも加わるわね。

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exileは名詞で「追放、亡命(した人)」ね。他動詞で「~を流刑にする、追放する」って意味。接頭辞exの「外」のニュアンスを忘れちゃダメよ? 基本的な接頭辞ぐらい常識にしましょう!

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B.C.367に共和政ローマでリキニウス=セクスティウス法が制定されたわ。護民官のリキニウスとセクスティウスによって制定されたわ。統領(コンスル)の一人を平民から選出する、公有地占有に制限を設けるなどの内容で、平民の地位を高めることになったわ。

Waishan Richunanさんがリツイート | 1 RT

いま、こういう気持に俺がなるのも、もう一人の自分が出て来たからだ。ああ、そうか。俺は今日から、どんなことがあっても断然、その尊い気持で絶対に生きて行くぞ。 それを遠くの方から見ていた先生が、タタっと駈けて来て、「アーユー、ギャバティ、」ギャバティとは悟ったな、という意味です。

Waishan Richunanさんがリツイート | 1 RT

真実においては、大いなる愛は愛する対象についての大いなる知識を生む。

Waishan Richunanさんがリツイート | 1 RT

コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/