書庫にある折口信夫はbibleである。
折口信夫が大好きである。彼の全集はbibleである。
私にとっては。
これを「繰り返し学習」でもって、読みはじめている。繰り返し読む事によって、これから生涯にわたって学習する意味を見いだそうとしているというわけである。
どうせ死んだら消滅してしまうのである。
だから、死んだ先のことなんか考えてもしょうがない。売るときのことを考えてもしょうがない。それこそ古本価格では二束三文である。だったら大いに汚して、できるだけ書き込みをして、この出来の悪い惚けアタマにたたき込むしか無い。
そういうことである。
サブノートをとろうとしたが、時間があまり残されていない。私の生命が消滅するのがいつかは知らないが、それほど長くはないことだけは確実である。今まで生きてきた年月の二倍を生きることはできないだろうからだ。
さりとて老醜をさらして生きていくつもりもない。
そこで思うことがある。
「折口信夫を教えることができる大学ってどれくらいあるんだろうか」ということである。むろん博士後期課程レベルでの話である。
知ってのとおり、折口信夫は民俗学、国語・国文学、神道研究のメッカである國學院大學の出身である。さらに國學院大學の教授もされた。だから、國學院大學ならば、折口信夫を教える事は可能だったのであろう。そういうことに気がついていなかった。
國學院は名門である。愚生ごときが入学して学べるような大学では無い。当たり前である。
だから、何となく敬遠していた。
しかし、全集の25巻を読んでいて、あっと思ったことがある。それは「歌論歌話集」というのである。これまで彼の歌はなんとなく敬遠していたからである。
高校(母校)の国語教師のふとした雑談で、「折口信夫の歌は難しい」ということをお聞きしてから、ずっとそう思って生きてきたのである。
素直な高校生だから、マジにそう思っていた。
ところがである。
この全集を汚そうと思ってグリーンのプロッキーを片手に持って、読み始めたら止められなくなった。
おもしろいのである。
けっこう辛辣な評論も書いているからだった。
一昨日の夜のことである。孫も寝て、暑かったけれども夏の夜をプロッキー片手に過ごしていたのだった。
新しい発見があった。
ふううううううん、ということである。
堅苦しい、性的な異常性を持った学者センセの歌がおもしろいワケがないとばかり思っていたのだ。それがひっくりかえってしまった。
村上春樹どころの騒ぎでは無い。
折口信夫も村上春樹も、おおいに見直しのきっかけとなったのがこの夏の体験である。
あまりにも固定観念でもって、両者とも見過ぎていた。というか、繰り返し学習によって、知らない事が多いということに気がついてしまった。
そうするとロシア文学だって、十代後半にムチュウになって読んできたが、あれも知らないことがかなり多くあるんだろうなぁと思った。
ドストエフスキーだって、全集を何度も読み返し、さらに文庫本でも読み、ノートもとっていた。
されど、知らない事がたくさんあるのだろうと思う。間違いない。
オレごときがである。オレごときがやっているんだから、欠陥はある。かなりある。
そう思うとかえって楽しい。
やる事ができたからである。
人生の半分ほどを無為無策でもって、ダラダラと過ごしてしまった。しかも大金はたいて入学した大学院を今年の三月に退学までしてしまった。
後悔の多い余生である。
無意味といえばこれくらい無意味なことはない。
経済とつながっていないからだ。
もっとも最初からそんなことは考えていなかったし、趣味で学問らしきものに接していれば満足だったからそれでよかったのだと思っている。今でも。
所詮素人学問でしかなかった。いろいろなアナがあったからである。
されど、ゴミとはいえ論文めいたものが残っている。さらに、「房総の郷土史」で41号、42号、43号と連続で論文を掲載していただいた。全部一貫したテーマであった。
感謝している。
そして、それは確実に私の出来の悪いアタマにインプットされている。参考文献も膨大である。「房総の郷土史」を見ていただいた方には、私の参考文献欄だけでもこれからのヒントにしていただける可能性はある。
ある意味私のアタマの財産になっている。
だからこれからも大いにやっていこうと思っている。
「繰り返し学習」によってである。
これしかできないからだ。
ゴミのような駄文を書いて、それでもって学習をしていくしかないからだ。
でないと全部忘れてしまうからだ。
次から次へと読書をしても内容はもちろんのこと、なにを読んだかも忘れてしまうのである。
話にならないとはこのことである。
わらっちまうけど。
それに、最近は、美女を見てもみ~んな忘れてしまう。誰だったかも忘れてしまう。
本当に情けないけど、みんな通りすがりの行きずりの人になってしまっている。
現実とかかわっていないからだろう。
そういう意味では、村上春樹著「ノルウエイの森」の直子とかキズキのように、「半分死んでいる」状態なのかもしれない。
でも、私は「半分死にかかっている」状態から、確実に「100%死んじゃう」ことになる。それがいつになるかは誰にもわからない。
それまでは、やりたいことをやって、書きまくり、勝手なことをくっちゃべって生きていくつもりである。
ワルイケド。
わははっははっははっははっははっははは。
(^_^)ノ””””