古文研究法 (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2015/2/9
驚いた。4:56、Amazonのサイトに行ったら、十五歳以来愛読している学参が文庫本になって売っていた。これはこれは。びっくりした。
こいつは、中学校を卒業したときに、やっとすっとこ入学した母校(高校)の必須参考書であった。全員買わされたのである。入学式の直後にこれから試験があって、エライ高校に入ってしもうーたと思ったっけ。吾以外全部秀才であったからである。事実、そうだったからである。ついていくのが容易ではなかったからだ。吾以外は、出世していったし、成功者が実に多いからである。繰り返す。「吾以外」は、である(^0^)。
この小西甚一センセの本があったからこそ、その後四〇年近くにわたるナガ~イ国語教育人として実践する支えになったのである。それでもって生きることができた。だからとても感謝している。それにぼろぼろになるほど、繰り返して読んできた。何度も買い換えてきた。今も私の書庫にある。あるどころか、塾にも持っていっている。いつでも読めるようにである。
こんなアタシでも、それくらいの準備はしているからだ。
それにつけても、こういう基礎的な知識というのは重要である。
専門外の英語・数学も塾では担当するから、余計にそういうことを感じる。
数学はさすがに大学レベルのはできない。高校受験までである。しかし、英語はそうも言ってられない。しかも、もう四年目に入っている。だからそれなりに自学自習していないとアカン。
だからかえって楽しみになってきた。
生涯学習の効果であると思っている。
楽しみで英語もできるってぇことがいい。それに趣味で行っている海外旅行にも役にたつ。こんなにいいことはない。本当に。度胸があれば、英語はなんとか通じるもんであるからだ。特に幼児に語りかけると実にいい。 発音が明瞭であるし、こっちはジイジであるから、幼児の扱いは慣れたもんじゃ。
ゆっくりしゃべってくれるし。実力に応じて。わはははっははははっははである。
コツは、「笑顔」である。笑顔で接すれば、幼児も、そのママたちも相手にしてくれる。
それに私は、スキンヘッドである。こいつも重要だ。逃げも隠れもしないという態度が丸見えである。下手に隠そうとするから、警戒される。
私の場合、隠したくても隠しようがないから安心である。隠しても無駄なものは無駄。隠すものが生えていないのじゃ(^0^)。
そういう意味では素直である。
ハゲのことを自虐的に言うと、笑われるが、まったく気にしない。私は。そういう心境になったのは、ジイジになったからである。村上春樹のようなどっかで異性にモテテみたいというようなスケベ根性といったもんがない。異常な女性遍歴をまったく考えていないからであろう。もっとも今更無理であるがねぇ。それに、漱石のような高尚さもない。アタシには。当然ない。
だから両者ともに、小説の主人公にスキンヘッドは似合わない。ファンからしたら当然であろう。ハルキストも漱石のファンも許しがたいジイジであろう。私なんか。
今更、関係がないけど。
そういうのが好きな方々と会うこともなくなったし。機会がまったくない。議論もできなくなった。そういう意味で通学できる大学というのがあったら、これはおおいに活用させていただくべきである。学生としてである。同じ学問をさせていただいているんだから、議論も積極的にすべきである。相互の勉強になるからだ。
退学した大学院での勉強はそういう意味で懐かしい。もう二度とできない体験であったからである。感謝している。先生にもクラスメイトたちにも。こんなバカジイジ院生の通学を許可していただいただけでも、稀有の大学院であったからだ。学業劣等だったのが、残念でたまらなかったが。もう二度とお会いすることもないだろうし、世の中や人生万般会うは別れの始めであるからである。
だから一期一会というのである。大切にすべきことである。
日本の中世文学には諸行無常というか、別離の儚さというか、そういう宗教的なことが、文学を通して語られている。だから好きなのである。中世文学が。
よくわかっていないのだけれどもねぇ~。
いくら読んでも歯が立たない。
だから「繰り返して学ぶ」しかない。
あらすじだけ追っていてもそんなもんは話にならない。
よくいるではないか。受験国語のように、一回読めばわかっちまうからそれで完了。終わり。もういいやっていう輩。
アタシャそういう輩にだけはなりたくねぇのだ。
そんな一遍読んだからってわかるような優秀なアタマを持っていないからだよ~ん。
所詮、鈍才。バカ丸出しである。そもそも一介の田舎教師であったし。田山花袋のようなことはやらなかったケド。
塾でも気がついたことがある。
それは英語。
英語の大学受験用の問題集を解いていて、それでもって満足してしまうタイプの高校生。それなりの進学校に行っているから余計そうなんだろうけど、一度解いたらそれっきりというタイプの高校生。
そりゃアカンといつも言っているんで。
余計なことかもしれんけど。
やっぱり「繰り返し」で勉強するしかないということを思っているし、実践してきたし、しつこいほど生徒たちには言っている。
それがジイジの遺言でもあるからだ。
特に、塾の高校生たちはこれから大いに伸びて行かなくちゃならん若者である。
普通に育って、普通に社会貢献をしてほしい。そう思っているからである。
文学の世界にのめり込んだりしないほうがよろしい。蟻地獄になっちまう。異常な世界で自己満足していて、それがなんになるのだとマジに思っているからである。
そういう意味で、村上春樹とか夏目漱石というのは反面教師になるということである。
今日も暑いのだろなぁ~。
仕方ないか。
それでも元気にやっていきまひょ。
お互いに。
日曜日だからといって遊んでいたら話になりませんぜ。
もっともこりゃオレに言っているんですが。大笑いですがねぇ~。
(^_^)ノ””””