本格的に学ぼうって思う
英文法解説(金子書房)という学習参考書がある。かなり分厚いものである。私の愛用書である。古本チェーンから買ったが。これを高校生、しかも受験に熱心な高校の生徒に勧めている。つまり本格学参である。いろいろと親切な学参は多くて、中には努力しないでも高得点がねらえるとうたった学参もある。またチャート式学参が好例なんだろうけど、解法のコツを簡単に入手できる学参もある。それはそれでいいのかもしれない。
しかしである。進学指導でそれなりの高校なら、本格学参を入手して勉強するのもいいと思う。
ところが、かなりの進学校でも高校生は嫌がる。なんでかと思ってきた。
サブノート中心主義だからである。要するに面倒なのだ。時間もかかるし。
しかしである。いくらノートにとっても、片っ端から忘れていくようでは話にならない。
英語も、国語も「繰り返し学習」が基本であって、これをやらないとアタマに入ってこない。記憶できないようでは、進学校に学んでいる資格がない。私は、経験上そう思ってきたから、本格学参も勧める。そうやってそれこそ本格的にやらないと、真の意味での実力はつかないと思っている。
本格学参を読破するコツもある。
それはバラバラにしてしまって、薄くしてしまうことである。思い切って。ホチキスで綴じて、クリアファイルを本のサイズに切ってしまうのである。それも表紙として、あるいは裏表紙として綴じてしまう。そうするといつまでも原形をとどめることができる。ハードな使い方にも耐えられる。それを持ち歩いて、いつでも見られるようにしておくのである。
しかも、プロッキーという裏うつりのしないマジックを(このプロッキーという製品以外だと裏まで染み通ってしまう)使って、大胆に自分用学参を作ってしまう。
要するに、学参を買っても、読まない、飾っておくだけでは、話にならないからである。
「繰り返し」やることが実に大切であると思うからだ。昨日の塾でもそれを強調してきた。スーパー進学校である居住地に近い某S高校の生徒にも指導してみた。
ま、こんなことは私の卒業した高校では全くの常識であったから、劣等生で有名であった私ごときでは語る資格もないのだけれども。
劣等生にならないようにするにはどうしたらいいかという観点から語ることはできるのだがねぇ~(^0^)。
そういうのは大得意であるから。
わはははっははっははっはは
それにしても、現代の若者たちが読書をしないというのはホントウだろうと思う。
てっとり早いのである。なんでもかんでも。インターネットで調べることが学習になっているんだから話にならない。そこからがスタートであるのに、である。
文学だって、「繰り返し」読むから身になる。
日頃、あれだけ村上春樹を毛嫌いしていると発言している私ですら村上春樹をそれこそアナの開くほど「繰り返し」読んでいる。
一度でアタマに入ってこないからだ。
ストーリーを知ればいいというのでは読んだ事にはならないからである。
そりゃ、村上春樹の文章は簡単である。しかし、彼がなにを言いたかったのか、文章の底にあるものはなにかと考えはじめるとこれは容易ならざる作家であるということはわかる。ま、あまりにも現代風な恋愛観とか、薄っぺらな教養をひけらかす点、多くの女性遍歴というもの、精神の異常をきたしているような登場人物のことは別としてである。
だから「繰り返し」読んでいるのである。
漱石もそうだ。文体自体は簡単である。しかし、底の底に流れているものは、容易ではない。
評論しているばかりでは、本格的に文学を理解したことにはならない。しかも、それを「研究」して大論文に仕上げて、博士になるということになると、殆ど不可能である。もっとも私のような阿呆が言う事ではない。そういう世界で生きる方々は、覚悟の上で大論文を書いているのだろうから。
ちょっとした理論研究をやったところで、大論文は書けない。それが文学研究の本質というものであろう。
中国語でもそうである。
中国古典を知っているかいないかで、中国語のセンセの実力がよーくわかる。自分の国の古典を知らないで、他人に教えている場合が多々あるからである。マジにである。
日本人であれば、古典の素養がまったくないのに、口語だけでもって日本語教育を語っているようなものだ。ましてや、中世文学、古代文学を云々する場合に、古文書の素養無しでもって国語の授業をやっちゃいけねぇと、ワタシャ思っているからだ。
極端かも知れない。
しかし、私はそういう意味では謙虚である。だから教える機会がない。受験国語ならできる。そんなのはちょっとした進学高校に行ったら誰でもできる。
そういうものである。
そういうもの。
(^_^)ノ""""