紙芝居紫織屋「五重塔」(語り・川尻亜美)原作/幸田露伴
それこそ「本格的ラジカル・ジー様」は嫌われる
若い人にラジカルなことを依頼すると、ボク(ワタシ)には未来があるから、将来があるからやりませんとなる。たいていそうなる。体験上。過去の話しである。過去。
ラジカルと言ってもたいしたことではない。つまらぬことである。しかも対象はなんでもない。そんな経験をしたことがあったのだ。職業人であったときに。もっとも、ラジカルというのは、昨日のことをちょっとだけ変えるという意味だけで使っているのであるが。これに対して保守というのは、昨日のことを変えない、変えたくないっていう考えの人だろう。ただし、政治的には別である。保守と革新というのは、こういう意味でいうとゴチャゴチャになっている。憲法のことである。ま、政治は嫌いだからこれくらいにしようっと。
今は、在籍大学で、語学の指導をお願いしても、速攻で断られる。留学生にである。そりゃそうだ。私のようなヨレヨレと大学キャンパス内を歩いている爺(これでも学生なんだけど)に中国語でも教えてあげようかという若い人はいない。爺に教えていたら時間がもったいないからだ。それこそボク(ワタシ)には未来があるから、将来があるからやりませんなのだ。なにもタダで教えてくれとは言っていない。有料である。一コマ3000円でとお願いしてみたのだが、かろうじて中国人留学生の男子学生が応じてくれただけであった。去年。数回教えていただいたが、ホントに数回で終わってしまった。年金で暮らしているので、これ以上は払えないし。マイッタっけな。
ま、これももう経験することができない。ありがたかったよん。私の方がいなくなっちまうからだ。だから、感謝感激・雨あられであった。もう二度とこんなことを経験することもないだろう。古女房ドノに堅く禁じられているし。大学に通うと、ゴミ論文を朝から晩まで書いているし、じ~っと(じじ~いっとではない)ボロ机にしがみついて、病気になっちまうからである。
だから隠れてゴミ論文を書いてきた。そうなのである。郷土史の方である。書いたことのある人はわかるだろうが、興に乗ってくると何時間でも書けるのである。だからおもしろいのだ。書いていれば、オノレのミスもわかってくる。とんでもない論理展開をしていることもわかってくる。だから楽しいのである。
私だけの楽しみ、趣味、道楽でしかないのだケド。
昨日、郷土史の方の自称論文をDVDに焼いて、事務局に郵送した。書いた自称論文を印刷して同封もした。字数は、絞りに絞って16700字程度になった。規定では2万字以内となっているから、ま、いいだろうと思った。来月、レフリーで落選する可能性もまだ残されている。けれども、私の生きてきた証である。自己満足であるけど、それもまたよし。
その自称論文の最後にこう書いたのである。以下に部分的に紹介してみよう。
おわりにかえて
本稿であきらかになった点は、以下のとおりである。
鬼来迎と目連救母劇との間になんらかの関連があったということは、地獄巡りや、地獄破り、あるいは地蔵信仰や観音信仰との比較、また目連救母劇との比較によって、これまで看過されてきた鬼来迎の生成過程の一端があきらかになったということができる。
一方、残された課題も多い。そのうち二点だけにふれて、おわりにかえたい。
一点目は、筆者は中国・台湾で目連救母劇を実際に観劇する機会がこれまでなかった。文献資料としては、鄭 之珍著 『皖人戯曲選刊・鄭之珍巻:新編目連救母勤善戯文(中国語) (安徽古籍叢書第二三輯)』 黄山書社を最新の史料として得ることができたが、中国語学習の点でおぼつかなかった。
そのへだたりをどのようにしていくかということは、実地調査として中国福建省・台湾に行くことと、中国語の修得しかないことが今後の大きな課題である。
次に二点目としてあげられるのが、中世日本古典との比較である。関連する文献史料として『日本霊異記』や『今昔物語集』があるが、特に後者については、成立年代の点で先行研究に諸説あり、まだ精査を要する。
筆者自身は、いまだ十分な作業を積み重ねているとはいいがたい。あわせて今後の課題としていきたいと思う。
以上である。
以上終わりとしたいところだが、例によってまたダラダラと書く。
つまり、中国に行けなかったということである。台湾には、3月に行ってくるけれども。福建省に行けなかった。目連救母劇を見たかったが、できなかった。よって、実際に見ていないものを材料にしてあれこれとゴミ論文に書いていたのである。あふぉ~である。だから志半ばで在籍大学を去らねばならないという体たらくを演じているのだろう。バカもほどほどにしないといけない。
郷土史の研究誌にも連続で出していただけるわけにもいかないので、新たな発表の場を模索している。藝能史研究会にもエントリーするつもりである。6月に研究発表がある。しかし、場所が京都だ。
昨日、古女房ドノを誘ってみた。一緒に京都行きませんかって。ついては旅費もあ~たが払ってと言ったら、即、お断りであった。
むむむぅ・・・・・。
これは夜行バスで行くしかないかもしれない。体調を崩したから、きついなぁ。それはきつい。愛車cx5で行く?
冗談じゃない。それこそ途中で死んじまう。
思うに、私はラジカルな爺である。本当にそう思う。日々、変身していきたいのだ。「ヘ~ンシン」をしたいのである。これって、変身願望症とでもいうのかねぇ。昨日のオレは、今日のオレではないっていうのが好きなのだ。まったくどうしようもない。昨日は、昨日。今日は、今日。毎日変化していきたい。変化のない人生なんて、さみしいかぎりである。
ただし、髪の毛は変化しない。相変わらず、フサフサで・・・・はなく、その真逆である。つまり「ハゲ」である。しかも、坊主アタマである。スキンヘッドである。これだからモテないのだ。
わははっはははである。
もっともあれか。明日になったら、フサフサになっていたりして。それこそ「本格的ラジカルジー様」だよん。
さ、今日は朝から晴れている。
Walkingに行こう。
ルンルンと。
楽しいでっせ。これもまた。一緒にやりませんか?と申し上げても、誰もそんなひとはいないのだけれども。
途中の道ばたにいるお地蔵様が、微笑んでくれるだけだ。
ありがてぇもんだよん。
待っていてねぇ~、お地蔵様。(* ^)(*^-^*)ゞテヘヘ
なんでもそうだけど、特に死ぬときには
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