産まれたときから、自分は自分
フリーターということがやかましく言われて久しい。良いとか悪いとか言って、マスコミを中心として実にうるさいくらいである。まるで、フリーターをしていること自体が悪いことであるかのように言われる。
しかし、よく考えてみたら、フリーターというのは若者だけを対象にしている。つまり、私のような爺は対象外である。
何故か。
就職していなければフリーターだというのだ。だから、私もフリーターである。働いていてないからだ。アルバイトはしているが。
フリーターは、自分捜しをしているから悪いという論法もある。あっちふらふら、こっちふらふらだからいけないというのである。
確かに、自分捜しの旅をしているというのはいかがなものかとは思う。
そこには自分というものについて、尊大な自意識が存在しているような気がするのだ。自分こそ最高、自分こそエライ、自分こそ社会の変革者であるという意識が存在している。だから演技をする。下手くそな、田舎芝居の類いをする。まるで、この間まで、政権交代とかしきりに喚いていた某巨大政党みたいな、パフォーマンス優先の生き方である。
世の中そんな甘いもんじゃおまへんでっせ。
我々日本人というのは、世間を重視して、微妙なバランスの上にのっかっている民族である。我々という言い方が悪いのなら、私だけと言い換えてもいいけれども。
世間重視であり、バランス重視だから、幾たびもあった危機を乗り越えてきたのである。戦争もそうだった。太平洋戦争の後は、実に危うい危機であった。戦争をしかけて負けたのだから、どうなっても不思議ではなかった。それが、生き残っている。しかも、経済発展をした。政治体制の看板まで取り替えてしまった。八紘一宇から、戦後民主体制にである。
さらに、対戦相手であった海の向こうの超大国にべったりである。まるで属国のようである。しょうもない。負けたのだから。
ま、政治のことは嫌いなので、これくらいにする。
本題に戻ろう。
フリーターというのは、戦後日本と似ていると思う。
看板をすぐ付け替えるようなものだからだ。だから、いつまでもフリーターでいる必要も無い。その看板もいくつもあっていいのである。
しかし、重要なことを勘違いしている。
それは自分というものがどっかにあって、永遠不滅であると思っている点である。自分を確立するために、どっかに本当の自分というものがあって、それを探しているっていう寸法である。
だから、組織を軽蔑する。
のみならず、組織から、離脱しようとする。
あるいは、上司や組織を逆評価しようとする。
オノレの評価はこんなもんじゃねぇ!とかつぶやくわけである。
そもそも、自分の評価なんて、自分で決められるわけもない。他人が決めるのである。上司が、組織が決めるのである。このことを忘れてはならないのである。
ここのところ忘れているから、道を間違うのだ。
間違ってはいけない。
逆評価していたら、職を失いかねない。飛び出したら、職を失い、食料も失う。自分捜しをしていたら、そういう道を歩む可能性もある。我慢して、定年まで仕事をせよと言いたい。自営業なら、生きているかぎり仕事をしたほうがいい。
どっかに本当の自分があるという勘違いをしてはならない。
そんなもの、どこにもないのだ。
自分は、自分。
産まれた時から、自分であったのである。
以上、終わり。
(^_^)ノ””””