テレビの内容も、新聞も
いつも思うのだが、教科書検定はあっても、新聞やテレビにはその類いのものはないのがまか不思議である。去年有名になったのが、あの巨大新聞の記事である。さらに、その巨大新聞が経営している某テレビ局もちょっと怪しい報道をしている。
まるで、上から目線のご託宣をしている教祖様のような案配である。自称エリートだからしょうがないのだろう。なんにも知らない庶民の私なんぞをご指導くださるのだから、ありがてぇと思えと言われているのだろう。
感謝しなくちゃならんのだと思うことにしている。一応は。
そうなのである。一応はそう思っているだけである。一応。
本心は、信用できねぇと思っているだけである。
天下の国営放送だって、同じアナの狢であるとも思っている。全部が全部絶対的真理を放送しているわけではないだろうに、天下の国営放送だから間違いはないと思っているのが、私のような教養も地位もまったくない爺である。
しかしだ。いつもテレビを見ていて笑っているのだが、「明日の天気はなに?」と家のものに聞くと、「明日は晴れるってよん。だってNHKが言ったのだから」という会話である。私は黙るしかない。天下の国営放送である。まるで論文の引用文献みたいに、そのうちなっていくのだろう。なにしろ権威があるからなぁ。わははっはは。
そしてその明日がくる。
朝から雨が降ると、「天下の国営放送が言ったのだから、雨が降るのはおかしい」とか文句が始まる。
こいつは実におかしい。
呵々大笑である。
なぜか。天気予報なんてもんが当たるわけがないじゃないかってことを、基本的にふまえておかないからである。しかも、一日のうち何回も天気予報を見るのだから笑うのである。民放の天気予報も見る。
そのうち株価の予想もしてもらって、国民全員が大もうけしたら楽しいだろうなぁとも思う。国営放送が一番外れたりしたら、受信料を払うやつはいなくなるのではないのかと危惧している。
そうなのだ。
私は国営放送の大ファンであるからである。
ためになる放送が実に多いではないか。古典番組も実にいいのが多い。しかし、私は天気予報を見ない。九十九里海岸は、ちょっとよその土地と違っているからである。ま、あまり気にしないという方が当たっているか。
で、本題に入る。
現代の子どもたちが、どれだけの時間を費やしてテレビを見ているのだろうかということである。
もしかしたら、学校で教科書を見ている時間よりも多いのではないか。
教科書は家でも見ることがあるかもしれない。宿題があったら見るだろうに。
そうでもないのかな?
すると影響力という観点からは、教科書よりもテレビの方が圧力が強いのではないかということを考えるのである。
しかも、テレビはあまり考えなくてもいい。受け身で見ていれば、情報は伝わってくる。一方通行である。テレビを見ながら、ノートでもとっていればいいけど。たいていは流して見ているだろうと推察する。
情報というのは固定されているから、情報であって、あちこち比較をして考えることをしなくて済んでしまう。つまり、いろいろな文獻を比較して、一つの結論にたどりつかなくても、テレビとかパソコンやスマホの画面を見ていればいいのである。それは勉強しているというのとは違う。考えなくてもいいというのは、ただの機械でしかない。
ここに危険があるのである。
NHK曰わく、日テレ曰わく、フジテレビ曰わく、テレビ朝日曰わくということのオンパレードではいかがなものか。
だったら、テレビの放送内容だって、危ない、危ない。
教養の無い、愚かな私なんぞ、うっかりだまされるところだったよん。
もっとも、教科書検定というのも、ちょっと疑問があるのだけれども。
今日は南国の房総も朝から寒風が吹いている。そんな中でも、私はwalkingをやってきた。60分くらい。
さ、テレビでも見ながら、昼食をいただこうか。
(^_^)ノ””””