論争で批判していいのは相手の文章であって、人間ではない。
人間はもっと奥深いものであって見通せるものではない。
この場合、人間という概念の中心は「意図」である。
意図の悪さを批判するというのは、大変な難事である。
宇佐美寛先生のこのような文章を拝見して、一人で感心しておりました。
「読み書きにおける論理的思考」
20年くらい前に読了した本でした。校長室に置いてあります。
つまり、上記のようなことで失敗する方が多いからです。
論争をするのに、宇佐見先生の思考方法は貴重な示唆を与えてくれます。
印象批評をしてはなりません。
よくいろいろお聞きすると、印象で他人を評価している人が多いからです。印象でどうだらこうだら言うのはだれでもできますからね。
それをやられるとわたくしなどは、好印象のまるっきり反対。
それでいちいち批判されたらこりゃたまらん、ですからね。
(笑)
何が言いたいかと言いますと、もっと考えてものを言いましょうということです。
声がでかい人ほど、その論理に隙ができますよ。
冷静にならないといかんというのは、そういう粗雑な論理を持たないということなのです。粗雑なあたまの持ち主のまま大人になってはいかんですぞ。論理的に破綻してはいかんのです。
高校時代にはそういう視点から自己を鍛えるべきです。
流行ばかりを追いかけて、自堕落に毎日を過ごしてはならんですぞ。キレたとか、なんとかとか感情的になって反社会的行動をとっておる暇があったら勉強しましょう。読書しましょう。古今東西の古典に学びましょう。
まだまだ諸君たちくらいの経験ではいっぱしの専門家を気取ることはできません。ですから県銚の先生方に大いに学ぶべきです。
ちょっと難しいですかな?
こんなことをわたくしは、高校時代に教えていただいたものですから。大秀才の先生方に。今でも遠く足下にも及びません。そんなことを教えていただくことが、要するにその学校独自の文化なわけであります。
以来、ずっと象さんのようにどしんと構えている人を見ると恐ろしくなります。
ま、これも印象批評をしているのかもしれませんが。根拠がないという点で。
在校生でこんな学問をしてくださる方、おりませんかと思いつつ。
生活の役に立つ学問ばかりではありませんから。そういうのを実学と言っているんです。それはそれでけっこうなことです。
されど、なかには抽象論をやる方があってもよいと、ずっと思ってきましたので。
正直言えば成果が目に見える形で残る学問ばかりではないとホントウに思うからです。あまり成果ばかり追求すると、結局は全員が最後は死ぬ運命にあるのにとわたくしの母校の高校の校長先生がHPに書かれていたので、昨日それを拝見して非常に納得いたしました。さすがに、大秀才。おっしゃることが違う。
わたくしも内容のあるBLOGを書いてみたいものだと思った次第です。なかなかできない相談ですが。才能がなくて。才能がないというのは、これは大いなる根拠があるわけです。自分でも認めるわけですからね。
(^0^)/
でも、在校生諸君は大いなる可能性を持っておる。
これからの県銚がどのような伝統文化を構築するのか、それを見届けてから人生におさらばしたいものだと思っています。にこにこ笑いながらです。
楽しみです。
楽しみです。
人間はもっと奥深いものであって見通せるものではない。
この場合、人間という概念の中心は「意図」である。
意図の悪さを批判するというのは、大変な難事である。
宇佐美寛先生のこのような文章を拝見して、一人で感心しておりました。
「読み書きにおける論理的思考」
20年くらい前に読了した本でした。校長室に置いてあります。
つまり、上記のようなことで失敗する方が多いからです。
論争をするのに、宇佐見先生の思考方法は貴重な示唆を与えてくれます。
印象批評をしてはなりません。
よくいろいろお聞きすると、印象で他人を評価している人が多いからです。印象でどうだらこうだら言うのはだれでもできますからね。
それをやられるとわたくしなどは、好印象のまるっきり反対。
それでいちいち批判されたらこりゃたまらん、ですからね。
(笑)
何が言いたいかと言いますと、もっと考えてものを言いましょうということです。
声がでかい人ほど、その論理に隙ができますよ。
冷静にならないといかんというのは、そういう粗雑な論理を持たないということなのです。粗雑なあたまの持ち主のまま大人になってはいかんですぞ。論理的に破綻してはいかんのです。
高校時代にはそういう視点から自己を鍛えるべきです。
流行ばかりを追いかけて、自堕落に毎日を過ごしてはならんですぞ。キレたとか、なんとかとか感情的になって反社会的行動をとっておる暇があったら勉強しましょう。読書しましょう。古今東西の古典に学びましょう。
まだまだ諸君たちくらいの経験ではいっぱしの専門家を気取ることはできません。ですから県銚の先生方に大いに学ぶべきです。
ちょっと難しいですかな?
こんなことをわたくしは、高校時代に教えていただいたものですから。大秀才の先生方に。今でも遠く足下にも及びません。そんなことを教えていただくことが、要するにその学校独自の文化なわけであります。
以来、ずっと象さんのようにどしんと構えている人を見ると恐ろしくなります。
ま、これも印象批評をしているのかもしれませんが。根拠がないという点で。
在校生でこんな学問をしてくださる方、おりませんかと思いつつ。
生活の役に立つ学問ばかりではありませんから。そういうのを実学と言っているんです。それはそれでけっこうなことです。
されど、なかには抽象論をやる方があってもよいと、ずっと思ってきましたので。
正直言えば成果が目に見える形で残る学問ばかりではないとホントウに思うからです。あまり成果ばかり追求すると、結局は全員が最後は死ぬ運命にあるのにとわたくしの母校の高校の校長先生がHPに書かれていたので、昨日それを拝見して非常に納得いたしました。さすがに、大秀才。おっしゃることが違う。
わたくしも内容のあるBLOGを書いてみたいものだと思った次第です。なかなかできない相談ですが。才能がなくて。才能がないというのは、これは大いなる根拠があるわけです。自分でも認めるわけですからね。
(^0^)/
でも、在校生諸君は大いなる可能性を持っておる。
これからの県銚がどのような伝統文化を構築するのか、それを見届けてから人生におさらばしたいものだと思っています。にこにこ笑いながらです。
楽しみです。
楽しみです。